Conditions(条件)
帰宅した所を出迎えたのは、梓の疲れきった表情と、ボンヤリと焦点を結ばない加藤の視線。溌溂と玄関まで迎えに出たのは俺ひとりという有様だった。
「おかえりなさい」
張りのない梓の声に、所が軽く頷く。帰宅を待つ間、梓の観察対象となってバイタル(生体兆候)の検査に付き合い、途中からは俺が主導となって能力把握の実験を始めた。その頃、やっと目覚めた加藤は、かなりの量を盛られたようで頭痛を訴え、梓からバファリンを受け取ると一瞬の躊躇もなく嚥下した。
『ひとぉつ、調査員たるもの、痛みや空腹が警戒心を上回っちゃダメじゃん』俺はそう思ったが薬のせいで本来の思考が滞っていたのだろうと好意的に解釈してやることにした。
ESPカードの図柄当ては、梓が手に取って認知したものに関しては百パーセントの正解率だが、テーブルに伏せ梓も見ていないものを当てる段になると、せいぜい半々の確立まで落ち込む。六割の正解率を記録した梓を『超能力者なんじゃないか?』と言ってからかうと、彼女は大きなため息をついたものだ。
ダイス程度の質量を動かすことも不可能。大気中に漂う静電気を駆使して初めて本のページがめくれる程度だ。ずいぶんとシケた超能力もあったものだ。
《たった、これだけ?》
オイラーズの回答は深く大きな肯首のみだった。
「CTは明後日だ、うちのMRIは調整中で来週までかかると言われたんで、MRAとSPECTと一緒に大学病院に頼み込んだ。明日だぞ、いいな」
「SPECT? 脳血流シンチグラフィーか、嫌だと行っても連れて行くんだろう」
所はテーブルに積み上げられた学術書にちらと目をやる。
「協力してくれるんだろう? 公正な入札と引き換えに」
磁気のトンネルと潜水艦のソナーみたいな音はゾッとしなかったが、松井君の人懐っこい笑顔が浮かんで俺は首を縦に振らざるを得ない。この交渉上手めと、内心で所に毒づいた。
梓と加藤の様子をさして気にもとめず、とにかくモルモットが逃げてなければ安心、といった様子で嬉々として語る所を見て、用心深さと楽観主義は相反するようで両立するのだということを俺は知る。
「しかし、そのどれでも神経細胞のひとつひとつを見分けることが出来る訳じゃないだろう」
「まあな、お前の許可があれば頭を開かせてもらうんだが」
「嫌なこった」
俺の頭をかっさばく期待を隠そうともしない所の物言いは、尖った感情の消えた俺でも勘に触る。所がちらちらと腕時計を眺める。そろそろ切り札の無効を告知してやってもいい頃だろう。
「薬効が切れる時間が心配か?」
「なっ、何で知って――何を言っている」
所の表情からうすら笑いが消えた。
「レポートは読ませてもらったよ。四十一番目の神経伝達物質だろう、俺に投与したのは。アルファSAか、大仰なネーミングをつけたものだな」
所は、梓に叱責とも問い掛けともとれる視線を向けるが、彼女はただただ首を横に振るだけだ。
「加藤さん、今日はもう結構ですから。お約束のものは明日にでも振り込んでおきます」
この先、実験の本質に触れることなく会話を進めることが不可能だと判断したようだ。まだボンヤリとしたままの加藤を追い立てるように、所がリビングのドアを開いた。
「まあ座れよ。今日一日でわかった俺の変化について、出来る限りの説明をする」
俺は警戒心の塊となった所から梓へと視線を移す。
「重複する部分もあるが、二人で聞いてくれ。先ず初めに、俺の脳内の神経細胞は一切増加していない」
「ばかな……」
呻くような声で身を乗り出す所の肩を梓が押しとどめた。
「本人が言ってるんだから間違いない。単一の命令をこなしていたオイラーズ……俺のニューロンの別称だ。彼等が複数の役割を信じられない速度でこなすようになり、サボッていた連中にも奮起を促した。神経細胞が増殖するなどといった考えはお前の仮説だろう? ラットでもサルでも立証は出来ていないんだからな」
「それは薬効が切れた後の解剖だったからだ」
「科学者であるお前が、そんな夢みたいな話を信じているのか?」
所は小さく唸って押し黙った。
「そして大事なのはここからだ。どうした訳か、俺には電位の変化が見えるようなり、それを操ることが出来る。電位イコール脳波、すなわち他人への意思介入が可能になった。俺がすんなり逃げ出せたのは催眠術なんかじゃない。梓は薄々気づいていたようだがな。そし、大気中の静電気や電磁波、電子機器の発するそれも操作出来る。これは今日の実験で立証済みだ。梓に聞いてみろ」
「ええ、どうやら本当みたいなの」
夢は否定しながらも突飛な展開を見せる俺の話に、興味を抱くべきか落胆すべきか、どっちつかずな表情をしたまま、所は再び腕時計に目をやる。
「薬効は切れんよ。より正確を期すなら〝切れないようにプログラムし直した〟と言おう。脳波が操作出来る俺だ。元々脳内にある物質の精製も分泌の調整も可能だと思わんか? 話を戻そう。電位を発生する神経細胞の数に変化はない。それはオイラーズがそう伝えてきている。それでもこれほどの変化をもたらしたんだ。仮説は間違っていても効果は確かにあった。副産物はともかくとしてな」
切り札を見透かされた上、無効が確定的となった所は愕然としていたが、思い直したように食い下がってくる。
「だとしたら――」
「いや、俺は認めない。これは正常な進化じゃないからだ」
所が言おうとしたことばど全て聞かずともわかる。俺は即座に拒絶した。
「お前には、正常な進化の形が見えると言うのか」
俺はその問い掛けには答えず、ひとつの提案をした。
「なあ所、P300Aは適正な投薬量がわかれば、高い確立でアルツハイマーや鬱病の画期的な治療薬になるんじゃないか? それだけでもノーべル賞ものだろう。投薬の手法も見直す必要がある。ファイルを読むまでは経口服用かと思ってたんだがな。鼻腔からカテーテルで側頭溝に直接噴霧というのは野蛮だ。脳が覚醒した時のあの痛みだけで死ぬかと思ったよ。どうだ、そこらで手を打たないか? それなら俺も全面的に協力する」
所は再び梓を責める目で見るが、当然の如く彼女はやはり首を振るしか出来ない。
「梓はファイルを見せてくれてないよ。後で調べてみろ、お前のパスワードでしか開けないファイルの内容だろう? 俺が話していることは」
今度は梓が驚いた顔で所を見つめた。気まずさを押し隠し、所はこう言った。
「お前は科学者の貪欲さを知らない。電位が操作できるほど進化した脳を看過する訳には行かんのだよ。全面的に信じてはおらんがな。どうだ? 俺に試してみろよ。その力で俺に実験を諦めさせてみろ」
「わからんヤツだな、これは進化じゃない。悪魔の副産物だ。誰にも同じ変化が現れるとは思えないんだ。俺はまだお前らを友人だと思っている。その友人の意識を操作することは、自分の命が懸かっていない限りしないと決めた。アシモフのロボット三原則みたいなもんだ。それと電位の操作に継続性はない。お前の意識が実験に向いている限り、お前は何度でもそこへ舞い戻る。諦めさせるにはお前の脳を破壊するしかないんだ。俺はそんな真似はしたくない」
所と梓に戦慄の電位が生じていた。
「上手く逃げたものだな。しかし証明出来ないものを信じる俺だと思うか? とにかくお前は協力を呑んだんだ。明日は付き合え」
怯えを包み込んで所は続けた。この場の議論は平行線を辿過るばかり。俺は長期戦を覚悟した。
「説得は諦めんぞ」
「俺もだ。梓、風呂の用意を頼む」
疲労の色を増した梓が重い腰を上げ、一度、俺達を振り返ってからドアの向こうへ姿を消した。