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P300A  作者: 山田 潤
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伊都淵孝之(いとふちたかゆき)

 地域医療の現状は慢性的な医師不足により縮小傾向にあると聞くが、この病院に限ってはそれも当てはまらない。常にベッドは万床、病室が空くのを待つ患者がストレッチャーに乗せられ廊下に列を成していたことを、二年前に亡くなった父が入院した時に僕、伊都淵孝之いとふちたかゆきは見てきていた。

 ベッド不足を解消すべく野放図に増築を繰り返した結果、良く言えばケルト族が女神のシンボルとして崇めた五芒星形、悪く言えば方々に触手を伸ばしながら肉体を蝕み続ける腫瘍にも見える。建物は異形へと変化を遂げていた。

 九月の太陽が駐車場のアスファルトからゆらゆらと陽炎を立ちのぼらせていた。そのゆらめきの向こう、厳然と佇むそれは悪意に満ちたオブジェのように僕を萎縮させる。

「ここは業者とCE(医療技術者)が、がっちり結びついてますからね。うちが入り込む混む余地なんてないんすよ。課長も無理なことを伊都淵さんに押し付けたもんだ」

 先輩社員――といっても僕より七つ年下の松井良太君が明るい声を上げた。

「露ほどの可能性でもあれば、それに賭けてみないと。いつまでも給料泥棒と呼ばれてる訳にも行きませんしね」

「あ、いつも言ってますけど、敬語じゃなくっていいっすよ。俺の方が年下なんだし」

 課長の嫌味の対象とならないだけの営業成績をこの松井君は上げている。その彼が、七~八年前とはいえ機器納入実績のあるこの病院を僕に紹介してくれようとしているのだ。言葉だけでも丁寧にならざるを得ない。松井君が続ける。

「まあ、ビギナーズラックってこともあるっすよね。瀬戸さん、まだ居るといいんだけどな」

 数年前のリーマンショックから、ようやく立ち直りかけた我が国を未曾有の大地震が襲ったのが半年前。多くの地域産業に甚大なダメージを与えたそれは、この国の経済を根底から揺さぶった。当時、僕が勤めていた機械設計の会社も例外ではなく 『うちの商品は技術力だ。サプライチェーンの寸断や八百キロ彼方の被災が我が社の業績に影響を及ぼすことなど有り得ない』 と、高をくくった三代目社長の強がりも虚しく、関連倒産の憂き目を見ることとなった。

 某自動車メーカーCEOが語った 『我々はこの地を見捨てない』 に、この中部地方は含まれていなかったのだろう。それに実際は彼の言葉も額面通りではなかったようで、多くの生産業務は北米やヨーロッパに移されたと聞いている。フランス人であるはずの彼の迅速なアクションは、放射線被害に対して神経質過ぎるのではないかと思われたのだが、もしかすると原発大国のフランス人である彼だからこそ、環境汚染数値の示す意味を知り尽くした上での判断だったのかも知れない。

 妻と二人の娘、更にはマイホームローンを抱えた僕だ。のんびり条件の良い職探しをしている余裕などなかった。しかし腕に覚えのある機械設計は軒並み雇用が厳冬期。仕方なく国が推進する職業訓練を受け、斡旋された数軒の企業を訪問したものの 『即戦力でないと……』 とシュミレーションのみが実績の即席エンジニアに狭き門が開かれることはなかった。直接的対価の要求なしで職業訓練を受けさせていただいて文句は言いたくないが、この国の施策はいつも少しズレているように思う。求人募集ゼロのネイルアーティストコースを選んでいた人々は一体どうなったのかと、他人事ではあったが若い女性達の行く末を案じてしまう。政府及び関連官庁はデンマークのモビケーションシステムを見習うべきなのだろう。

 結局、義兄の義弟――平たく言えば赤の他人なのだが――その伝手でなんとか潜り込んだのが、この医療機器の販売会社だった。

 頑健な体に生んでもらった両親には感謝すべきなのだろうが、その反面、入院はおろか骨折の経験さえない僕は、医療にも病院にも全くといってよいほど知識がない。白衣を着ていれば医者か看護師なのであろうとの乱暴な分類しか出来なかったのだ。臨床医と病理医の違いどころか、技師との区別さえつかない。機器を売り込もうにもその窓口がわからないのだから営業成績はいつもグラフの右端に陣取っている。たった一センチの青い帯は、松井君のおこぼれに預かったものだった。

 企業というものは、退職金の高騰対策と福利厚生費の節約のため、基本給を低く設定することに腐心する。売上イコール生活のゆとりに直結する営業職に於いて、競争相手は一人でも少ないに越したことはない。そして技術畑のみを歩んできた僕は、概して営業畑の人間とは折り合いが悪い。その僕が営業職に就こうというのも皮肉な話だった。

 好転の兆しが見えない不況と震災による消費マインドの停滞で、ただでさえ売上の伸びない時期に途中入社してきたド素人を既存の営業マン達が快く思うはずはない。例えマグレでも僕がどこかに何かを売れば、それは彼等のパイをひと切れ奪ったことになるのだ。 畢竟、僕の立場は営業所内で孤立して行った。ただ、この松井君だけは何故だか僕に親切だった。きっと今や珍しい存在となった気のいい青年なのであろう。僕の首がなんとか繋がっていたのは、間違いなく彼のお陰だったのだ。

 しかし彼とて生活がかかっている。大量の取引があった時でもなければ、そうそう営業成績の横流しもしてはくれないだろう。このまま数ヶ月が過ぎれば折角手にした新しい職を失うことにもなりかねない。機械設計以外、何の取り柄もないアラフォー男に世間の風が冷たいことは、四ヵ月前のハローワーク通いで嫌というほど思い知らされていた。再び失職するようなことになれば(大変、失礼な言い方だとは思うが)警備会社のガードマンとなって、ひたすら誘導棒、若しくは紅白の旗を振る業務に明け暮れることになるのだろう。誰かを応援している場合ではないというのに。

 建物の圧力に怯んでいる訳には行かない。僕はビジネスバッグを提げた左手に力を込めた。


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