Claimmer(クレーマー)
ゴシック文字で〝井ノ口市女上下水道部〟 と看板の描かれた白いパネルバンに乗り込む。ご丁寧にも全ての窓を締め切り全てのドアを施錠した車内の空気は不快感の密度を上げて澱んでいる。俺は冷房が効きだす前に、不快感伝達回路の接続を弛めた。
「窓ぐらい、透かせておけよ」
「頼むから、爺さんにつかみかからないでくれよ」
俺の苦情には取り合わず、嗜める口調で話す深尾の額には、玉のような汗が噴き出していた。
「任せておけって」
そうは言っても、妙案があった訳ではない。人間同士なんだから話せば分かる。何とかなるさ的行き当りばったりな便法は、学生時代からの俺の専売特許であった。
「遠いのか?」
「二十分ぐらいかな、県庁の方なんだよ。あっちはクレーマーが多い地域でな、よく足を運ばされる。急ぎの現場があってすぐには行けないと言うと、あちらからおでましになる。朝の十時に来て夜の八時まで居るんだぜ? 相手をさせられるこっちに身にもなって欲しいよ」
「へえ、その爺さん、飯はどうしてるんだ?」
「俺達の目の前で弁当を広げて、お食べになられるさ。だからこっちも席を外して食事にしますと言うと、公僕なんだから我慢しろと曰われる。お茶を運んでくるふりをして給湯室で飯をかっ込むんだ」
あははと、声を上げて笑う俺に深尾は咎める目になった。
「大変だな、苦情処理も。ストレスばかりでなく早飯でも消化器官に負担を強いられるってことだ」
「なあ、頼むから爺さんにつかみかかるのだけは止めてくれよな。お前ら一般企業の人間と違って、俺達は何かにつけて大騒ぎされるんだから。石田の奴、お前らは潰れないから気楽だの莫大な退職金が待っているから我慢しろだの好き勝手言いやがる。見せてやりたいよ、俺の仕事を」
深尾の心配はその一点に集中しているようだった。しかし一般企業でも暴力沙汰は看過されるはずがない。少なくとも民間の倍は生涯賃金を稼ぐ公務員だ。そのくらい我慢しろよ、と俺も言いたくなったがやめておく。
「客観的事実を伝えてやるよ。これから行くのは、弁当爺さんちか?」
「いいや、また別の爺さんだ」
深尾の顔は悲壮感に包まれていた。笑って悪いことをしたなと、俺はほんのちょっぴり反省した。
「遅いっ!」
玄関に立ちはだかる老人は七十代後半から八十代前半といったところか。背筋はピンと伸び、真っ白になった髪をきれいに撫でつけている。正に〝矍鑠とした〟 がピタリと当てはまる活きのいい――は変か――お年寄りだった。庭掃除でもしていたのか、箒と塵取りを手に仁王立ちするその姿は 『武蔵はまだか』 と、憎むべき役所との決闘に臨む佐々木小次郎然としていた。と、言ったらこれまた言い過ぎだろうか。
数寄屋造りの日本家屋は格式と威厳を漂わせる。深尾の伝聞通り、地域では頼れる世話役として上部自治体との交渉役を任されているのかも知れない。銅板製の表札には〝藤田〟と描かれていた。
「申し訳ございません。なにぶん、業務が立て込んでおりまして。全てのお客様のご要望通りには、なかなか――」
「時間が勿体ない、上がってくれ」
ジャブの差し合いは完全に深尾の負け。気圧され、老人に付き従う彼の両手は揉み手になってしまっている。
黒檀製のバカでかい座敷机を前にして、勧められた座布団に腰を下ろす。淡いグリーンの液体――お茶に違いはないだろう――を盆に乗せてきたそれを藤田老人は俺と深尾の目の前に置いた。
「ご立派なお住まいですね。こちらにはおひとりで?」
俺がそう訪ねたのは、奥方が居られるのなら主人が茶を淹れることなどなく、息子や娘が居たとして、この気難しさでは敬遠されがちなのではないかといった判断によるものだ。座敷に通されるまでの間をその調査に費やし、干されていた洗濯物がこの老人のものだけだったことからも見当外れではなかったろう。所が改造した俺の脳味噌は、特に意識せずとも控えた案件の準備を周到にこなして行く。深尾は『こいつは一体、何を言い出すんだ』と言った顔で俺の横顔を見ていた。
「いかんかね、ひとりでは」
老人が眉を吊り上げたのを見て深尾は首をすくめる。
「そうじゃないんです。私の買った家が、それはもうロクでもない代物でしてね。やはり日本に住むならこういった日本家屋が一番。そこに御子息が住まわれないとしたら勿体ないなと思ったんです」
老人の眉が下がる。べんちゃらのつもりではなく本意であった。木造・土壁造りの住宅は通気性も良く、家そのものが湿度を調整するという。点けっぱなしのエアコンや液化製品の断熱材が、地球温暖化に与える影響は少なくない。近代建築と文明の利便性に駆逐されつつある伝統に与する俺の判官贔屓みたいなものだった。
「最近の若い連中の考えは分からん」
「ご主人のお歳になられれば御子息もお気づきになられるでしょう。ですがそれまでの間、この家が悲しむでしょうね」
「家が悲しむ?」
「ええ、そう思われませんか?」
「面白いことを言う人だな、あんたも水道部の人間なのか?」
「いえ、私はこの深尾課長の友人でして。ためになる話を聞かせてもらえるから是非ついてこいと言われ、図々しくも同伴させていただいた次第です」
ためになる話というフレーズに老人の口元が綻ぶ。しかし次の瞬間、思い直したかのように老人の眉間に皺が深く刻み込まれた。
「上手いこと言っても誤魔化されんぞ。水が温いんだ、なんとかしてくれ」
「その件ですが、こう陽射しが強ければ配管の水は温まって当然です。少し出しっぱなしにしておくとかすれば良いのではないですか」
「水の温度が下がるまでの分を、市がもってくれるのか。東北では未だに水道が復旧していない地域もあると聞く。儂にそんな贅沢をしろというのか」
「計量器にそこまでの機能はありません。しかし、おっしゃることはごもっともです。被災地に方々への配慮、誠に痛み入ります。ぬるい水がお気に召さないのは何故なんでしょう? 風呂が早く沸いてガス代の節約にもなると思いますが」
「それじゃよ」
老人は俺達の前に置かれたグラスを指差す。
「夏は冷たい煎茶が美味い。死んだ家内はいつも水出しで煎れてくれた。飲んでみろ」
言われるままにグラスを口に運ぶ。馥郁たる香りと自然の甘味が口の中に広がった。美味いです。感じたままそう答えると、次はこっちを飲めと、老人は手元のグラスを差し出す。
「これは……」
先ほどのとは比べ物にならない。味に膨らみもなければ奥行も感じられない。水の温度だけでこうも違うのか。
「分かるか? 緑茶というのは低温でじっくり出すことで、甘み成分やビタミンCが壊れずに残るんだ。まろやかで深みのある、旨味たっぷりの茶を飲みたい、儂の願いはそれだけなんだ」
俺は考えた。多くの利用者を相手にせねばならない市の上下水道部にとってクレームと振り分けてしまう老人の主張は、彼にとって切なる願いである。ケチで水を出さないのではない、といった老人の言葉に嘘はない。ならば――
「井戸はどうでしょう。こういったお屋敷でしたら昔からのがおありではないですか?」
「家内が生きておった頃は、井戸水で煎れてくれたもんだ。ただアレが死んだ翌年に井戸も壊れてしまってな」
老人は悲しげに首を振った。
「水道がダメなら、それを直しましょう。おい、工具はあったよな」
交渉の場を俺に丸投げし、うつらうつらとしていた深尾の肩を叩くと、ビクッと跳ね上がるように立ち上がる。
「工具か? あるけどお前に直せるのか?」
「ああ、多分な」
夢現でも話の要点は押さえている、さすが深尾課長。機械設計の会社にいた俺にとって旧式の組み上げポンプの修理など雑作もないことだ。この老人のささやかな願いを叶えてあげたい、俺は強くそう思っていた。
「動いたっ!」
疑い深げに俺の作業を眺めていた老人と深尾が声を揃えて叫んだ。ゴボゴボと不機嫌そうな音でエアーと茶褐色の水を吐き出していた吐出口から澄んだ井戸水が勢いよく流れ出すと、老人の目に歓喜の色が浮かんだ。ポンプが動かなかったのは圧力スイッチに異物が溜まっていたのが原因だったのだが、モーターのブラシもかなり減っている。型番をメモして以前の会社で取引のあった業者へと深尾を走らせた。
「モーターも修理しておきます。昔の機械は頑丈ですね。人間もこうありたいものです」
老人の瞳がこころなしか潤んで見えた。亡き細君との思い出らしき波形が次第に上品な老女を象っていった。
「茶をもう一杯、如何かな」
「いただきます」
老女の輪郭は、背を向けた藤田老人の内へと溶け込んでいった。
「良かったな、早いとこ片付いて」
「伊都淵のお陰だ。そのうち一杯奢らせてくれ」
「見直したか?」
「ああ、しかし上手くあの爺さんを丸め込んだもんだな」
「丸め込んだ? そう思ってるならお前の仕事は当分、苦労が続くぞ。新たなクレームが発生する度に梓の助言を仰がねばならんって訳だ」
「おいおい、褒めてるのに何拗ねてんだよ」
尖った感情が消えてしまった俺の口調に怒気は混じらない。深尾には単なる不平だと感じられたようだ。
「藤田さんの言い分はクレームなんかじゃなかったろう。耳を傾ける姿勢があれば分かったはずだぞ。先入観が真実を見極める目を曇らせるんだ」
「あのな、文句を言おうが言うまいが水道料金は同じなんだ。だったらすんなり払ってくれる客の方が有難い。俺の考えは間違っているか?」
やれやれ、こいつも否定疑問文か。これを使う連中は自分に余程自信がないか、日本語に疎いかのどちらかだ。
「あちらへお邪魔しなきゃ、美味い冷茶の淹れ方を教われなかった。姨捨の寓話を知っているだろう。老人の経験や知恵というものは、文明や科学をも超越してしばしば人の魂を救うことだってあるんだぞ」
「へえ、そんなもんかねえ。しかし、お前は変わったな」
信号が青に変わって深尾は視線を前方に戻す。上機嫌な彼の顔を見て、こいつが俺の言ったことに気づくには、もう暫く時間がかかりそうだと思った。