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P300A  作者: 山田 潤
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Reunion(邂逅)

「朝食の礼はしたぞ、起きろよ。梓ってば、お客さんみたいだぞ」

 梓は俺に覆いかぶさったまま、すうすうと小さな寝息を立てている。徹夜のモルモット対策緊急会議で睡眠不足だったところへもってきての怒涛の絶頂感、張り詰めていた緊張はポキリと折れてしまったようだ。インターフォンに繋がった画面にはチャイムを押す男の姿が映っている。

「お客さんだってば、起きろよ」「もう、ダメ。もう要らない」譫言なのか寝言なのか、どちらにせよ正気での返事ではない。「知るか、もう」俺は起こすのを諦めて梓の下から滑り出た。

「しょうがないな、全く。所がこんなところを見たら――」

 独り言の途中で昨日の行為を咎める様子もなかった所を思い出す。妻が他の男と寝て謝る必要はないと言える神経が理解出来なかった。俺も怒らなかったが謝罪は受け入れ――いや、サトシクンたら失礼しました以外、何も言ってなかったか……そして今や間男の当事者となってしまっている俺だった。明晰な頭脳をもってしても、情動が絡んで起きる数々の出来事には、きちんとした説明はつかない。人間って不思議だなあ。面倒くさくなった俺はそんな感想で一連の事象をまとめ上げた。

 女性の洋服を脱がせた経験はあるが着せたことはない。娘のお着替えならまだしも、体にフィットしたニットやクルクルと小さく丸まったショーツを履かせる自信はなかった。壁にかけられていた白衣をベッドの梓に掛けると、自身の身繕いを済ませて階段を駆け上がった。チャイムは鳴り続けている。普通、それだけ鳴らして返事がなきゃ留守だと思わないか? 見知らぬ来訪者の図々しさに呆れ、またその粘り強さに感心していた。

「はいはい、ただいま」

 何だか家政婦にでもなったような気分だ。俺が開くドアの向こう、立っていた作業服姿の男がきょとんとした顔になる。

「えっ? あっ、どうも」

 出入りの業者だろうか。見知らぬ顔がドアから顔を覗かせたことに対する反応としては至極まともではある。

「どちら様でしょう? ご主人は仕事に行かれてまして、奥様ともう一人は就寝中なんですが」

 変な誤解を生じさせそうな説明となったが、嘘は言ってない。

「あっ! お前、伊都淵か?」

 中年男が――今や俺もその集合の中にどっぷりと浸かってはいたが――ここではそう呼んだ方が手っ取り早い。とにかくそいつが俺を指差してそう言った。

「俺だよ、深尾だよ。石田に聞いたんだ、お前が最近所んちに出入りしてるって」

 はいはい、公務員になった深尾隆充(ふかおたかみつ)君ね。ここ十数年、同窓会の類は無沙汰を決め込んでいたが、所との画策された再開以来、梓に石田にと続く邂逅のオンパレードは、さながらプチ同窓会のようでもある。

「やあ、懐かしいな。何年ぶりかな、まあ上がれよ」

 他人の家だったのも忘れ深尾を招き入れる。リビングには依然として加藤が死んだように眠っていたが、説明も面倒だったのでそのまま通した。

「誰だ?」

 加藤の姿を目にとめた深尾が、ぎょっとした顔で俺に訊ねる。

「朝、俺が来たときから寝てる。所の知り合いじゃないか? 医療関係のMRとかさ」

 デタラメな説明もあったものだ。しかし加藤が興信所の調査員で、P300Aの犠牲者たる俺が脱走して捕獲に雇われた云々の説明よりはまだマシだろう。「ふうん、そうか」と納得してしまう深尾も深尾だったが。

「で、何か用か?」

「お前に用があったならお前んちへ行く。俺は岩下に相談があって来たんだ」

 ごもっともである。

「さっきも言った通り彼女は寝てる。昨夜は徹夜だったみたいでな。そこの男を交えて三人打ちでもしてたんじゃないかな」

「所は麻雀はしないぞ」

「じゃあ、知らん」

 俺は全てを放り投げた。

「いい加減なヤツだな、お前は。中学の頃からちっとも変わってない」

 ところがオツムはフルモデルチェンジをしてんだよ、と心中で反論しておく。

「ところで、お前その格好――仕事中じゃないのか?」

 胸に井之口市上下水道事業部と書かれた作業服を深尾は着ていた。

「ああ、クレーマー様からのお呼び出しでな。いつも岩下に対策を教わって行くんだ。彼女、臨床心理士の資格も持ってるからな」

 へえ、そんな付き合いがあったのか。俺は不本意ながらニ度ベッドを共にした梓が有する資格については全く知らなかった。彼女の見事な裸身に僅かばかりの瑕疵を主張すべく点在するホクロの位置なら正確に言えるのだが。

「しかし水道にどんなクレームをつけるんだ? 水が濁ってるとかなら正当だろう、何とかしてやれよ」

「バカ、そんなんならいいよ。今回の呼び出しは『水がぬるい』 だ。まだ九月なんだ、配管の浅い所にある水が温まるのなんか当たり前じゃないか」

 俺は思わず吹き出した。確かに深尾の言う通りだ。大体においてクレーマーというのは自己耽溺が高じて被害妄想に取り憑かれた偏執症一歩手前の連中が多い。自分に不利な話は一切、耳に入れようとしないのだから始末が悪い。

「しかも、『ワシは自治会を代表している。地域住民はみんな同じ意見だ』って言ってんだぜ、この爺さん。暇なもんだから日夜つける難癖はないかと探し回ってるんだ。前回は新聞の隅っこにちょろっと載った計画事業に文句を言ってきやがった。ガスや電力の業者もよく呼び出されてるみたいで何度か鉢合わせしたよ」

 石田が羨むほど、親方日の丸も楽ではないようだ。

「ふうん、俺がついてってやろうか?」

「瞬間湯沸かし器のお前がか? 爺さんと取っ組み合いになるのが関の山だ」

 深尾の記憶に残る俺は中学生時代のままだったようで、論外だというように手をひらひらと振った。

「人は変わるんだよ。どうせ梓は起きない、客は待っている。遠いのか? そうゆう連中は待たせたら余計に厄介なんじゃないのか? 任せておけよ、ダメモトじゃないか」

 納得が行かない様子の深尾を立たせ、背中を押して玄関へと送り出す。活性化した俺の脳味噌とオイラーズの面々は、とにかく刺激が欲しくて仕方がない。話し相手になってくれそうな梓も加藤も起きる様子はなく、所の帰りを待つのは一日千秋の思いだった。

「岩下なら、冷たいお茶を出してくれたぞ」

「よその冷蔵庫を黙って開ける無作法を俺にしろとでも?」

 よそのリビングに勝手に上げておいて、よその奥方と寝ておいてそれもないかとは思ったが、俺はどんどん深尾の背中を押して行く。殆ど突き飛ばさん程に。なおも後ろ髪を引かれるかのように、しきりとリビングを振り返る深尾を乱暴に外へと突き飛ばすと履きかけていた深尾の安全靴が脱げた。抗議の目を向けながらケンケンして戻る深尾は、何と言うか、こう――とても滑稽だった。


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