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P300A  作者: 山田 潤
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Lines(線)

「――やったな」

 俺の朝食には入ってなかった成分が、加藤のそれには混入されていたようだ。食事の間中、俺をちらちら盗み見していた彼だったが、今はしどけなくソファにもたれかかり規則正しい寝息を立てている。

「だって、この人に知られる訳には行かなかったんですもの。研究の内容もラボの存在も」

「俺が逃げようとしたら、どうするつもりだ。以前の俺だって君一人じゃ取り押さえられない。所はそれを恐れて彼を残したんだぞ」

「逃げる気なら最初っから戻って来やしないでしょう。あなたの目的は私達に研究を止めさせる、そうじゃなかったかしら? ねえ、あなたには何が起こっているの? 何が間違っていると言いたいの?」

 頼んで来てもらった加藤を何の躊躇もなく眠らす梓だった。学術的興味が是々非々を奪ってしまうことの恐ろしさに彼女は気づいていない。

「先ず、君たちが目指したものについて聞きたい。P300波の数値を限りなくゼロに近づけるといったな? それで認知と情報処理の速度は上がるとしよう。ただ、この俺の姿に想像はついたか? 人が他人の意思に介入出来るなんてことは許されてはならない。進化は全人類に平等にもたらされるのを待つべきなんだ。余期せぬ副産物――それが君らの間違いを証明している」

「私はまだ信じてない。今朝だって催眠術でも使ったんじゃなくって?」

「君のような現実主義者が、やすやすと催眠術なんかにかかるもんか。あれはかけられる側の集中度や猜疑心によって大きく左右されるんだぞ」

「セックスに惑わされた私ならそれも可能だったんじゃない? 凄かったわ、あんなの生まれて初めてだったもの」

 想起される記憶に梓の瞳が潤んだ。

「自身と友人に対して常に誠実であれ。俺は君を友人だと思ってる、だから嘘は言ってない」

「ニーチェね」

「ほう、知っていたのか。驚いたな、君はガチガチの理系だと思っていたよ」

「論理立てて物事を考えるのに文学的要素は不可欠だわ。そう考えれば、どんな学問も根幹は同じなのかも知れないわね」

「それがわかってるなら倫理学も尊重しろよ。人体実験、それも本人の同意なしにするそれが、倫理を尊ぶ人間の行いとは思えないぞ」

「大した変化ね」

 梓が俺に持つ興味は、実験対象へのそれと異性へのそれがないまぜになりかかっていた。彼女は言葉を継ぐ。

「中学校時代の本能のまま突っ走っていたようなあなたを好きだったって言ったのは本当よ。私や創太郎には絶対、真似の出来ることじゃなかったもの。でも今のあなたも素敵。人生の高みから導いてくれているような気分にさせるわ。そんなあなたを生み出したのが創太郎と私の実験なのよ。命を危険に晒した訳じゃない。何の犠牲も払わず見返りは求められないわ。それでも間違ってると言うの?」

 その質問が、生じてしまった内なる迷いを肯定していることに梓はまだ気づいていない。俺は彼女の問わず語りを別の方法で諭そうとしてみた。

「もう一つ言っておこう。俺の脳のニューロンは増えちゃいない。君らの実験は仮説の大前提からして既に間違っていたんだ」

 梓の表情に狼狽が走る。

「嘘よ、だってあなたは以前とは全くの別人じゃない。それにあなた自身、進化は認めている。神経細胞が増えない限りその変化は有り得ないわ」

「仮説の根拠は何なんだ。実験のレポートはあるんだろう? 見せてくれないか」

「あのファイルは創太郎しか開けないの」

 彼女の脳波が、それが虚偽であることを示す。俺にある考えが浮かんだ。

「君達の観念においてセックスは大した比重を持たないのかも知れない。だが俺は今朝の行為を恥ずかしく思っている。こうなって理解出来たことがあるんだ。人は誰も自分の理解者を求める、相互理解の深まった形が愛し合えてるという状態なんだと俺は思う。俺には君が理解出来ない」

「あなたは、ちゃんと反応していたわ」

「肉体の諸反応を司るのは脳だろう? 反射行動もまた然りさ。釈迦に説法だったかな、あれは操作だよ、俺は愛のないセックスに価値を認めない」

「試してみましょうよ」

 力は行使していない。プライドの高い人間はかくも挑発に乗りやすいものか。スタスタと地下ラボへの階段に急ぐ梓の後に俺は続いた。


「神経細胞が増えていないというなら、あなたが変化した原因は何なの?」

一糸纏わぬ姿となった梓が、俺を見下ろして言った。既に俺の代理人格は彼女の内に呑み込まれている。

「ニューロンのそれぞれが複数の役割をこなせるようになったんだ。君らが解明出来ていない領域のそれまでもが活発に働き始めている。アドレスを振り忘れた情報が蘇り、その活用法を俺に伝えてくる。どうした? ちゃんと聞いているのか?」

 快感の渦に呑み込まれそうになる意識を必死に押しとどめて梓は答える。形の良い胸の膨らみが大きく揺れた。

「聞いてるわよ、それで? ああっ――凄いっ!」

 梓の集中が乱れたのを確認して、俺は所のラップトップPCに思念を送る。起動成功、パスワードは? 侵入成功、マシン語の読み取り、コンパイル、C言語への変換をオイラーズに託す。情報はみるみるうちに脳内へと蓄積されて行った。

「高度成長下だったこの国を支えていたのは勤勉で優秀な国民だったと聞く。君達は俺の脳をそう変えたんだ。人口はそのままでクオリティが上がったってとこかな、しかし電位の変化が見えてそれを操れるようになることは想像していなかっただろう? これは悪魔の突然変異だ」

 実験動物の解剖は全て薬効が切れてから。神経細胞の増殖もそれ意外の目立った兆候も確認出来ていない。投薬されたものは……やはりか。投与は昨日の午前七時、彼等が認識する薬効は今夜七時までということだな。ファイルのコピーは八割方終了していた。

「だからっ、だから何っ!」

 既に梓は錯乱状態に近い。淡々と語る俺の声は、所々彼女の悲鳴にかき消されてしまう。内容など理解出来ていなかったに違いない。

 三十七歳とはいえ子供も産んでおらず節制にも努めてい梓の肢体は彫像のように均整がとれていた。したたる汗が胸の谷間で艶かしく光る。だが快感の回路を遮断したままの俺には何の感動も伝えてこなかった。

「君らが俺に投与したものも、おおよその見当はついた」

「黙っててっ! イキそうなの」

 君が教えろと言ったんじゃないか――その不平はこういう手段を選んだ後ろめたさで相殺させ、次のファイルの解析に移った。……え? 医師である所のパソコンに病名や治療法の記述があっても不思議ではないが、泌尿器科とはまた――少し身をよじった拍子に俺の代理人格が梓のスイートスポットを直撃したらしい。彼女は体をくねらせ長く大きな声を上げて果てた。そして今朝同様、俺の胸に突っ伏したまま動かなくなった。

 梓の胸の鼓動を感じる。全てショートしてしまったような快楽の脳波は、その稜線をフラットラインで繋げたまま一向に降りてこようとはしない。しかもその稜線の位置は男性が示すものより遥かに高い。女性はセックスでこれほど感じることが出来るものなんだ。ちょっぴり羨ましさを抱き、同時に愛し合える妻が去った現実が胸を締めつけた。これも切っておくか、回路を遮断しても胸に(これも本当は脳に伝わったものであったのだが)去来する寂しさは居座り続ける。トラブルか? オイラーズは両手を広げシュラッグで答えてきた。


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