Blues(偽賢者の憂鬱)~Determination(決意)
得てして嫌な予感は当たるもの。一軒きり灯りが点いてない我が家は、幼児に見かける抜けた前歯のようにポツンと暗く佇む。社用車をガレージに乗り入れ、微かな期待をかけて押す玄関のチャイムに反応はない。予感は覆されることなく憂鬱の壁となって俺に立ちはだかっていた。虹彩を絞って居間の暗闇に目を慣らすと、薄いブルーの封筒と数十万しか入っていないはずの預金通帳がテーブルの上に置かれていた。
孝之へ
暫く実家に戻ります。
私のしたことが許されない行為だというのは分かっています。でも、あなたが怒ってくれなかったことが、私は何より寂しくて仕方なかった。
あんなことをしておいて勝手なことを言うと思われるでしょうが、もう愛されてはいないんだという実感が、私にとって死刑宣告みたいに重くのしかかっています。お互いが関係の修復に積極的ではなかったのが、こんなことになった致命的な原因なのでしょうか。
時間を下さい。じっくり考えてみたいと思います。娘達にはいつでも会いに来て下さい。予め来訪を知らせてもらえば、私は出掛けておきます。
あなたにとって、私の顔を見るのは不快でしょうから。
幸
早まった真似はするなと言ったのに……暗闇のままだったことに気づき、俺は居間の電灯を点けた。迎えに行ったところで、こんな置き手紙を残して家を出た幸が素直に帰ってくれるとも思えず、そっちは保留にして考えていたことを実行に移す。例のセーフティネットだ。パソコンの電源を入れ、迷惑フォルダに山積されたメールの中から一通を選択して開く。ネット証券オンライン取引のページが開かれた。会社から持ち帰ったラップトップPCも起動させ分析プログラムの構築にかかる。使い込んだラップトップPCは動作が遅く俺が打ち込んでゆくスピードに追いつかないでいた。
預金通帳の残高は約六十二万円、自宅購入の頭金に相当額は使ったが、たったこれだけが十五年間真面目に働いた証なのかと、以前の俺なら徒労感に肩を落としたことだろう。
デスクトップで狙いを定めた原資産の分析を始める。関連トレンドの動向を目で追いながら、家族というものについて考えてみた。社会の存在理由が子供を守り育ててゆくものであるなら、家族はそれの最小単位ではある。しかし夫婦間の愛情がなくなろうと、制度に基づいた煩雑な手順を踏まない限り、法律は関係の破綻を認めない。
機械設計の会社に務めていた頃、パチスロにのめり込んで家計を破綻させた妻に、離婚を決意した同僚が居た。彼や子供達への未練ではなく、経済的安定に執着した彼の妻は協議にも調停にも応じず、疲れ果てた彼は、自ら命を絶つことで別れを強行採択したのだった。人間も生活スタイルも多様化した現在、旧態然のシステム履行を人々に強いる婚姻は、根本的に何かが間違っているように思えた。
国家の収入の源は言うまでもなく税収だ。正常に機能する家庭は定職を持った家長と健全な子育てに勤しむ妻がその図を成立させている。国にとってそんな家庭ばかりならインカムは安泰だが、それが破綻した途端、生活保護や就学援助といったキャピタルロスの危機が迫る。崩壊した家庭の子供が創る家庭には更なる崩壊の危機が孕む。愛情より国へのロイヤリティを優先させろと言うのが国の言い分なのだろう。しかし彼等には国民の血税を運用する才覚などこれっぽっちも備わっていない。正にその証明をテレビのニュースが告げていた。
『消費税を十七パーセントまで引き上げても、十年後のプライマリーバランスは現在マイナス三兆円となる見込みです』
かと思えば、既に天文学的な数字となった国の負債を『十年後にはゼロにしてみせます』と公言して憚らない総理が居る。民間を見てみるがいい。赤字になった企業は賞与も給料も減額され、それでも利益改善が見られなければリストラの嵐が吹き荒れ、終いには企業そのものが倒産の憂き目に合う。なのに赤字国家は議員定数も減らさず減給を申し出る者もない。これが間違っていないとしたら、いつの日か政治家による殺人まで正当化されてしまうそうな気になるのは俺だけだろうか?
憂鬱になってしまったので情緒の接続を弛める。出口の見えない思考から解放されたオイラーズの面々が腰を下ろしたので、別部隊を出動させる。彼等には完成した分析プログラムに従ってオプショントレードの戦略を検討・決定の指示を与えた。数件の注文を入れて手続き完了のメッセージを待つ。これで俺が失職しても幸と娘が食うに困ることはないだろう。
全ての取引に於いてプレミアムが想定した数字になったところで片っ端しから転売する。こんな時間でもチャートにへばりついている連中は居るのだな。まあ、金儲けに朝も夜もないか、泥棒さんの主戦場は専ら夜間なんだし。自ら導き出した答えに妙に納得してしまう俺だった。
分析が百パーセント正しければ保険など要らない。僅かばかりのタネ銭をヘッジに回す余裕などなかった。チャートは面白いようにオイラーズがはじき出した通りの数字を表示して取引利益を蓄積して行く。単調な作業に面倒になった俺は、その操作までも自動化してしまおうと、新しいプログラムを書き上げて取引画面にリンクさせた。こうしておけば、欲に駆られた幸がとんでもないミスを犯すこともないだろう。誰かがパソコンの電源を落としたり、停電でシステムが誤作動しないよう、念の為プログラムごとラップトップに移しておく。時計は午前二時四十分を指していたが眠気はない。これもP300Aに因る変化か? オイラーズがそうだと頷いた。
試してはいなかったが電位が操作できるなら、ATMの前に立ち、流れ出る札束を回収することも可能だったろう。ただ俺の中に確立されつつある高度なモラルが、それを許さなかった。
尖った感情に続いて全ての欲望も失われかけていた。人は手にしたい何かに憧れ、目標に向かって励み、報われない努力に涙し、待ち望んだ結果に歓喜するものだ。思い通りになってしまう人生に誰が希望など持とう。際限のない欲望ほど人間の品性を貶めるものはない。なのに……
欲望に取り憑かれたような男達は居た。ほんの半月前、時の最大野党総裁は、震災被災地と原発事故への対応の不手際を理由に、内閣不信任案を動議した。欲に駆られた人間は同類を目敏く見つけだして裏切りを持ち掛ける。万全だったはずの不信任案が否決された時、キツネザルの風貌を持つその男は企みが成就しなかったことに落胆しつつも、動議が総理の辞任を引き出したのだと嘯いた。一敗地にまみれ、彼が得たのは多くの国民の反感だけ。器量を越えて手にしようとした権力は、二重の裏切り(ダブルクロス)によって、彼の手をすり抜けたのだった。謀議は謀議によって瓦解する。死ぬまでかかっても使い切れないほどの富と地位を手に入れ、彼等はその上何を望むのだろう? 俺に芽生えた能力を彼等が手中にしたら、この国はどうなってしまうのだろう。
大震災、アメリカの大竜巻、ドイツの病原性大腸菌の大量発生、全てが傲慢な人類が牛耳る世界を崩壊させようとしているように感じられ自問してみるが、オイラーズの面々は黙して語らない。
清廉決疋な人間など居やしないのだろうが、松井君や日高依子と過ごした二時間余りは、とても心が安らいだ。あんな人間がこの世界にはまだ居る。彼等が苦しむだけの世界にしてはならない。怒りも欲望もなくした俺に、初めて目的らしい目的が生まれていた。
実験は止めさせるべきだ。弛めたシナプス接続を少しづつ戻しながら、俺は再度所邸を訪ねる決意を固めた。社用車はあったが歩くつもりだった。たかだか二十分の距離だ。利便性の追求が人類の進む方向を捻じ曲げたように思われて仕方がなかった。
《ひゅーひゅー》《かっこよ過ぎるじゃーん》 オイラーズの野次を黙殺して俺は玄関を出た。朝焼けが川手エステートの家並をオレンジに染め上げていた。