Punishment(お灸)
「ねえ松井さん、あれ本当に伊都淵さんですか? 課長にちくちく嫌味を言われては、おどおどして頭を下げていたあの人と同じ人には見えないんですけど」
「うん、俺もそう思ってた。自信に満ち溢れてて、いつもの伊都淵さんじゃないみたいだ。さっきだって俺を信じてついて来い、そうすれば間違いないんだ、って感じだったもんな」
「どうしちゃったのかしら、今日の欠勤も出張ではなかったんでしょう? そこらへんに理由があるのでは?」
「俺にもよく分かんない。詳しく話してくれないんだよ。俺が聞いたのは車を事故で潰しちゃったって話と、岡っ引の事情がどうこうってことだけで……」
「岡っ引? のっぴきならない事情ではなくて?」
「そうそう、そっちのピキだ。君は四文字熟語に詳しいんだね」
はあ、と日高依子は大きな息を吐く。
「それは四文字熟語なんかじゃありません」
六つ年下の女性にピシリと言われ、松井はしきりと硬い髪を掻き毟る。
「あの機材一式、本当に全部うちで納めることになっちゃったら、どうします?」
「まさか……」
否定はしたものの、伊都淵の恬然たる態度がそれが現実にしてしまいそうに思えて松井は大きく頭を振った。
二人の脳裏にはそんな会話の余韻が浮遊していた。妻に食事を済ませてくる旨を伝えようと、電話に立った時の会話だったようだ。
ショッピングモールにあるイタリアンレストランでの遅めのディナーだった。平日の夜で客の入りは悪いが、マンハッタンのとある街を店名に冠したここが出すペペロンチーノは絶品だ。生ハムとポテトを使ったオードブルもなかなかイケるし原材料に首を傾げる必要もなかった。所邸のディナーより俺には合っているな、と浮かべた苦笑を松井君と日高依子が怪訝そうに見つめていた。
「入札書類の作成だから、もっと時間がかかるものだと思っていました。あんな僅かな時間のお手伝いで奢ってもらう訳には行きませんよ」
遠慮する日高依子と松井君を誘ったここで、内ポケットに突っ込んだ数枚の千円札は消え去る運命となる。種々の欲望が俺の中から消えつつある現在、唯一の喜びは誰かの笑顔だけだった。金などに大した価値はない。それを悟れば誰もが人生に豊かな実りを見い出すことが出来るのだろう。しかし金がなければ笑顔一つ生み出せない現代社会でもある。他人の意識を操作出来る――そんなことが分かれば、彼等だって俺を化物扱いするに違いない。少なくとも今と同じように接してくれるとは思えない。もっと慎重に振舞う必要があるな、俺はそのメモをオイラーズの一人に託した。
そして電話は不通だった。幸はともかく、普段なら先を争って電話と取ろうとする娘達も出ない。俺は嫌な予感がしていた。
「だから、俺じゃないってば」
勘定を済ませ、遅れて店を出た俺の耳に松井君の声が届いた。
「だったら、なんで俺の車がへこでんだよ。で、そっちの車も同じ高さんとこにぶつかった跡があるじゃねえか」
どうやら接触事故でもあったようだ。軽い物損事故なら警察を呼べばすぐに片付くだろうと、俺は勝手に借り出してきた社用車を停めた場所に足を運ぶ。
「じゃあ、警察を呼びましょう」
これは日高依子の声だった。
「今更、そんな穏やかに話し合いが出来ると思ってんのか? 俺は嘘つき呼ばわりされたんだぞ」
「さらっちまおうぜ」
やれやれ無関心を装う訳にも行かないようだ。俺は50mほど離れて停められた松井君の自家用車の方に向かった。
「どうしたんだい?」
「あっ、伊都淵さん。まだ居てくれたんだ、良かったあ」
威勢だけはよいが見るからにオツムの弱そうな若者三人組が、誰だこいつは、といった感じで俺を眺めてきた。松井君の説明によれば、ゲーセンで遊び終えた三人組が車に戻ったところ、以前にはなかったへこみが連中の車にあり、その真後ろに停めた松井君のフロントバンパにも傷がある。ぶつけたのだろう、弁償しろと凄んできたらしい。古典的なタカリのようだ。若者ならもう少し気の利いた因縁のつけかたを覚えたらどうだ。俺は状況を見て至極当然な疑問を口にする。
「でも、輪止めがあるじゃないか。それを乗り越えてぶつかったのなら、この程度のヘコミじゃ済まないはずだろう?」
「ですよね、あたしもそう言ったんです。そうしたらこの人達、急に怒りだして……」
ははあ、ちゃっちゃと小遣いだけせしめてトンズラする予定が日高依子に矛盾を指摘されて逆上したってところだな。先ほどの嘘つきよばわり云々にも合点がいった。
「何、ごちゃごちゃ言ってんだ。関係ねえおっさんは、すっこんでろ!」
俺に争うつもりなどはなかったが、善良な松井君と日高依子が困っているのを見捨る訳にも行かない。「さらっちまえ」が脅しだったとしても、こうして何度もたかりを続けていそうだった若者達にお灸を据える大人も必要なのだ。俺は彼等の意識を探った。間違いない、彼等の頭の中は虚偽と日高依子への卑しい欲望に満ち溢れていた。三人か、どうする? 俺はオイラーズに相談を持ちかけた。
《脳波を全部均しちゃえば?》
《死んじゃうだろ、それじゃあ。お灸程度でいいんだよ》
《じゃあ真ん中のヤツのアレ、そうそう、その赤いの。それを断ち切ってやればいい》
俺はいわれるままにした。一番図体のでかい若者が突然体の支えを失ったかのように昏倒する。
「……え? どうしたんだよ、ヒロシ」
残された二人が蒼い顔をして倒れた若者を揺さぶる。
「脳梗塞か何かかも知れないな。揺らさない方がいいぞ、タカリだけのつもりが殺人者になっちまう」
二人は飛び跳ねるようにしてヒロシから離れた。
《本当に死んじゃいないよな?》
白目を剥いている若者に俺は少し不安になった。
《大丈夫、さっきのは脳への酸素供給を一時的に遮断しただけだから》
オイラーズから回答が寄せられた。 俺はどうしよう、どうしようと慌てふためく若者に声をかける。
「救急車を呼ばなくっていいのか? ほっとくと本当に死んじまうかも知れないぞ」
金色に赤が混じった髪の若者が携帯を取り出した。すると倒れていた男がむくりと起き上がる。完全に毒気の抜けたような顔になっていた。
「君達は先に帰りなさい。後は俺が」
俺はそう言って松井君達に車に乗るよう促した。彼等を帰すまいと性懲りもなく松井君の車に近寄りかける茶髪の若者も昏倒させる。先ほど携帯を取り出した金髪に赤は完全に怯えきっている。俺はヒロシに向かって言った。
「もういいよな? 車はぶつかってなんかないんだろう?」
「……はい」
まだ地面に尻をつけたままのヒロシが虚ろな目で答える。あいつに何かされたのか、と小声でヒロシに訊ねる金髪に赤が、俺を気味悪そうに眺めていた。