Virtue(善)
「へえ、じゃあギャンブル製が一番低いのはオプション取引ってことか?」
「ああ、これは理詰めだからな。原資産の種類が少ない分、戦略の自由度は高い。だが、お前のような素人には向かない。一日中チャートに張り付いてるような連中にかかれば、俄トレーダーなんかあっという間に丸裸にされちまう。確実なリスクヘッジとドンピシャのタイミングでの仕掛けが必要なんだ。お前がやるなら主婦の皆さん同様、FXぐらいにとどめ――いや、これだって奥は深いぞ。だから俺もいつ依頼が来るか分からない設計事務所を閉められずにいるんだ。どうだ、分かったか? わからんよな?」
以前の俺なら、石田の言う通り概要を聞いた時点で投げ出していただろう。しかし今はオイラーズという強い味方が居る。彼等によって対象銘柄と戦略は既に決定、解析ツールのプログラミングも脳内で完了させ、タネ銭捻出の算段をしていた。だが石田にそんな素振りは見せられない。下卑たジョークを交え、以前の俺のままであることを匂わせる。
「さっぱりわからんよ。売り買いだけでなく、コールにプットにと言葉を覚えるだけで数年かかりそうだ。ところでいいプッシーを知ってたら紹介してくれ」
そうだろう、そうだろうといった顔で満足気に頷く石田に、少しだけ申し訳ない気持ちになった。
「メールだ、お前宛だぞ」
松井君からの返信だった。
『どこにいるんすか? R.Matsui』
そんな短い文面までに〝す〟がついていて思わず笑ってしまった。
「すまん、電話を借りる」
パペッツの回路の操作には随分手馴れてきていた。目的の電話番号を脳内アドレス帳で瞬時に探し当て、松井君の携帯を呼び出す。
――たまげたっすよ、伊都淵さんは何も言わずに居なくなるし、課長からは入札はお前に任すって言われるしで、俺は混乱しちゃったっす。
「ごめん、ごめん。メールに書いた通り、のっぴきならない用が出来てね。入札機器の一覧はもらってきてくれたのかな。
――ええ、元々あれは伊都淵さんの案件ですしね。いつでも譲りますよ。でも、あのMSSと事務長の鉄の結束を打ち破る策はあるんすか?
「あいつ等に一泡吹かせてやれたら面白いとは思わないかい?」
――それが出来るなら、気分もいいでしょうけどね。MSSの連中、入札の前から全機納入を落札したような口ぶりだったっんすもん。さすがの俺もにむっとしましたよ。
「ひとつでもうちで落とせれば、それは松井君の成績、全滅だったら受ける叱責は俺。だから数字は任せてくれないかな?」
――そんな条件でいいんすか?
「君には借りもある。ただ課長には内緒にしておいて欲しいんだ。俺は鞄持ちを仰せつかった学会から戻ってないことにしておいてくれないだろうか」
――何だか分かんないけど、いいっすよ。どうせ十八時まで得意先回りで、入札の方は残業してやるつもりでしたから。他の連中が帰ってからやりましょう。あ……日高さんにヘルプを頼んであったんだ。断っておくっす。
松井君が挙げた女子社員の名前から、脳内にプロフィールを描き出す。確か沙悟浄課長のセクハラの的にされていた入社四年目の地味な女性だった。
「もうひとつ頼まれてくれないか。情けない話だが、車を事故で潰しちゃってね。社に戻る前に、俺を拾ってもらえないだろうか。
――お安いご用っす。
待ち合わせ場所と時間を決め、受話器を置いた俺に石田が訊ねてきた。
「事故って、体はなんともないのか?」
「ああ、この通り」
脳味噌まで至って快調だよ。俺の意味ありげな笑いを石田がどう判断したのかはわからない。無闇に人の意識を探るのはいけないことだ、と俺は思い始めていた。
十九時を少し回った社内には、まだ数人の営業マンが残っていた。俺は松井君から五千円札を一枚借りて、斜向かいのカフェで時間を潰すことにする。給料日前のその金額は彼の懐にも少なからずダメージを与えたようで、俺の前でなければ樋口一葉と惜別の抱擁を交したに違いない。紙幣を差し出す松井君の瞳が潤んでいるように思えた。
「俺は帰っていいって言ったんすけどね。日高さんてば、やる気になっちゃってて」
松井君を残して空っぽだったはずのオフィスには日高依子(ひだかよりこ)が残っていた。そして居ないはずの俺を目にとめて少し驚いたような顔を見せた。
「出張じゃなかったんですね。何で課長はあんな嘘を言ったのかしら」
「さあ?」
例の謀議に課長がどこまで関与していたかを知るまでは迂闊なことは話せない。
「どうせ残業はつかないんだし、二人より三人。ちゃっちゃと終わらせて帰りましょうよ。パスタぐらいは奢ってもらえますよね? 大丈夫、カッパ課長には黙ってますから」
地味な印象しか受けなかった日高依子だったのだが、悪戯っぽくウィンクをする彼女は、なかなかどうしてチャーミングな笑顔の持ち主だった。そして彼女の思考は邪気も打算もなく同僚への労りのみに占められていた。驚いたことにセクハラ課長への嫌悪の情もない。〝いい人間〟そんなパネルをオイラーズが掲げる。ニックネーム命名のセンスが似通っていたこともあって、俺は彼女に親近感を抱いていた。
「書類は?」
「ここっす」
松井君がくたびれた鞄から病院名の書かれた封筒を取り出す。俺は中の書類を抜き出して、さっと目を走らせた。
「凄いな、上代のトータルは一億を超えるんじゃないか? 全部うちで納入することになれば、たまげた課長の頭頂部に毛が生えてくるかもな」
俺の肩越しに書類を覗き込んでいた日高依子はくすりと笑ったが、松井君は乗ってこない。所の口添えで単価の張らない機器の納入権を一~二点拾えれば御の字、彼の見通しはそんなところだったのだろう。
日高依子が体を離す。フルーティな香りが俺の鼻腔をくすぐった。〝インカントドリーム〟 そんな銘柄の香水だったようだ。
「〝れば〟の話っすよね。でも今日の事務長の様子じゃあ、既にMSSに決まったような口ぶりだったんすよ? 例の准教には口を利いてもらえそうなんすか?」
「ああ、まあね」
詳細を語る訳には行かないし、真実を告げたところで松井君が信じるとも思えない。人生の落伍者が語る夢物語だとでも思われるのが関の山だったろう。
「日高さん、機器の資料を全てプリントアウトしてくれる?」
「りょうかいっ」
彼女はおどけた仕草で敬礼すると隣のデスクのパソコンに向き直った。明るい子だな、沙悟浄のセクハラから解放してあげられればいいのだが。そんなことを考えながら、オイラーズにミッション開始の号令をかけた。機器の名称と仕様が書かれた書類を見ているうちに、作成者の意図が数字となって浮かび上がってくる。これが残留思念ってヤツか――まさかこんなものまでが電位だとは思わなかった。以前に梓から受け取ったA4サイズの用紙を開く。十円の単位までドンピシャだった。正直、所が正確な数字を教えてくれたのかどうかとの疑念もあったのだが、彼は約束を守ってくれていた。俺は書類のブランク欄にペンを走らせる。その間たった十数秒、その様子を目を丸くして見ていた松井君に手渡す。
「どうだろう?」
はっと我に返り、俺が書いた数字とプリントアウトされた資料を照らし合わせていた松井君が大きく首を縦に振った。
「これなら十分採算は合うっす。ただ、この数字で食い込めるっすかね? MSSならもっと……」
「ダメモトだろ?」
彼の疑念は尤もだが数字は間違っていない。決してスリム化されたとは言えないそれには、おそらく事務長やCE、もしかすると医師へのリベートまでもが含まれているのかも知れない。一括納入が条件で。
「そう……っすね、これで行きましょう。稟議書を書かされることなく見積りが出来たのなんて、いつ以来かな」
「腹が減ったな。いざ、パスタ屋。だ」
「日高さん、終わったよ。着替えておいで」
「えっ? 嘘……」
給湯室から戻った日高依子が湯のみを乗せたトレイを持ったまま絶句する。他社の動向に探りも入れず、二次候補を書き入れた書類もナシ。十四機分の見積りに費やした時間は資料のプリントアウトを含めても十五分未満。彼女が驚くのも無理はなかった。