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P300A  作者: 山田 潤
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Trust(信頼)

 居間のテーブルに突っ伏して妻が泣いている。本来なら『泣きたいのはこっちだ』とでも言うべきなのだろうか。家族のためにと唱えた〝ならぬ堪忍するが堪忍〟を『寂しかったから』だけの理由で台無しにされた俺の身にもなってみろ、そうも言ってやるべきなのだろう。しかし尖った感情を失ってしまった俺に怒りの感情は湧いてこない。妻が泣き止むのを見計らって、こう切り出した。

「俺は今から会社へ行くけど、早まった真似だけはするなよ。帰ったらじっくり話し合おう。実家のご両親にも相談してみたらどうかな」

 彼女の言う通り、俺は幸を女性として扱っていなかったのかも知れない。互いを貪り合うようなキスは遥か遠い記憶、いつしかそれもおざなりになり、セックスは単なるルーティンみたいなものに成り果てていたのだから。〝泥棒にも三分の理〟そんな諺が書かれたパネルを、一人のオイラーズが掲げていた。所の前で力説した『セックスは愛情の交換であるべし の金科玉条は、夫婦間に於いて虚構へと貶められていたのだ。それは俺に言いたいのか? パネルを持つオイラーズは黙って笑っていた。

「なんで怒らないの? 普段のあなたなら――」

 そこで言葉を切った妻は、何かに啓発され、そして確信を得たかのように高らかに言い放った。

「分かった! あなたも浮気しているんでしょう」

 とんだ言いがかりである。確かに梓とのセックスもどきはあったが、快感の回路をシャットアウトした上、身動きの取れない俺はレイプされたみたいなものだった。その行為まで浮気と判断されたら身も蓋もない。俺は頭の中で高校時代に読んだ哲学書を紐解いてみた。

『信頼は互いの努力のみによって成立する。どちらか一方がそれを怠った場合、その輝きは速やかに色褪せるであろう。信頼を裏打ちする言葉そのものが、そもそも多くの虚飾に満ちているのだから。汝、もしそれを疑うならば、虚飾を取り去ってみるがよい。言葉と言う刃で互いを切り刻むだけとなるはずだ。そんなものに依存せねばならないコミュニケーションの何たる脆弱なことか。我が城は砂の柱、塩の柱に支えられている』

 終わりの方にコールドプレイの歌詞が混ざってしまったが、とにかく俺は会話の無意味さを悟り、沈黙をもって妻への返事に代えた。

 

 シャワーと着替えを済ませた俺は出社の準備をしていた。鞄も携帯電話もナシ、財布もナシのないない尽くし。腰に差した剣は竹光、甲冑も纏わず戦場へと向かう足軽の気分だった。嘆きのフレーズを心中で口ずさむ俺だったが、玄関の鏡は意外にも意気揚々たる姿を映し出していた。

『盛夏でも得意先への訪問は必ず上着着用のこと』 馬鹿げたドレスコードのため、クローゼットからシアサッカー生地のジャケットを出して小脇に抱える。

「言ってくるよ」

 テーブルに視線を落としたまま返事もしない妻を残して家を出た。会社に向かうつもりはなかった。古の誰かさん曰く 〝嘘も方便〟である。俺は中学校を挟んで校区の反対側に位置する石田の家を尋ねるつもりでいた。自宅で建築設計の事務所を営んでいる彼なら、平日の昼間でも捕まえられるだろうと見込んでいた。

 

「伊都淵か? 珍しいな、どうゆう風の吹き回しだ」

「近くを通りかかったもんでね」

 期待通り在宅していた石田が驚きの表情で出迎えてくれた。所と梓の話が本当なら、俺以外にもP300Aの犠牲者がいるのではないかと思っての訪問だった。どうやらその当ては外れていた。それとなく所の話題に触れ、さりげなく地下のラボの知・非知を問う。石田の受け答えに虚偽の反応は出ない。そう言えばこいつも国立大学卒だったなと思い出すと同時に『必要としたのはサル並みの新大脳皮質の持ち主』 のフレーズが浮かんでむかついた。

「深尾はどうしてる?」

「つい昨日、一緒に飲んだばかりだよ。嫁さんに三人目が生まれるそうだ。親方日の丸は気楽でいいよな」

 深尾は公務員だったのか、そして彼も無事だと見える。『二十人はくだらない』梓の言葉は真っ赤な嘘だった。ネズミとサル以外の被験者は俺だけだったのだ。俺は世間話へと話題を転じる。

「景気はどうだ?」

「震災のお陰で建築需要はさっぱりだ。仮設住宅に設計図面は必要ないしな。今はこれで食っているようなもんさ」

 そう言って指さしたパソコンのモニタには折れ線グラフが表示されている。このところこんな波形ばかりを眺め続けさせられていた俺はうんざりした声になる。

「何だ? これは。所が脳波マニアなら、お前は心電図マニアか」

「バカ、そんなもので飯が食えるか。FXだよ」

 外貨為替取引の略称だった。そう言えばFXでローンを返済した主婦が居るとか聞いたことがある。今や内職にも電脳化の波が押し寄せているらしい。俺は予定していたもうひとつを行動に移す。

「パソコンを借りていいか?」

「エロサイトのリンクをクリックしなきゃあな。スパムだけでサーバーがパンクしそうになるんだよ最近は」誰がそんなもん見るか。

 パペッツの回路を舐めてはいけない。あれは一度仕舞い込んだ情報を絶対に削除しない。思い出せない記憶というものは、片付け手がアドレスを振り当て忘れたか、振り当てたアドレスを失念したかのどちらかなのだ。俺は松井君の携帯にメールを送った。

――のっぴきならない事情により欠勤しました。入札の説明会はどうなってますか? 十三時までここに居ます。携帯はなくしましたので、この発信元にご返事下さい。伊都淵――

 扶養責任を果たすべき家族との絆は希薄になりかけていたが、娘二人には何の罪もない。機器納入の権利を落札出来れば家族を路頭に迷わす心配もなくなるのではないか? そう思っていたのだ。俺はとことん人が好い。だがセーフティネットは必要だった。

「オンライントレードって難しいのか?」

「相場は生き物だからな、素人が下手に手出しすると大火傷をするぞ。こないだの大暴落で、俺の知り合いも何人バンザイしたことか」

「バンザイ? 大儲けして喜んだのか?」

「違う、違う。バンザイはお手上げ、自己破産のことだよ。何だ? 興味があるなら教えてやるぞ」

「時間はいいのか?」

「ああ、設計事務所は、さっき言ったとおり開店休業状態だからな。ビギナーズラックで大儲けしたら授業料ぐらいは寄越せよな」


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