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P300A  作者: 山田 潤
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Peace of mind(平安)

 リビングに戻った俺は、梓に預けたはずの上着を探すが見当たらない。ラボで見つけたワイシャツとズボンは身に着けていたが玄関には靴もない。所のサンダルを拝借して外に出た。真夏の太陽が照りつける。ラップトップPCに表示された十時二十分は正確だったようだ。

 ガレージ脇に停めたはずの車齢十五年のマイカーも消え失せていた。徹底して俺の痕跡を消そうということか、あいつ等、本気で俺を……薄ら寒いものを覚え、ワイシャツの襟を寄せた。同時に鼻腔に生暖かいものを感じて拭った手の甲が赤く染まる。鼻血だった。俺のささやかな復讐心それを門扉にこすりつけることでやや解消された。

 さて、どうしたものか。能力の掌握も沙悟浄課長へのリベンジも懸案事項ではあったが、先ずは悪夢のような体験を誰かに伝えるのが急務に思えた。警察や友人が頭に浮かんだが、オイラーズが却下する。《誰がそんな奇想天外な話を信じるものか》と。

 車を奪われた上、財布の入った上着もナシでは移動手段は限られてしまう。家に帰って妻の幸に伝えよう。泥棒さん、いらっしゃい。カーテンゲートを大きく開け放したまま俺は歩きだした。ほんの少し体温を下げ、不快感の伝達を弛めてやれば悪意の如き真夏の太陽も気にならなくなる。暫くして気づいたことがある。俺の中から種々の欲望や尖った感情が消え失せていたのだ。バカしか騙されないような罠に嵌り脳味噌をいじられた哀れな男としてはもう少し嘆き悲しむべきだったのだろうが、上手くしたもので欲望が消え去れば苦悩もなくなってしまう。偉大なる先人達の教えが染み入ってくるようだった。

 そこで思考が立ち止まった。非暴力と不服従は真似られても菜食主義者にはなれそうもない。考えてみれば俺主導ではなかったにせよ姦淫の罪も犯したばかりである。流刑になるのはまっぴらだったので、染み入った教えは表層でとどめておくことにした。

 歩くこと約二十分、敷地面積四十坪ほどの建売が八棟建ち並ぶ川手エステートにたどり着いた。こ洒落たネーミングは施工業者の命名だ。住民はほぼ共稼ぎで昼日中は静寂に包まれ、唯一それを破ることの許される幼児が上げる声もない。小さな町並みはゴーストタウンの風情すら漂わせていた。これがエステートかよ――

 安物買いの銭失いとはよくいったものだ。『水垢の付きにくい光触媒使用を使用しております』はずの外壁には雨だれがゼブラ模様を描き、バルコニーと呼ばれる洋風物干し台の床材は娘達が飛び跳ねただけでヒビが入る。そんなクレームに、購入後二~三年はせっせと修繕に足を運んでいた不動産業者も昨年暮れに倒産、我が家の二十年保証はたった二年で打ち切られていた。

「誠実そうなセールスさんね、この人が薦めるのなら、信用出来るんじゃない?」と、購入を急かした妻の幸(みゆき)は「あなたがよく調べなかったから、こうなったのよ」と、俺が取り交わした覚えのない責務の不履行を詰った。夫婦間に数々の亀裂を生じさせたこんなものに、まだ二十年近くもローンを払ってゆかねばならないのか――普段ならそんな憂鬱と肩を並べての帰宅だったのだが、今は違っていた。

「はあい、早かったわね」

 チャイムを押すと幸の明るい声がインターフォンから流れる。玄関を開けて出迎えた彼女は、珍しくきちんと化粧をしていた。 

「えっ、貴之……」

「えって、何だよ。ここは俺んちだろう、医者の鞄持ちって話を真に受けてたのか? あれは嘘だ。ひどい目にあった、信じられないような話だろうけど聞いて欲しい。コーヒーを煎れてくれないか」

「……う、うん」

 返事をすれども幸動かず。彼女の視線は俺を通り越し、閉じられたドアの向こうへと投げかけられていた。

「どうしたんだ? 様子がおかしいぞ。具合でも悪いのか?」

 幸は妙に落ち着きがない。脳波は動揺と困惑のそれが大きく振れていた。

「そうじゃないの。ただほら、五日間留守にするって言ってたでしょう? だから出掛けようと思ったところなの。あなたったら急に帰ってくるんですもの」

 今度は虚偽の電位が上がる。何を隠してるんだろう? 脳波の属性を確定すべく俺は簡単な質問に切り替えた。

「俺がそう言った訳じゃない。奈緒子と可奈子は保育園かい?」

「そうよ」

 虚偽の電位は発生しない、色も波形にも個体差がある。オイラーズの一人に託した情報は比較的浅い地番を割り当てられてパペッツの回路に収められた。

 通せんぼをするように立ちはだかったままの幸を押し退けて家に上がり込む。ローンがたんまり残っていようと俺がこの家の家長である。遠慮することなどあるものか。居間の中心にでんと腰を据えた。

 専業主婦の幸だった。一歳になったばかりの可奈子を保育園に入れねばならない理由などどこにもない。保育費だって小さな子供ほど高いのだ。俺は反対したが『社会性を身につけるには、なるべく早くから集団生活に慣れておくべきだ。幼稚園を脱走してばかりだったあなたは協調性に欠けるでしょう? 今のあなたを見ていてつくづくそう思うの』と死んだ母から聞いた逸話を盾に迫られ、しぶしぶ了承したものだった。俺に続いて居間に戻った幸は、つい今しがたの肯定を繰り返す。

「子供たちは保育園よ。あなた会社は行かなくていいの?」

「少し休んだら行くつもりだけど車をなくしちゃったんだ。それについても話さないといけない」

 経済観念の発達した――有り体に言えばケチな幸だ。車がなくなったことを聞いて厳しく追求してこないのも不審に思った。それに俺は上着も着ていなければ鞄も持っていない。サンダルも所のを拝借している。幸は心ここにあらずといった体でこう言った。

「話なら帰ってから聞くわ。お友達を約束しているの、あたしは出掛けるわよ」

 どちらかが意思疎通の努力を放り出せば会話は成立しない。仕方ない、先に会社の方を済ませておくか。俺が腰を上げようとしたその時だった。インターフォンのチャイムが鳴り、続いて能天気な声が聞こえてくる。

「みーゆーきちゃん、遊びましょっ」

 娘の名は奈緒子と可奈子、三十四歳の幸にかくれんぼを誘いに来る輩が居るのか? 彼女は思い詰めた顔で唇を噛み締め、玄関へと小走りで向かう。俺もゆっくりと後を追った。

「だめだってば」幸にしなだれかかった男が、後ろからのっそりと姿を現した俺に気づき、ギョッとした表情になる。色白で縁なし眼鏡をかけ、ひょろっとした三十歳前後の青年が、妻の首に手を回したまま凝固していた。幸が、えいやっとばかりにその手をふりほどいて気まずそうな顔をする。

「ははあ、そういうことか。間男君と約束してたんだな。どうりで俺を早く追い出したがった訳だ」

「そんなんじゃないわ、この人は……」

「この人は?」さてさて、この状況でどんな言い訳が出来るものか。俺は幸の言葉を待った。

 只今、言い訳の小部屋を家探し中……と、幸の脳波が伝えてくる。

「もういいっ! あなたが悪いのよ。この人はあたしをちゃんと女として扱ってくれる。寂しかったのよ」

 上手い言い訳が見つからず(今の俺には、どんな巧妙な嘘も通用するはずはなかったが)我が細君は開き直られたようである。そして間男君は逃げ出せばいいものを、じっと項垂れたまま動かない。長い前髪が俯いた彼の顔を覆い隠す。テレビに出ている若者は大抵この髪型だな、彼等はどこで個性を主張しているのだろう。その疑問には青年の思考が代弁してくれた。――僕ってカッコいい? 少なくとも旦那よりはジャニ系? ―― 日本語としては全く成立していなかったが。

「どうするのっ! 殴る? あたし、サトシクンとは別れないわよっ!」

 サトシクン――妻の脳波に漢字表記は浮かんでこない。片仮名の呼び名はどうにも軽薄さを助長させる。当のサトシクンの膝は哀れにも震えっぱなし。世間一般では修羅場と呼ばれるこの状況に相応しくはなかいのだろうが、俺は吹き出しそうになった。

「殴ったりはしないよ。ええと、君はこの男性を愛しているのかな?」

 亭主、怒り狂って暴れだすの図が妻の中では決定事項だったのだろう。殊の外冷静に関係を問い質す俺に、彼女は訝げな目になって答える。

「え、ええ……」

「だったら仕方ない。こうやって、こそこそするのも精神衛生上良くないんじゃないか? 離婚しよう、子供の親権はどうする? 財産分与は――マイナスになるかも知れないな。おい、マオ……サトシ君だっけ? こんなところで立ち話もなんだ、上がっておいで」

 こっちの関係の整理から新たな関係の構築へと一気に話を進める俺に、項垂れていたサトシクンは驚いて顔を上げた。

「いえ、僕はそんなつもりでは……」

 では、どんなつもりだったのだろう。

《この手の男の話は、前置きばかり長くって核心にはなかなか到達しないもんだよ》

 俺はオイラーズの忠告に従って、少々、彼の意識を操作させてもらう。

「僕には結婚する予定の彼女が居て……でも彼女はお固いとゆうか、セックスが至極ノーマルで――そこへゆくと、幸ちゃんはセックスも手練といった感じで……今回もご主人が出張ならラブホテル代が節約出来て……」

 確かに〝て〟とか〝で〟ばかりで述語は極めて少ない。狡い男がその卑しき心根に書き綴った定型文を読み上げる男を、唖然として見つめていた妻の目に怒りの炎が燃え上がった。

 女闘士へと変貌した妻がバチンと大きな音を立ててサトシクンに平手打ちを食らわせる。メガネは吹っ飛び、細っこい彼は思いっきりドアに背中をぶつけた。さぞや痛かったろうに、それを表現する間も惜しんで大急ぎでメガネを拾い上げた。そして「失礼しましたっ」と言って玄関を飛び出して行ってしまう。ドサッという音が聞こえた。哀れなサトシクンは何かに躓いて転んでしまったようだ。その何かは彼自身の矜持だったのかも知れない。偽りの愛を餌に他人の妻とのセックスを楽しんでいたのだ。確かに失礼千万な行為ではある。それでも俺の心の大海は緩やかに凪いだままだった。


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