思い
深夜の冷たい静寂が、ある国の極秘魔術研究所を包み込んでいた。
「……標的、確認。レオン・カスパール。……術式の根絶を開始します」
感情を排した声と共に、銀髪の少女――まだコードネームでしか呼ばれていなかった彼女は、影に溶けるように研究室へと侵入した。手には、迷いなく心臓を貫くための冷徹な短剣。
だが、その刃が少年の喉元に届く前に、室内に張り巡らされていた不可視の感知術式が跳ねた。
「……っ!?」
けたたましい警報音。瞬く間に武装した魔導兵たちに囲まれ、少女は取り押さえられた。
「……処分しろ。機密を知った以上、生かしておく理由は微塵もない」
冷酷な研究員の言葉に、少女は抵抗を止めた。道具が壊れれば捨てられる。それは彼女にとって、呼吸をするのと同じくらい当たり前の「理」だったから。
「――待って。その子、僕と同い年くらいじゃないか」
檻の奥から、一人の少年が声を上げた。レオン・カスパール。実験体として軟禁されていたはずの彼が、真っ直ぐに少女を見つめていた。
「……かわいそうだよ。こんなところで壊されるなんて。……僕が責任を持つ。僕の従者として、僕の傍に置いておいてよ。」
その一言が、少女の運命を「書き換えた」。
レオンは彼女に『ルシフェリア』という名を与えた。
そして、それまで「効率」と「殺意」しか知らなかった彼女の空っぽな心に、彼は一つずつ、色を付けていった。
「これは『美味しい』っていうんだ」
「今のは『楽しい』。……ほら、笑えよ」
「怪我をしたら『悲しい』だろ。……無理すんな」
初めて食べた温かい食事。初めて並んで歩いた庭園。
ルシフェリアの中に、少しずつ「感情」という名の火が灯り始めていた。
だが、その平穏は唐突な爆炎と共に崩れ去る。
魔族の襲撃。研究所は一瞬で地獄と化し、血の匂いと絶叫が渦巻いた。
「……レオン、こっち!手を離さないで!」
ルシフェリアは負傷したレオンを抱え、燃え盛る回廊を駆けた。
だが、背後からは魔族たちの禍々しい魔力の奔流が迫る。絶体絶命の淵で、彼女はただ、心の底から願った。
(……死なせない。この人だけは。私の全てを賭けても、守り抜く……!)
その瞬間、ルシフェリアの意志に呼応するように、彼女の着ていたメイド服に刻まれた補助術式が異常な輝きを放った。
空気が屈折し、光が歪む。
固有魔法――**《透明魔法》**の発現。
「……ガキが消えた…?…まぁいいか…」
ルシフェリアは姿を消したまま、意識を失いかけたレオンを必死に抱え、夜の森へと逃げ込んだ。
未完成の術式を無理やり発動させた反動で、視界は霞み、足元は鋭い石に切り裂かれて血が滲む。一歩踏み出すごとに、地面に赤い足跡が刻まれた。
「……はぁ、……はぁ。……大丈夫、レオン……。私が、必ず……」
燃え盛る研究所、血の匂い、そして終わりのない闇。
雨が降る中、ルシフェリアは、透明化の術式を極限まで維持しながら、必死にレオンを抱えて歩いていた。だが、背後からは魔族たちの殺気が津波のように迫り、逃げ場を失っていく。
その時だった。
「――おや、随分と賑やかだね」
鈴の鳴るような、しかし世界の理を支配するような透き通った声が、夜の静寂を切り裂いた。
ドォォォォン!!
轟音と共に、追ってきた魔族たちが一瞬で「消失」した。爆発ではない。その空間に存在していた事象そのものが、一瞬にして別の何かに書き換えられたかのような不気味な消滅。
街の方角から、ゆらりと歩いてくる人影があった。
返り血一つ浴びず、降っている雨粒が弾かれる。まるで月夜の散歩を楽しむかのように、彼女――キャロル・エインズワースは死地を歩んでいた。彼女の周囲では、襲いかかる魔族たちが、彼女に触れることさえ許されず、次々と塵へと還っていく。
「……あ、……ぁ……」
ルシフェリアは震える足で立ち止まった。
今、自分たちは透明化しているはずだ。光を屈折させ、気配を殺し、この世の誰からも見えない「無」の中にいるはずだった。
だが、キャロルの瞳は、真っ直ぐにルシフェリアを捉えていた。
キャロルがふわりと指先を向けた。
バキィィィィィィィン!!
空間そのものが鏡のように割れる音が響き、ルシフェリアが命懸けで維持していた《透明魔法》が、紙細工のように無残に引き剥がされた。
「……っ、が……っ!」
術式の強制解体による反動。ルシフェリアは膝をつき、血の滲む足を引きずりながらも、咄嗟に意識を失ったレオンを背中に庇った。
「……レオンは……私が……守る……!」
ボロボロのメイド服、切り裂かれた足。それでもなお、獲物を狙う獣のような鋭い眼差しを向けるルシフェリアを見て、キャロルは楽しげに目を細めた。
「ふぅん。欠陥品同士が、随分と面白い『奇跡』を起こしたものだね」
キャロルは歩み寄り、絶望的なほどの魔力の威圧を霧のように霧散させると、屈んで二人と同じ目線になった。
「君、その『意志』……なかなかいいよ。どうだい、僕を……僕たちを楽しませてくれるかい?」
差し出された白く細い手。
「面白い物語になりそうだ」
キャロルは満足げに微笑むと、二人の体を空間ごと包み込み、夜の闇へと消えていった。
書き溜めがほぼなくなりました。毎日更新はします




