第22話 確信
地下階段を下りるほどに、空気はねっとりと肌にまとわりつき、物理的な質量を持った「術式の澱み」がレオンの全身を締め付けた。
最深部――そこは、200年前に彼という存在が「製造」された揺り籠であり、世界の理を記述するための空白の祭壇だった。
祭壇の中央には、脈動する巨大な術式回路が浮遊している。
それはレオンの左手に刻まれたものと同じ、黒く禍々しい《虚無》の根源。見る者の正気を削り、世界の構成情報を強制的に脳内へ流し込む、呪いそのものだった。
「…………これが、俺の正体か」
レオンが歩み寄ると、祭壇の回路が呼応するように激しく明滅し、耳鳴りのような高周波が脳を突き刺した。
本来なら、ここで術式を「読み取り」、あまりの情報密度に脳を焼かれ、自分を定義し直す「書き換え」の権能に呑み込まれるはずの場所。
「……ふざけるな。……誰が、そんな小難しい理屈に従うかよ」
レオンは吐き捨てると、迷いなく左手の白手袋を歯で噛んで引き剥がし、地面に投げ捨てた。
剥き出しになった掌。
レオンが左手を差し出すと、祭壇の回路が共鳴し、凄まじい情報量が脳内に逆流してきた。
侵食する「書き換え」の誘惑。
脳裏に響くのは、個人の意志ではない「世界のシステム」そのものの声だった。
『――不完全な個体よ。その左手にあるのは、破壊の力ではない。世界を、望むままの理に書き換えるための権能なり』
視界が歪む。レオンの思考が、個としての「レオン・カスパール」から、世界を修正するための「部品」へと溶けていく感覚。
「……黙れ……ッ!」
レオンは膝をつき、激痛の走る左手を右手で強く抑え込んだ。
書き換えの力。それを使えば、自分が「造られたゴミ」であるという過去も、魔族に国を滅ぼされた悲劇も、すべてを無かったことにできる。理想の世界を、自分の手で記述し直せる。
(……ああ、そうだ。すべてを書き換えれば、この空虚な痛みさえ消える……)
意識が白く染まりかける。その瞬間、左手の術式が暴走し、周囲の空間そのものを喰らい尽くそうと黒い穴を広げ始めた。それは、レオンという人間が消滅し、ただの「書き換えの装置」へと成り果てるカウントダウンだった。
「ご主人様っ!」
背後から、術式の嵐を切り裂いてルシフェリアたちの声が届く。
合体術式の反動で魔道具を焼き切り、満身創痍でありながら、彼女たちは祭壇の入り口に辿り着いていた。
「……来……るな……っ! 離れろ、俺に触れたら、お前たちの存在そのものが……消える……!」
レオンは喉を焼くような熱に耐えながら叫ぶ。
だが、クラリスは一歩も引かず、煤けた杖を構えた。
「消えさせないわよ、そんな安っぽい力に! あんたが何で作られてようが、アタシたちの記憶まで勝手に消すのは、絶対に許さないんだから!」
「……そうですわ。……貴方がどんな『残骸』から生まれようと、私たちが共に過ごした時間は……いかなる術式であっても、上書きなどさせませんわ!」
エレナが折れかけた細剣を杖代わりにして立ち上がり、凛とした声を響かせる。
「……ご主人様」
ルシフェリアが、黒い霧の向こう側で一歩、また一歩とレオンへ近づく。その肌が術式の余波で裂け、血が流れるのも厭わずに。
「……かつて、貴方は私を『書き換えた』のではありません。貴方は、私の『心』を救ったのです。それは術式による操作ではなく……レオン・カスパールという、一人の人間の意志でした」
三人の声が、システムが告げる冷徹な「理」を打ち消していく。
レオンの視界に、初めて色が戻った。
「…………フッ。……お前ら、本当に、……最高にいい奴らだな」
レオンは自嘲気味に笑い、左手の拳をギリリと固めた。
読み取る必要なんてない。理解する必要さえない。
「……見てろよキャロル。……あんたの造った最高傑作は、……あんたの用意した筋書きなんか、これっぽっちも選ばねえ……!」
レオンは一歩踏み込み、理の渦――祭壇の核に向かって、渾身の左ストレートを叩きつけた。
ガキィィィィィィン!!
金属が粉々に砕け散るような、硬質な轟音が地下室全体に響き渡る。
本来、物理的な実体を持たないはずの「術式」が、レオンの生身の拳に触れた瞬間に、まるで物理的な構造物であるかのようにガラス状に砕け、光の破片となって四散した。
「……はぁ、……はぁ。……読み取る必要なんて、最初からなかったんだ。……壊すべきもんなら、殴り壊せばいい」
レオンの左手からは、もう黒い泥は溢れていない。
ただ、熱を帯びた生身の拳が微かに煙を上げ、赤く腫れ上がっている。
脳を焼くようなあの不快なノイズも、今は驚くほど静かだった。
「……カスパールさん、今、術式を……直接、物理的に……?」
エレナが信じられないものを見る目で立ち尽くす。
「……あいつ、魔術を『物理』で解決しやがったわね……。あんな無茶苦茶な魔術師、見たことないわよ」
クラリスが呆れたように、でもどこか誇らしそうに笑う。
「……流石はご主人様です。理屈が通じないなら、力で分からせる。……これこそが、私の敬愛するレオン様です」
ルシフェリアが真っ先に駆け寄り、レオンの傷ついた左手を、壊れ物を扱うように両手で包み込んだ。
「……あはは! 傑作だね! 長年かけて練り上げた僕の『理』を、ただの『拳』で台無しにするなんて!」
崩落を始めた天井の隙間から、キャロルの高笑いが響き渡る。
彼女は悔しがるどころか、これ以上ないほど満足そうに、消えゆく洋館の闇に溶けていった。
「合格だよ、レオン。……さあ、早く逃げなさい。……そこはもう、ただの瓦礫の山になる!」
ドォォォォン! と激しい震動と共に、天井から巨大な石材がレオンたち目掛けて降り注ぐ。
「……ちっ、……エレナ、クラリス、ルシフェリア! 俺の背後にいろ。……全部、殴り落としてやる!」
レオンは赤くなった左手を再び固め、迫りくる「崩壊という術式」を力強く見据えた。
崩落する洋館の轟音が背後で途絶え、もうもうと立ち込める土煙の中から、四人の影が這い出した。
赤茶けた荒野には、いつの間にか深い夕闇が降りてきている。遠くアステリア王国の結界が、地平線の彼方で淡く瞬いていた。
「……はぁ、……はぁ。……死ぬかと思ったわよ、本当に」
クラリスがその場にへたり込み、ボロボロになった杖を放り出した。自慢のポニーテールは解け、顔は煤で汚れているが、その瞳には生還の喜びが宿っている。
「……まったく、……あんな無茶苦茶な『卒業試験』、聞いたことがありませんわ……」
エレナも膝をつき、肩で荒い息を吐く。細剣の鞘はひしゃげ、高級なドレス仕立ての旅装も無惨に裂けていたが、彼女はそっと胸のネックレスに手を触れ、隣に座り込むクラリスと顔を見合わせて、ふっと小さく笑った。
少し離れた場所では、ルシフェリアが甲斐甲斐しくレオンの側に跪いていた。
「ご主人様……お手を。……出血は止まりましたが、腫れが酷いです」
彼女は自分のメイド服の裾を迷いなく裂き、レオンの赤紫色に腫れ上がった左手を丁寧に包んでいく。彼女自身も、術式の余波で腕や頬に切り傷を負っているというのに、その意識は全て「主の負傷」に向けられていた。
「……あぁ、……悪いな。……ちっ、生身で術式を殴るのは、当分御免だ」
レオンは岩に背を預け、痛む拳をルシフェリアに委ねた。
手袋を失った左手は、もはや禍々しい光を放ってはいない。そこにあるのは、ただの傷ついた少年の手だった。
「……カスパールさん」
エレナが、夕闇の中でレオンを見つめる。
「……貴方が何から生まれたのか、もう私たちは知っています。ですが、そんなことはどうでもいいことでしたわね」
「そうよ。あんたがゴミ溜めから生まれてようが、神様に造られてようが、アタシたちの前で不器用そうに笑うのがレオンだってことは、アタシたちが一番よく知ってるんだから」
クラリスが顔を上げ、悪戯っぽく笑いかける。
「…………フッ。……お前ら、お喋りが過ぎるぞ。……さっさと立て。……こんな場所で夜を明かせるか。それに、さっさと帰ってあのクソババァに文句を言いに行かないとな」
レオンはぶっきらぼうに言い捨てて立ち上がろうとしたが、足元がふらつく。それをルシフェリアが、当然のように、そして少しだけ嬉しそうに支えた。
「……はい、ご主人様。……帰りましょう、私たちの場所へ」
四人のボロボロの影が、長い影を引きながら、夜の荒野をゆっくりと歩き出す。
背後の洋館の残骸は、もはやただの瓦礫の山に過ぎない。
レオン・カスパールという存在を縛る「記述」は、もうどこにも存在しなかった。




