第17話 旅立ち
深い夜。医務室を抜け出したレオンは、重い足取りで時計塔の最上階を目指していた。
そこは学園で最も星に近い場所。扉を開けると、そこには夜風に髪をなびかせ、大きな日記帳を開いたキャロル・エインズワースがいた。
「……来たね、僕の可愛い『虚無』。傷の具合はどうだい?」
「……最悪だ。あんた、分かってて見てただろ。あの魔族が学園を囲んでたのを」
レオンの刺すような視線。だが、キャロルはおどけたように肩をすくめる。
「心外だなぁ。僕はただ、生徒たちの自主性を尊重しただけだよ。……それに、ゼノン。彼が君の「虚無」にどれほど驚いていたか、君にも見せてあげたかった」
「……あいつを知ってるのか」
「知っているも何も、ずっーと前から変わらない、退屈な平和主義者だよ。……真空で全てを黙らせ、変化を拒む。あんなに面白みのない男はいない」
キャロルは柵に腰掛け、夜空を指差した。その指の先には、ゼノンが撤退した際に残した、微かな魔力の「歪み」がまだ滞留していた。
「レオン。君は彼が、ただ学園を壊しに来たと思っているのかい?」
「……違うのか」
「彼はね、君のその左手……《虚無》を『迎え』に来たんだよ。」
キャロルの言葉に、レオンの背筋に冷たいものが走る。
「魔族にとって、君の力は天敵ではない。むしろ、彼らの王が何百年も探し続けていた『最後の欠片』なんだ。ゼノンが今回『沈黙』を学園全体に広げたのは、君が絶望し、左手の出力を限界まで解放するのを待つため。……つまり、君の力を『鑑定』していたのさ」
「……鑑定だと?」
「そう。君が二人の魔力を通して放ったあの一撃。あれでゼノンは確信しただろうね。レオン・カスパールこそが、世界を本来の形――魔術も命も存在しない、完全な『静止』へと導く鍵だと」
キャロルは日記帳を閉じ、レオンの目の前まで歩み寄る。彼女の瞳は、慈愛と狂気が混じり合ったような複雑な色を湛えていた。
「レオン。君の復讐は、まだ始まったばかりだ。……世界中にはびこる、この醜くも美しい『魔術という病』を根こそぎ消し去るまで、彼らは君を追い続けるだろうね」
「……勝手なことを。俺は、ただ……」
「分かっているよ。…なら、強くなりな。僕が教えた魔術を、君だけのやり方で『書き換え』て、運命ごと消し去ってしまうくらいにね」
キャロルは儚げに笑うと、レオンの左手に優しく手を添えた。彼女の肌からは、200年前の洋館に残されていた日記と同じ、古い紙のような香りがした
キャロルに告げられた「最後の欠片」という言葉は、レオンの心に重い楔を打ち込んだ。
「……ここにいれば、またあいつらが来る」
レオンは包帯の巻かれた左手を見つめる。
この力は、誰かを守るための「魔術」ではない。世界を構成する術式そのものを噛み砕き、白紙に戻す《虚無》だ。自分がこの学園という平穏な場所に留まることは、周囲を魔族との戦乱に巻き込み続けることと同義だった。
「……キャロル。あんたの言う通りだ。俺は、俺のルーツを叩き潰しに行く」
レオンは背を向け、塔を降りる。
彼が決意したのは、学園の英雄として生きることではなく、自分という「異物」を正しく処理するための孤独な旅だった。
レオンが寮の自室で最低限の荷物をまとめ、日の出前に門へ辿り着いた時。
そこには、朝靄の中に佇む三つの影があった。
「……遅いですわ、カスパールさん。忘れ物でもなさったのかと思いましたわ」
エレナが、まるで散歩にでも行くような涼しい顔で、しっかりと旅装を整えて立っていた。その隣では、クラリスが大きなリュックを背負い、退屈そうに欠伸をしている。
「……あんたが夜逃げなんて、100年早いのよ。……あたしたちを散々『その気』にさせといて、一人で英雄気取りなんて許さないんだから」
そして、レオンのすぐ後ろの影が揺れ、ルシフェリアが音もなく姿を現した。
「……ご主人様。お体に障ります。お荷物の半分、お預かりいたします」
レオンは天を仰ぎ、深く、長くため息をついた。
「…………好きにしろ。ただし、足手まといになった瞬間、そこに捨てていくからな」
「ええ、承知いたしましたわ」
「……へん!、捨てられるのはあんたの方じゃない?」
学園という安息を捨て、世界の「バグ」を消し去るための、レオン一行の旅が始まった。




