第10話 魔術師殺し
石の扉が閉ざされた瞬間、世界から一切の光が消えた。
直後、足元から這い上がるようにして、薄気味悪い、粘りつくような銀色の霧が視界を埋め尽くしていく。
「……っ!? 何これ、魔力の循環が……あたしの白炎が、形にならない……!」
クラリスが焦燥に声を荒らげる。彼女が杖に魔力を込めようとするたび、術式の設計図が霧に食い荒らされるように霧散し、杖からは力ない火花が散るだけだ。
「計算が合いませんわ……。光の防壁が、霧に侵食されて……方位術式さえ、機能していません」
エレナもまた、苦渋の表情で自身のネックレスを握りしめていた。
魔術学校で魔術を習った魔術師が、入り口から数メートルで完全に「魔術」を封じられたのだ。
これが、世界唯一のS級――キャロル・エインズワースが「少し弄った」だけの絶望だった。
(……うるさいな。この霧、術式の書き込みが多すぎる。無駄に緻密なんだよ、あのババア)
レオンの視界には、彼女たちが怯える霧など映っていない。
見えているのは、空間を埋め尽くすように書き殴られた、キャロルの「悪趣味で高密度の数式」の羅列だ。
「……ご主人様。視界が悪いです。……消してしまいましょうか」
背後に控えるルシフェリアが、不快そうに目を細める。彼女の透明魔法も、この霧のせいで屈折率が狂い、時折その姿がノイズのように揺らいで見えていた。
「……ああ。時間の無駄だ」
レオンは立ち止まり、白手袋を嵌めた左手を、眼前の「虚無」へと無造作に伸ばした。
――無音。
レオンが左手を一振りした瞬間、霧という「事象」そのものが、レオンの指先から白紙に戻され、空虚な空間へと還った。
魔力の相殺ではない。キャロルが編み出した「神の術式」を、ただの出来損ないの落書きのように「消去」したのだ。
「霧が……消えた……?」
「……カスパールさん、貴方……今、何をしたのですの?」
視界が開け、不気味なほど静まり返った石造りの回廊が姿を現す。
エレナとクラリスは、呆然とレオンの背中を見つめるしかなかった。
彼女たちが一生をかけて学ぶ魔術の理が、レオンにとっては「ただの消しゴムで消せるノイズ」に過ぎないという現実。
「……行くぞ。……キャロルの『宿題』を片付けに」
レオンは一度も振り返らず、闇の奥へと足を進める。
回廊の奥、円形の広間に辿り着いた一行の前に、それは天井から音もなく降り立った。
三メートルを超える鈍色の巨躯。全身が未知の合金で構成された、四本腕の自動人形。
「……術式反応が、ありませんわ!? 魔力で動いているはずなのに、なぜ……!」
驚愕するエレナに対し、クラリスが顔を強張らせる。
「……あ、あれは!?術式を内部の『核』に完全封印して、純粋なゼンマイと歯車……物理エネルギーだけで動く、キャロル様特製の『魔術師殺し』よ!?」
ドォォォォンッ!!
自動人形が地面を蹴った瞬間、その巨体は視認不可能なほどの超高速でレオンの懐へと潜り込む。四本の腕が、鉄柱のような太さで同時に振り下ろされた。
「レオン、危ない……!」
クラリスが叫ぶ。だが、レオンは一歩も引かず、白手袋の掌でその剛腕を真っ向から受け止めた。
「……遅いな。キャロルのしごきに比べれば、止まって見える」
人形は異常な関節駆動で、残る三本の腕を死角から叩きつけてくる。
「――ご主人様に、触れさせません」
影が、爆ぜた。ルシフェリアが人形の肩に飛び乗り、二振りの短剣を逆手に持ち、関節部を正確に刈り取っていく。
ルシフェリアが囮となり、人形の全腕を外側へ引きつける。レオンはその隙に、右手を左手の指先にかけた。
そして、汚れ一つない白手袋を、ゆっくりと引き抜いた。
「……レオン? 何を……」
露わになったのは、ひどく白く、静謐な左手。
その手が空気に触れた瞬間、周囲の魔力が、まるで怯えるように微かに震え、霧散した。
「――《虚無》」
レオンの素手が、人形の胸部装甲に吸い込まれるように触れた。
衝撃波も破壊音もない。ただ、レオンの指先が触れた瞬間、内部の核が、**「最初から存在しなかったこと」**に書き換えられていく。
ゴーレムは動きを止め、その場で沈黙する。
「…………嘘。本当に触れただけで……」
エレナがその光景に戦慄する。
レオンは、消滅した人形の塵を払うこともせず、再びゆっくりと白手袋を嵌め直した。
「……行くぞ。……キャロルの『宿題』は、まだ終わってない」




