窓の向こうで濡れている
夜の静寂に包まれた部屋。
閉め切った窓の向こう、誰もいないはずの廊下に、微かな水音が響く——。
本作は、普通の生活の裏側に潜む恐怖を描いた物語です。
主人公の玲奈は、大学生というごく平凡な日常を送っていました。
しかし、ひとつの部屋との出会いが、彼女の世界を一変させます。
窓の内側に残る濡れた指跡、夜中に響く不気味な足音、そして姿なき何者かの気配——。
やがて、玲奈は過去に同じ部屋で起きた失踪事件と向き合い、
現実と異界の境界に立たされることになります。
恐怖に押し潰されそうになりながらも、彼女は逃げず、真実と対峙することを選びます。
本書は、単なる幽霊譚ではありません。
見えないものに触れる勇気、恐怖に立ち向かう心、そして過去の痛みに寄り添う姿を描く、心理と超常のホラーです。
夜が深まり、部屋の外の風が窓を揺らすとき、どうか心を静め、ページをめくってください。
そして、窓の向こうに潜むものの気配に耳を澄ませてみてください。
あなたがその音に気づいたとき、物語は静かに、しかし確実に、現実の世界と交差し始めるでしょう。
序章:濡れた足跡の部屋
夜半過ぎ、雨が叩きつけるように降っていた。 安アパートの一室で、大学生の玲奈はレポートに追われ、机に向かっていた。
ふと、部屋の隅に違和感を覚えた。 ——視線を感じる。
玲奈の部屋には、唯一の窓がある。だがその窓は、外廊下に面しており、普段は厚手のカーテンを閉めている。 風の音に混じって、微かな「トントン」という軽い音がした。
——ノック? こんな時間に?
玲奈はカーテンに手を掛けたが、すぐには開けられなかった。胸の奥がざわついていた。
「……誰ですか?」
返事はない。 ただ、今度は“指でなぞるような音”が聞こえた。
シャリ、……シャリ。
——窓ガラスを、なぞっている?
鳥肌が立つ。 しかし、放っておくこともできず、意を決してカーテンを一気に開いた。
外には、誰もいなかった。 階段の踊り場も、廊下の端まで見渡しても、気配すらない。
玲奈は安堵の息をつき、カーテンを閉めようと手を伸ばした。 その瞬間、視界の端で“動くもの”があった。
——窓ガラスに、白いものが浮かんでいる。
ゆっくり目を向けると、 そこには “濡れた指の跡” が、ガラスに五本くっきりと残っていた。
さっき開けるまで、カーテンは閉まっていた。 なのに——
その指跡は、部屋の内側からついていた。
玲奈は背筋が凍りつくのを感じ、ゆっくりと部屋の中を見回した。
カーテンの影。 机の下。 クローゼット。
どこかで、水の滴るような音がする。
ポタ……ポタ……
そして、背後で濡れた足音がした。
ペタ……ペタ……
玲奈は振り返ることができなかった。
ただ一つ、確かにわかったのは——
そこに“誰か”が立っている。 窓の向こうではなく、もう、部屋の中に。
第1章 見えない同居人
あの夜以来、玲奈はカーテンを閉めたまま、窓に近づくことができなくなっていた。
雨はもう止んでいたが、窓の内側についた“指跡”だけは、 どれだけ拭いても、翌朝になると元通りそこに現れていた。
まるで——
誰かが夜のあいだに、何度もそこへ触れているように。
その事実を認めたくなくて、玲奈は大学から帰るとすぐ部屋の電気をすべてつけた。 明るい光が部屋中を照らしているときだけ、安心できる気がした。
けれど、異変は控えめな形で、毎日訪れた。
ある日の夜—— 玲奈がシャワーを終えて出てくると、風呂場の床に“ひと束の黒い髪”が落ちていた。
自分の髪かと思ったが、色が違う。 玲奈の髪は染めているため赤みがあるのに、そこに落ちている毛は真っ黒だった。
「……誰の?」
声は震えていた。
別の日には、夜中に目を覚ますと、枕元のスマホが床に落ちていた。 寝相が悪かったのかと思ったが、 スマホは“布団の外側”、足元よりさらに離れた位置にあった。
——まるで、誰かが手に取って、放り投げたかのように。
不安は膨らむ一方だった。
翌晩、玲奈は寝る前に玄関のチェーンも二重鍵もすべて確認し、 “人間が入ってくる余地はない”と自分に言い聞かせた。
だが——深夜二時。
キィ……と、小さくドアが開く音がした。
玲奈は飛び起きた。 玄関を見ると、 閉めたはずのドアが、数センチだけ開いていた。
「やだ……やだ……」
鍵は閉まっている。チェーンもかかったままだ。 つまり、物理的にドアが開くはずがない。
それなのに、わずかに開いた隙間の向こうから……
ポタ……ポタ……
水が滴るような音が響いてきた。
玲奈は布団をかぶり、震えながら朝を待った。 この部屋はおかしい。 このままだと自分はどうにかなってしまう。
——引っ越そうか。
その考えが頭をよぎったが、翌朝、不動産屋に電話すると「解約には違約金がかかる」と冷たく言われた。
嫌な胸騒ぎがした。 まるで“誰か”がこの部屋に留めようとしているようだった。
第2章 消えた前の住人
どうしても気になり、玲奈は不動産屋を訪ねた。 担当の男性は渋い顔をしながら、打ち明けた。
「……前の住人の話は、あまりしたくないのですが」
「なんでですか?」
玲奈が訊くと、男は書類をまとめながら言った。
「朝倉真琴さん。二十代の女性です。 半年前、この部屋で……失踪しました」
「……失踪?」
「部屋の中に財布も携帯もすべて残して。 ドアには鍵がかかり、窓も内側から閉まっていました。 結局、どこにもいなかった」
玲奈が言葉を失っていると、男は付け加えた。
「警察も色々調べたんですがね。 この部屋……“中”から彼女が消えたとしか思えないんですよ」
冷たいものが背中を這い上がる。 玲奈は尋ねずにはいられなかった。
「その……真琴さん、なにか言い残していませんでしたか?」
担当者は少し考え、眉をひそめた。
「そういえば……部屋の掃除のとき、メモが一枚だけ残っていてね。 あまりに気味が悪くて処分したんですが」
そこに書かれていた言葉は——
《カーテンの向こうではなく、 カーテンのこちら側を見ろ》
玲奈は息が止まった。
“窓の内側”に指跡がついていた、あの夜。
あれは偶然なんかじゃなかった。 真琴も同じものを見ていた。 そして——部屋の中で消えた。
帰宅した玲奈は、震える手で自室のカーテンを見つめた。
カーテンは薄く膨らみ、部屋の空気が動いたように揺れた。
その向こうで、水滴が床に落ちるような音がした。
ポタ…… ポタ……
――カーテンの、こちら側。
そこに、“誰か”が立っている。
第3章 廊下に現れる水音の影
その夜、玲奈は眠れなかった。
布団に入っても、部屋のどこかで水滴の落ちる音が断続的に響き、 カーテンの向こうで空気が“波打つように”揺れている気配がした。
ポタ……ポタ…… しずくは確実に「部屋の内側」から響いている。
人間ではない“何か”が部屋にいる。 それを認めた瞬間、心が壊れる気がして、玲奈は布団を頭までかぶった。
しかし——その夜は奇妙なほど静かだった。
朝になり、恐る恐るカーテンを見ると、 窓の指跡が消えている。
その代わりに、部屋の出口の前、 玄関の床に濡れた足跡が二つ並んでいた。
それは、玲奈の足よりもひとまわり小さい……女性のものだった。
玲奈は喉が乾き、思わずその場にしゃがみ込んだ。
この部屋だけはもう耐えられない。 誰かに相談しなければ。
■友人の紗月
大学に着くと、玲奈はサークル仲間の 紗月 を呼び出した。 紗月は玲奈と違って気が強く、物事をはっきり言うタイプだ。
話を聞き終えると、紗月は腕を組んでため息をついた。
「……で、アンタはその“足跡”が幽霊だと思ってるわけ?」
「幽霊なんて思いたくないよ……でも……」 玲奈は声を震わせながら言った。 「物音も、あの指跡も……人じゃ説明できないの」
紗月はしばらく考えた後、 まっすぐ玲奈の目を見つめて言った。
「今日、あたしが泊まるよ」
「えっ……紗月?」
「一人であんな部屋に戻るほうが危ないでしょ。 それに、幽霊なんているわけない。あたしが確認してやる」
玲奈は心底ほっとして、紗月の手を握った。
「ありがとう……本当に……」
■その夜
二人でコンビニ弁当を食べ、映画を見ながら時間をつぶした。 紗月は「幽霊? 上等じゃん」と笑い飛ばしていたが、 夜が更けるにつれ部屋の空気が重くなっていくのを、玲奈は感じていた。
深夜十二時過ぎ。 部屋の電気はすべて点けたまま、二人は布団に入った。
「なにか聞こえたら起こしてよ」 「はいはい」
ほどなくして紗月の寝息が聞こえてきたが、玲奈は目を閉じられなかった。
いつもの水音が、来る——そう思っていた。
しかし、その夜は違った。
■廊下からの気配
午前二時。 突然、部屋の外――廊下のほうから気配がした。
キィ……キィ……
古い床を“誰かがゆっくり歩いている”ような音。
玲奈は凍りついた。 アパートの廊下にはカメラもないし、誰もこんな時間に歩くはずがない。
廊下の気配は、玲奈の部屋の前で止まった。
そして——
ペタ……ペタ……
水の滴る足音に変わった。
玲奈の心臓は破裂しそうだった。 隣で寝ている紗月の肩を揺さぶる。
「紗月……! 起きて……!」
「ん……なに……?」
不機嫌そうに目を開けた紗月が、玲奈の強張った表情を見て身を起こした。
「……外、来てる……」 玲奈は震えた声で囁いた。
紗月が耳を澄ますと、確かに聞こえた。
ペタ……ペタ……
——水の音。
廊下の照明が一瞬だけ明滅し、 ドアの向こうで“何か”が立ち止まる気配がした。
紗月は息をのんだ。
「……何、あれ……人じゃないよね……」
玲奈は首を振るしかなかった。
やがて足音は途絶えた。 静寂が戻る。
紗月はしばらく耳を澄ませていたが、 突然、震える声で言った。
「……玲奈。これ以上この部屋にいちゃダメだよ」 「やっぱり……? 紗月にも聞こえたんだよね?」
紗月は重く頷いた。
「聞こえただけじゃない……」
紗月は、自分の腕を見せた。
腕に、指でつけられたような“水の跡”が四本、くっきりと残っていた。
玲奈は叫びそうになった。
紗月は震えながら言った。
「寝てる間に……“触られた”。 もうここは普通じゃない。 あたし明日、大家にも連絡する。アンタは私の家に泊まって」
玲奈は紗月の腕に触れ、冷たい水の感触に息を呑んだ。
部屋の中ではなく、 ――“廊下にいる何か”が彼女たちに触れたのだ。
■翌朝の廊下
朝になり、二人で恐る恐る玄関を開けた。
廊下には誰もいない。 だが、そこには確かに“痕跡”が残っていた。
玲奈の部屋の前から階段まで、濡れた裸足の跡が縦に並んで続いていた。
ひとつひとつが、小さくて細い。 大人の女性のものだ。
紗月は青ざめながら呟いた。
「これ……玲奈の前の住人の……?」
玲奈は返事ができなかった。 朝倉真琴の写真を見たことはない。 だが、その足跡が「女性」であることは間違いない。
そして——
足跡は階段の途中で突然、消えていた。
行き先が、どこにもない。
第4章 真琴の遺した録音
紗月に強く言われた通り、その日、玲奈は彼女の部屋に泊まることになった。 着替えも最低限の荷物だけを持ち、アパートの部屋には必要最小限しか戻らないようにした。
しかし——引っ越しを決めたとしても、荷物をすべて取りに戻らなければならないし、 何より、あの部屋の“正体”を知らないままでは、どこへ行っても恐怖は消えないだろう。
紗月は心配して玲奈を泊めながらも、 「証拠を集めるべきだ」と、あの部屋の過去を探ることを提案した。
「前の住人の朝倉真琴さん……その人の痕跡が、きっとまだ残ってる。 アンタ一人だと危ないから、休みの日に一緒に探しに行くよ」
玲奈は頷くしかなかった。 すでに恐怖は日常を侵食し、逃げるだけでは何も変わらないと悟り始めていた。
■アパートの管理室で見つけたもの
週末、二人はアパートの管理人室へ行った。 管理人の老人は気難しそうだったが、紗月の押しの強さに根負けしたのか、 渋々ながら資料室の棚を開けてくれた。
「前の住人の荷物は全部処分したはずだよ。 ……ただ、一つだけ、捨て損ねたものがある」
老人が机の引き出しから取り出したのは、 小さな ボイスレコーダー だった。
銀色で古びていて、ところどころ塗装が剝げている。
「これね、朝倉さんの部屋の掃除のとき、クローゼットの奥にあったんだ。 なんか不気味で、誰も触りたがらなくてね……」
老人はレコーダーを机に置き、距離を取るように身を引いた。
玲奈はそれを手に取る。 冷たい。どこか湿っているように感じた。
紗月が眉をひそめた。
「これ……開けてみる?」
「うん……聞かなきゃ、前に進めない気がする」
震える手で再生ボタンを押した。
■音声1:生活音
最初の数秒は、普通の生活音だった。 料理をしているような音、窓のスライド音、家具が動く音……
そして、軽い独り言が聞こえた。
『……はぁ。慣れないな、この部屋。 夜が変に静かで……』
紗月が息を呑んだ。
「この声……前の住人?」
玲奈は無言で頷く。
■音声2:異変の始まり
再び音が変わる。 真琴の声は、少し疲れているようだった。
『最近……変なんです。 夜になると、窓の向こうから音がする。 叩くような……指でなぞるような……』
玲奈の背中が冷たくなった。 自分が体験したのと同じだ。
『でも、一番怖いのは—— その跡が、内側 についてたこと……』
ガタン、と紗月が椅子を蹴る音がした。
「やっぱり……アンタと同じ経験してる……」
玲奈は無言のまま録音を聞き続けた。
■音声3:何かが入ってくる
次の音声は、明らかに真琴の声が震えている。
『昨日、ドアが少し開いてて…… 鍵、閉めたはずなのに…… 廊下のほうで、水の足音 が……』
ペタ……ペタ……と、録音の中からも確かに水音が聞こえた。 玲奈は涙が滲みそうになるのを必死に堪えた。
『何度も警察を呼んだけど、誰もいないって言われて…… 管理人さんにも相手にされなかった…… 私、たぶん、この部屋に閉じ込められてる……』
紗月は玲奈の手を握りしめた。
録音は、まだ続いている。
■音声4:最後の記録
やがて、真琴の声は囁き声になった。
『今日は、ずっと……カーテンのこちら側で音がする。 本当に、誰かいるみたい……』
小さな呼吸音が続く。 その後、不意に、別の音が混じった。
ザ……ザ…… カーテンが揺れるような、布を擦る音。
『やだ……やだ……入ってこないで……』
真琴の声の直後、 録音の中で、はっきりと“何か”の気配が近づく音がした。
ペタ…… ペタ……
濡れた足音。 近づいている。
紗月が息を止めた。
やがて、録音の中で真琴が涙声で叫んだ。
『どこにいるの……!? どこに……!?』
その瞬間、聞こえた。
人ではない声。
低く、濡れて、崩れたような声が レコーダーのスピーカーから流れ出す。
『ここにいるよ…… あなたの後ろに』
次の瞬間、 録音はブツリと切れた。
■沈黙のあとで
部屋には、紗月と玲奈の息遣いだけが残った。 二人はしばらく言葉を発せず、ただ互いの顔を見つめた。
紗月が口を開く。
「……これ、さ…… アンタの部屋で起こってることと、全部同じじゃん……」
玲奈は唇を噛んだ。
「真琴さん……“後ろにいる”って言われたんだよ……? ってことは……部屋の中に入ってきたってことだよ……?」
紗月が震える声で言った。
「玲奈……あの部屋は、もう……」
そこで紗月の言葉は途切れた。
なぜなら——
玲奈の荷物を入れたバッグから、“水が滴る音”がしたからだ。
パタ……パタ……
玲奈と紗月は同時にバッグを見た。 中には服と化粧品しか入れていない。
それなのに、
黒髪が一本、バッグの口から垂れ下がっていた。
第5章 濡れた世界の境界
バッグの中から垂れ下がる黒髪を見て、玲奈は凍りついた。 紗月も、恐怖で体が硬直していた。
「……これは……真琴さん……?」 玲奈の声は震えていた。
紗月は首を振った。 「違う……違うよ……これは、アンタの後ろにいる“何か”が……」
その瞬間、部屋の空気が変わった。 ひんやりと湿った風が吹き抜け、カーテンがゆっくり揺れる。
ポタ……ポタ…… 水音が、ゆっくりと部屋の中を歩く。
玲奈と紗月は立ち上がった。 恐怖で動けないわけではない。むしろ、動かざるを得ない。 “何か”が、確実に彼女たちに近づいていた。
■部屋の中の異変
空気は重く、壁には薄く水がにじんでいる。 床も冷たく湿っており、まるで部屋全体が“水浸しの世界”になったかのようだった。
玲奈は息を整え、バッグを抱きしめた。 紗月が指さす先には、窓のカーテンの向こうに、黒い影がゆらりと見える。
「見える……?」 玲奈は小さく頷く。
影は次第に形を変え、女性のようなシルエットに見えた。 だが、足元は水滴でぼやけ、表情は見えない。
ポタ……ポタ……
床を濡らす足音は、部屋の内側からも外側からも同時に響く。
玲奈の胸が締め付けられる。
「この部屋……もう現実じゃない……」 紗月が囁く。
■夢と現実の境界
玲奈は視界が揺れるのを感じた。 まるで部屋全体が“波打つ水面”のように変形している。
振り向くと、廊下の向こうに人影がある。 しかし、それは紗月の姿でも、現実の誰でもない。
声が聞こえる——低く、濡れた声。
『こっちに来なさい……』
玲奈の手を引く力が背中にかかる。 振り返ろうとするが、体は水の中を歩くように重く、動かない。
紗月が叫んだ。 「玲奈! 離れないで! 絶対に! こっちに引きずり込まれちゃダメ!」
しかし、玲奈の視界の端に、もう一人、濡れた女性の影が浮かんだ。
——真琴なのか、それとも別の存在なのか。 その瞳は空洞で、玲奈の魂を見透かしているようだった。
■濡れた手
影はゆっくりと手を伸ばした。 玲奈の肩に触れると、ひんやりとした水の感触が伝わる。
恐怖で心臓が止まりそうになった。 だが、紗月が玲奈の手を握り、強く力を込めた。
「玲奈! 絶対に屈するな! 目を逸らすな!」
玲奈は目を見開き、影の手を直視した。
すると、不意に——影の表情が揺れた。 真琴の顔に見えた。
そして、水滴のような声が聞こえた。
『助けて……私を解放して……』
玲奈は悟った。 “それ”はただの怪物ではない。 部屋の中に閉じ込められ、消えた真琴と同じ存在たちの、苦しみの集合体なのだ。
■決断の時
玲奈は紗月の手を握りしめ、深く息を吸った。
「……もう、逃げない。 真琴さんを……そして、この部屋の中のすべてを……見届ける」
紗月はうなずいた。 「なら、二人でやるしかないね……」
部屋の水音は一瞬止み、静寂が訪れた。
玲奈はゆっくりと、濡れた手を握る影の前に歩み寄る。 心臓が破裂しそうだったが、恐怖を押し殺す。
これが……境界の向こう側。 現実と異界の狭間。 真琴と、そして“それ”との接触点。
玲奈が手を触れた瞬間、水音が広がり、部屋全体が白い霧に包まれた。
視界が揺れ、世界の輪郭が崩れる。 玲奈は意識を保とうと必死に目を開いた。
そして——
その先で、真琴の声がはっきりと聞こえた。
『ありがとう……やっと……』
第6章 窓を閉じても、もう遅い
霧のように広がった白い空間の中、玲奈は濡れた手を握る影を前に立っていた。 紗月も隣で体を固くし、呼吸を整える。
目の前にいるのは、かつての住人・真琴の姿を含む、数え切れないほどの“濡れた存在たち”。 それらは霧の中でゆらめき、玲奈と紗月をじっと見つめていた。
「……どうすればいいの?」紗月の声はかすれていた。
玲奈は震える手を握りしめ、深く息を吸った。 「逃げない……私たちは、ここで終わらせる。 真琴さんを、そしてこの部屋の……全部を解放する」
■真琴の過去と部屋の秘密
霧の中、真琴の声が玲奈の脳裏に響く。
『ここには……入ってはいけないものがいたの。 みんな……閉じ込められてしまった……』
玲奈は理解した。 この部屋は単なるアパートの一室ではない。 窓もドアも閉まっているのに、存在を吸い込む異界への入り口だったのだ。 人間の恐怖や孤独が、濡れた足跡や指跡として形を変え、部屋に残っていた。
真琴も、その中に取り込まれ、霧と水の存在となっていた。
■霧の中での対話
玲奈は目を閉じ、深く呼吸した。 影の手を握り返す。
「真琴さん……怖くなかった? でも、もう大丈夫だよ。私たちが助ける」
真琴の姿が微かに揺れ、濡れた影が光を帯びていく。 水音が強くなり、霧は渦を巻くように動いた。
『ありがとう……玲奈……』 声は小さく、しかし確かに聞こえた。
■異界の浄化
玲奈と紗月が手を握り合うと、濡れた存在たちは少しずつ形を崩し、霧の中に溶け込んでいった。 床に滴る水音も、やがて静かになった。
窓を見ると、カーテンが自然に揺れ、差し込む朝日が部屋を満たしている。 窓の内側についた指跡も、足跡も、すべて消えていた。
玲奈は胸の奥で、安堵の涙を流した。 紗月もまた、肩を震わせながら涙をぬぐった。
「……終わったんだね」紗月が囁く。 玲奈は頷くしかなかった。
■最後の余韻
その後、玲奈は部屋を引き払い、二度とあのアパートには近づかなかった。 だが、心の奥底で、あの濡れた足音や霧の存在を完全に忘れることはできない。
時折、夜の風が窓を揺らすと、玲奈はわずかに身をすくめる。 けれど、もう恐怖に押し潰されることはなかった。
誰も見ていない場所で、静かに終わった物語が、 夜の闇の向こうで息を潜めているだけ——
玲奈はそう思いながら、深く息を吸い、未来へ歩き出した。
この物語は、恐怖に立ち向かう二人の少女の話であり、 過去に閉じ込められた魂と向き合う勇気の物語でもあります。
「窓の向こう」に見えるものが、必ずしも外の世界だけではない。 時には、自分のすぐ傍に潜む恐怖と向き合うことが、生きる力になる—— そんな思いを込めました。




