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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第4章 葵 起動=誕生
39/56

38話 初めての公園

工藤は、自分の根城である工作室で休憩中だった。急須から湯気を立てるお茶を湯呑みに注ぎ、ゆっくりと一口目を味わう。

カーボンの削りカスが散る作業台の一角を丁寧に拭き、懐紙(かいし)を広げた。そこに乗るのは、詩織に頼み込んで買ってきてもらった老舗の「本練り羊羹」だ。


「やっぱり、玉露に合うのは羊羹だな……」


重厚な甘みが、渋みの強い玉露と口の中で完璧なハーモニーを奏でる。これは工藤にとって、週に一度の密かな楽しみだった。


余韻に浸る工藤。

しかし、突然響いた重く激しい開口音が、無慈悲に彼を現実へと引き戻した。


「葵を街の公園に連れて行こうと思います」


そこへ、少し息を切らした様子の柊真が駆け寄ってきた。


「……そりゃまた急な話だな」


工藤はやれやれと眉をひそめ、湯呑みを作業台に置いた。食べかけの羊羹は、隠すように懐紙で包みこんだ。


「目的は、二つあります」


柊真は、呼吸を整えてから、続けた。


「一つ目は、葵が『未知の他者』をどう認識するか。その検証です。

 今まで彼女の周囲には、僕たち数人しかいませんでした。でも外へ出れば、定義されていない無数の人間と出会うことになる。

 そのとき葵の心にどんな感情が芽生え、どう振る舞うのか。それによって、彼女の感情理解アルゴリズムを見直す必要があるかもしれない」


工藤の表情が、技術者のそれに切り替わる。

柊真は畳みかけるように続けた。


「もう一つは、機体そのものの実地検証です。

 研究所の、居住に最適化された空間とは違い、外部には予測不能な変数があふれている。風、段差、不規則に動く車両や動物……。

 そうした変数に対し、今の葵の身体がどこまで安定して適応できるか。それをこの目で確かめたいんです」


工藤が腕を組み、深くうなずいた。


「確かに、もっともな話だ。

 これまでの調整は、あくまでこの箱庭の中での話だからな。砂利道を一つ歩かせるにしても、今の仕様のままじゃあ想定外の負荷がかかる。

 本気で外界と接触させるってんなら、ハードもソフトも、現場の『ナマのデータ』に照らして一から叩き直す必要があるだろうよ」


工藤の承諾が得られたことで、研究所外での稼働試験を兼ねた外出が、正式に計画された。



数日後。

よく晴れた週末の朝、研究所のガレージでは、一台のバンが静かな駆動音を響かせていた。

今回の外出メンバーは、柊真、詩織、工藤、そして葵の四人だ。


「この組み合わせなら、他人からは親子連れと親戚のおやじ程度に見える。

 人目を引かずに済むだろう」


事前の打ち合わせで工藤がそう言った通り、周囲への偽装を含めた準備は整っていた。だが、いざ出発という段階になって、柊真がさらに慎重な判断を加えた。


「工藤さん……やっぱり、予備の補助バッテリーと、大型の工具バッグも積んでおきましょう」


「分かった、分かった。念には念を、だな。

 ……おい、宮下! 予備のバッテリーパックも回せ!」


工藤は工作室へ引き返し、慌ただしく機材の追加を始めた。

ガレージに、工藤の野太い声と機材のぶつかる乾いた音が反響する。


その騒がしさを聞きながら、後部座席に座る詩織の視線は、虚空のどこか一点で静止していた。

忘れかけていた、遠い日の記憶──。

夏の日の休日、キャンプの準備で騒いでいた父と弟の陽向。

あの埃っぽくて、少し浮き立つような空気。


(……似ている)


不意に、目の前の光景が色褪せた過去と重なる。だが、今、自分の隣に座っているのは血の繋がった弟ではなく、精巧な機械の少女だ。そして今の自分は──。


「詩織さん?」


葵は、隣に座る詩織の横顔を覗き込むように見つめた。


:: model_aoi_ver1@gf-core|対人感情プロファイリング

Input:視覚/聴覚センサ →#詩織

Classify:状況認識 = 焦点固定(遠方)、呼吸周期の微細な乱れ/照合エラー = 現実環境と注視点の不一致

Status:推論スレッド = 拡張実行 / 対象観測 = 継続中

Emotion Label: 不安 + 注視 + 動揺

Emotion: [困惑] 0.52 / 心配 0.38


「な、何でもないのよ。葵さん」


詩織は慌てて表情を繕ったが、葵のセンサーはその微細な動揺を逃さなかった。


〈詩織さんの目は、目の前の光景を映しているはずなのに。……心の中では、いま、何を見ているの?〉


葵の問いに答えが出る前に、機材の積み込みを終えた工藤が助手席に乗り込んだ。

車のサスペンションが彼の体重でぎしりと鳴り、四人を乗せた車は静かに研究所を後にした。



二十分ほどで、街外れの小さな公園に到着した。

柊真がエンジンを切ると、車内に訪れた静寂をの中で、手元の端末を手際よく操作した。画面には、アイ・オブ・ゼウスの航跡図が浮かび、八つの光点が冷徹な規則性で動いていた。


「アイ・オブ・ゼウスの軌道に変化なし。

 捕捉中のDELTA基が水平線に沈みました。次のEPSILON基の直上通過まで、空白時間は約三十五分。

 車から降りて問題ありません」


柊真の合図で、工藤と詩織が先に外へ出て、家族を装いながら周囲を鋭く警戒する。


「特に問題はねぇぜ」


工藤が親指を立てるのを合図に、詩織がスライドドアを開けた。

葵は一拍の間を置き、環境光にキャリブレーションされた瞳を瞬かせながら、静かに車外へ降り立った。


「葵、絶対に僕らから離れないように」


三人は葵を囲むように立ち、死角を消しながら広場へと向かう。


公園には、ジャングルジム、雲梯(うんてい)、古タイヤを使った遊具が並び、小学生たちが声を上げて走り回っていた。ベンチでは老人が日光浴を楽しんでいる。


「葵、ここが公園だよ。

 ここはね、決まった目的がなくても、人が集まって時間を過ごすことを楽しむ場所なんだ」


葵は、初めて見る「ラボ以外の人間たち」の不規則な動きに焦点を定められずにいたが、やがて楽しげな声が響く遊具の方へと惹きつけられていった。


:: model_aoi_ver1@gf-core|外部環境観測処理

Input: 視覚/聴覚センサ → 未知の人間群(子供)/距離 12m以内

Classify: 子供グループ = 運動パターン:非線形・高エネルギー/発声:高周波・断続的

Status: 行動と特定構造物(=遊具)との間に強い相関性を検出

Emotion Label: 驚嘆 + [好奇心] + [期待]

Emotion: [羨望] 0.55 / [動揺] 0.42


〈彼らの「喜び」の発生源は、あの構造物にある。私も、同じ体験をすれば……〉


「……あれ、遊んでみたいです」

葵は、雲梯を指さした。


「すまん。無理だ」工藤が即答する。

「お前の構造じゃ、自重にフレームが耐えられねぇ。落ちたら一貫の終わりだ」


葵は小さく俯いた。では、と今度はジャングルジムを指さすが、工藤はさらに申し訳なさそうに首を振った。


:: model_aoi_ver1@gf-core|種差識別・自己定義修正処理

Input: 聴覚センサ → #工藤:連続する否定応答

Classify: 自己の身体能力 = 人間未満/行動定義 = 模倣不能

Status: 行動制限 = 人間の行動トレース不可、フレーム強度不足

Emotion Label: 悲哀 + 倦怠 + 不安

Emotion: [落胆] 0.58 / [閉塞] 0.32


「……どれなら、遊べますか?」


せっかく壁の向こう側へ来たのに、今度は「身体の脆弱さ」という新しい壁が立ち塞がっている。

子供たちが遊具と自在に同調しているのに対し、自分だけがその輪に入れない疎外感。未定義の演算熱が、視覚センサーの端をかすかに潤ませた。


「シーソーなら、できそうじゃない? 小さな子供でも遊んでるし」


葵の様子を見かねた詩織が、助け舟を出す。


「そうだね、葵。一緒にあれに乗ろう」


柊真に手を引かれ、葵はシーソーに向かった。

背後では、万全を期して工藤が支え、柊真と葵のタイミングに合わせて絶妙にバランスを制御する。


葵の口から、小さな笑い声が漏れた。


:: model_aoi_ver1@gf-core|平衡維持・同調処理

Input: 視覚センサ → #柊真 の周期的な上下動 / 圧力センサ → #工藤 による支持

Classify: 動作定義 = #柊真 との位相同期 / 状況認識 = 外部支援による動的安定

Status: 平衡維持 = 外部同期モード実行 / 物理負荷 = 許容範囲内

Emotion Label: 歓喜 + [温もり] + [共鳴]

Emotion: [多幸感] 0.62 / [充足] 0.75


「楽しいです。おじさま」


《TOTAL DOMAIN SAFEGUARD SYSTEMS WARNING !》


[TDS-Link: ONLINE]

Target: Eye of Zeus / EPSILON(5/8)

Countdown: 00:01:59


その時、葵の網膜に投影されたタイマーが鮮烈な赤に染まり、残り百二十秒を告げる。アイ・オブ・ゼウス EPSILON基の走査圏が迫っていた。


「葵、あの東屋へ」


あらかじめ確認していた退避場所へ、柊真が静かに促す。一行は蔓草に覆われた東屋の影に、吸い込まれるように滑り込み、次の安全な時間が訪れるまでの約五分間、息を潜めた。


東屋のベンチに座る葵は、膝の上に置いた自分の白い手を見つめていた。それは、さっきシーソーの鉄の持ち手を握りしめ、柊真の鼓動と重さを分かち合っていたはずの手だ。


:: model_aoi_ver1@gf-core|自己定義再評価処理

Input:視覚センサ → 自己の右手指先(摩耗痕:微細)/ 触覚センサ → 掌の接触圧

Classify: 自己定義 = 非可逆的摩耗を伴う構造体 / 比較演算 = 自己スペック vs 外部記録変数:子供グループ(運動エネルギー)

Status: 内部フレーム強度 = 外部環境負荷との不整合を継続処理中

Emotion Label: 悲哀 + [希求] + 注視

Emotion: [羨望] 0.52 / [空虚] 0.44


「あの子たちは、あんなに激しく動いても、地面に落ちても、笑ってまた走り出せる。

 でも、私は……工藤さんに止められてしまいました」


葵の視界の中で、広場で跳ね回る子供たちの姿が、鮮やかな生命の残像となって揺らめいている。彼女がどんなに望んでも、その無邪気な輪の中へ飛び込むことはできない。

雲梯にぶら下がることも、ジャングルジムを駆け上がることも、工藤が示した「損壊のリスク」という現実が冷たく拒絶する。


「おじさま。

 私のこの身体(からだ)は……とても、壊れやすいのですね」


彼女の呟きは、風にさらわれるほどに小さかった──。


「葵……」


その言葉は、大きな楔となって、柊真の心に深く打ち込まれた。



五分の走査時間が過ぎ、再び地上に「安全」が宣告される。

第二の目的は、歩行試験だった。

段差、階段、砂利道。研究所では再現できない地面が、公園にはいくらでもある。


葵は、車椅子や乳母車のために設けられたスロープへ、慎重にその一歩を踏み出した。


:: model_aoi_ver1@gf-core|不整地適応歩行処理

Input: ジャイロセンサ → 三軸角速度急変 / 足裏圧力センサ → 接地面積不安定

Classify: 環境定義 = 限界傾斜角(+8.2°)超過 / 状況認識 = 滑走リスクおよび転倒予測

Status: 姿勢制御プロトコル = 演算遅延 / 重心補正 = 安定化失敗

Emotion Label: 動揺 + [緊張] + 警戒

Emotion: [危惧] 0.72 / 恐怖 0.35


「この斜面、上手く、歩けません……」


柊真は、後ろへ倒れそうになる葵の背中に手を当てて支える。


「大丈夫かい、葵」


「ちょっと、怖かったです」


葵を支え起こすと、柊真は彼女の足元に目を落とした。


「スロープは、工作室の稼働試験環境にもあるはずだが……」


「柊真さん、このコンクリート製のスロープ、所々傷んでます。

 傾斜の角度や摩擦係数に、予測できないばらつきがあるんでしょうね」


詩織がしゃがみ込み、スロープのひび割れを指先で確認した。


「公園に来て、大正解でした」


柊真は、葵の手を握る力を強めていった。



そのとき、柊真のポケットで端末が短く震えた。宮下からの緊急通知だった。

アイ・オブ・ゼウスの軌道パターンの突発的な変更を告げるアラート。柊真は葵の護衛を詩織と工藤に視線で任せ、少し離れた木陰のベンチへ移動した。

端末の画面に映る衛星の航跡図を厳しい目で見つめていると、不意に隣から声が掛かった。


「あの白銀の少女は、あんたの娘かね?」


声の主は、いつからそこにいたのか、隣に座る老人だった。

まぶたを開いているのかさえ判らないほど、細く深く刻まれた目尻の皺。その視線は、遠くで遊具を眺める葵に向けられている。

柊真は、自分たちの「親子」という偽装が、この老人にどう見えているのかを探るように、静かに問いを返した。


「……親子に見えますか?」


老人は「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」と、枯れ葉が擦れるような音を立てて笑った。


「親子には見えんのう」


「ご老人、あなたには、どのように見えましたか?」


柊真は、心臓の鼓動がわずかに速まるのを感じた。正体を見透かされることへの畏怖か、あるいは自分でも名付けられない感情に、形を与えられることへの恐れか。


「あんたの想い人じゃろ? 大切にしなされよ」


老人は、世間話でもするかのような軽さで続けた。


「じゃが、危ういのう。あの娘じゃない──あんたの方が、じゃよ」


老人のまぶたに埋もれていた眼光が鋭く光った瞬間、柊真は、氷のような冷たい手で心臓を直接掴み上げられたような錯覚に陥った。


自分の捧げている「祈り」が、第三者の目にはどう映っているのか。老人が口にした「危うさ」の正体を、柊真の理性が必死に拒絶し、思考の隅へと追いやっていく。だが、一度注ぎ込まれた毒のような言葉は、彼の内側に冷たい波紋を広げていた。


柊真が言葉を失っている間に、老人は「さて」と膝を叩いて立ち上がり、夕暮れに溶けるようにゆっくりと歩き去っていった。


「おじさま!」


葵の明るい声が、凍りついた柊真の思考を引き戻す。

振り返れば、逆光の中に葵が立っていた。

傾いた陽光が、彼女の銀髪を一筋一筋、透き通るような金色の糸へと染め上げている。弾むような足取りで駆け寄ってくるその姿は、あまりにも完成され、あまりにも穢れがなかった。


老人の残した呪詛のような言葉が、冷たい泥のように胸の奥に(おり)をなしていたが、柊真は無理やり微笑みを作り、それを心の暗がりへと押しやった。


「……ああ。葵、楽しかったかい」


葵は柊真の前で足を止めると、夕陽を反射して琥珀色に輝く瞳で彼を見上げた。

その瞳には、老人が指摘した「危うさ」も、柊真が抱く「後ろめたさ」も、何一つ映ってはいない。

ただ、世界への純粋な好奇心と、自分という存在をまるごと肯定してくれる柊真への深い敬愛が、そこにはあった。その眼差しの奥では、葵自身もまだ知らない情愛の残滓(ざんし)が、静かな熱を帯びて揺れている。


太陽が地平線へ沈み、長く伸びた影が世界を飲み込み始めるまで、葵は笑い、歩き、世界の新しい色を記録し続けた。


汚れることを知らない白い指先が、夕闇に溶けていく。

柊真はその光景を、祈るような、あるいは絶望に耐えるような眼差しで見つめていた。


この一日が、彼女にとって初めての、そして誰にも侵されない「外の記憶」となった。



「ただいま帰りました」


夜、研究所に戻った葵は、これまでにないほど満足げな笑顔で帰宅を告げた。

メインコンソールでログを追っていた宮下が、眼鏡のブリッジを押し上げながら、半ば呆れたような声で迎える。


「心配かけてすみませんでした。でも、葵には必要な経験でした」


柊真がそう言い添えると、宮下は鼻で笑うように小さく息を吐いた。


「……ええ。反対したところで、あなたは行くつもりだったんでしょう。

 それに、結果は想定内です。予測していた数値の、上限ギリギリといったところですが」


宮下は端末を操作し、転送されたばかりの自己認識インデックスの推移グラフを柊真に見せた。


「研究所内では、彼女にとっての『人間』の定義は四人しかいなかった。

 それが今日、不特定の個体を観測し、対象と自分を比較したことで、彼女の中の『自己定義』がようやく標準的な深度に達したようです」


宮下はキーボードを叩く手を止め、葵をちらりと見た。

工藤に足裏の砂を払ってもらいながら、葵は公園で見た光景を反芻するように自分の指を動かしている。


「宮下君も、外界との接触には意義があったと?」


柊真の問いに、宮下は椅子をくるりと回転させ、背もたれに身を預けた。


「これ以上の成長を望むなら、もはや不可避でしょう。

 一度こうして解像度が上がってしまえば、もう研究所の中だけの限られた情報には戻れない」


宮下はモニターに、近隣の公共施設のリストを映し出した。


「例えば、公共図書館はどうですか。

 人との距離が保たれ、行動ルールも明確だ。安全性を担保できる数少ない施設です」


「図書館か……。よし、来週の土曜に行こう」


柊真のその一言に、ラボの空気は、張り詰めていた糸が解けるようにふっと和らいだ。

葵は、また新しい世界に触れる準備を整えるように、静かに、けれど確かな期待を込めてうなずいた。

【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】

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