30話 守護者からのギフト
クリーンルームに、柊真の穏やかな声が響く。
「──葵、今日の気分はどうだい?」
対面に座る葵は、わずかに首をかしげ、視線を泳がせた。彼女の瞳の奥では、プロセッサが無数の演算に火花を散らしている。
カメラが柊真の表情を捉え、その微細な筋収縮から感情を読み取る。
マイクが拾った声の周波数を解析し、語調に含まれるニュアンスを特定する。それらをAoi-Coreへと送り、最適な“感情ラベル”を定義する。
──沈黙が、三秒続いた。
「……お……、……じ……っ……」
声にならない途切れ途切れのノイズ。唇が動き、頬はわずかに緩んではいるが、その動作のすべてに明らかな“処理落ち”があった。
声と表情が、感情という魂の動きに追いついていない。
「……やはり、ここが限界か」
柊真は手元のモニターに流れるエラーログを見つめ、小さく息を吐いた。
「市販されている最高性能のニューロプロセッサでも、葵が感じている情報の密度には耐えられない。
葵が僕たちを理解しようとすればするほど、彼女の心と身体は思考の重さに縛られてしまう」
モニターには、プロセッサの負荷率がレッドゾーンに達していることを示すグラフが表示されていた。
葵の多層的な感情認識プロセスをリアルタイムで完結させようとする試みは、物理的な計算資源という壁に突き当たっていた。
「柊真さん、一つ、提案があります」
宮下は大型ディスプレイに、あるシミュレーションを映し出した。
「複雑な感情処理や高負荷な演算は、ラボのメインフレームに飛ばしてはどうですか?
プロセッサの負荷を、30%抑制できます」
「……」
柊真は、険しい表情でシミュレーションの結果を見つめた。
「いわば、葵の脳の一部を外部化に置くんです」
宮下の提案は、理にかなっていた。AI開発の世界では、端末の負荷をクラウドや外部サーバーに逃がすのが常套手段だ。
だが、柊真は迷うことなく首を振った。
「だめです。それでは、葵は“一人の独立した存在”として成立しない。
外部のサーバーに依存しなければ自分を保てない──それは単なる端末であって、彼女自身ではありません。
僕は、葵の思考──心をスタンドアローンで完結させたい……」
思考の外部サーバー化は、完璧を求める宮下にとっても苦渋の提案だった。
「しかし、現状、これ以上のプロセッサは……」
工藤や詩織からも、いくつかの現実的な妥協案が出されたが、柊真はそのすべてを静かに、だが断固として退けた。
葵を“白”として完成させるためには──外部の汚れやノイズから切り離された、彼女だけの完結した世界が必要だったからだ。
だが、世界のどこを探しても、葵の複雑な感情アルゴリズムをリアルタイムで回せるほどのプロセッサは存在しなかった。
──停滞。
その重苦しい空気は、数日後に届いた一通のメールによって破られた。
差出人:g.ethics@guardianforce.org
件名:【非公式】貴研究に関するオファー
柊真は、モニターに映し出されたその文字を二度見した。
「……『ガーディアン・フォース』……?」
世界的なAI規制組織──彼らが開発、運営しているAI倫理規定の基盤システム『Gシリーズ』がなければ、高度にAI化された社会は成り立たない。
メールには、一部が黒く塗りつぶされた資料と、面会の提案が添えられていた。そこには驚くべき一文が記されていた。
『貴殿の保有する感情理解アルゴリズムの特許は、我々の研究において極めて有効な成果を上げている。直接の面会を希望する』
「僕の特許が……彼らのシステムに組み込まれていたのか」
柊真は初めて知った。
かつて自分が開発し、生活のために匿名でライセンス契約を結んでいた技術。その最大の利用者が、ガーディアン・フォースだったのだ。
あまりにもタイミングの良すぎる接触。ラボの誰もが情報の漏洩を疑い、顔を曇らせた。
「相手は、あのガーディアン・フォースです。
彼らなら、世界中の特許情報や技術動向を監視しているはず。
偶然じゃない」
柊真の声は、意外なほど冷静だった。
恐怖よりも、解決の糸口が見えたことへの予感が勝っていた。
「……直接、会って手渡ししたいそうです」
──数日後。
柊真と宮下の二人は、周囲を警戒しながら車を走らせた。
高速と下道を使って約二時間。
指定された場所近くのコインパーキングに車を停める。秋葉原、雑居ビルの裏手にある喫茶店。
変装を施し、店内で待つこと数分。
カラン、と入口のドアが開いた。
現れたのは、黒いスーツに身を包んだ、無機質な目を持つ男だった。
彼は迷うことなく柊真たちのテーブルへ歩み寄ると、小さな黒のアタッシュケースを置いた。
「我々が開発中の次世代ニューロプロセッサです。
商用未発表。開発コードは『GE-X91』。
処理速度は市販品の4倍、消費電力は半分。
……あなたのプロジェクトには、これが必要なはずだ」
男の声には感情がなかった。
宮下が震える手でスペックシートを覗き込み、短く息を呑んだ。
「……嘘だろ。このサイズで、この演算密度……。
アーキテクチャそのものが次世代だ……」
「ただし、条件がある」と男は続けた。
「我々にも、研究成果の一部を提供してほしい。
特に、実機における感情の“揺らぎ”に関するデータを」
柊真は、アタッシュケースを見つめ、複雑な想いに囚われていた。
ガーディアン・フォースは、倫理を守る盾であると同時に、過剰な規制が葵の成長を縛る鎖にもなり得る。
だが、葵の“白”を守るためには、強固な制御と圧倒的な処理能力が必要だ。
感情が暴走せず、理性を保ち続けるための、鋼のような芯。
(葵のためだ……)
そう自らに言い聞かせ、柊真は深く頷いた。
「分かりました。条件を受け入れます」
「賢明な判断だ。健闘を祈る」
それだけを告げると、男は静かに店を去っていった。
宮下はバッグから取り出した機材を使い、ケースを徹底的に調べ上げた。
「発信機、盗聴器、物理的な細工……
すべてクリアです。何も仕込まれていません」
研究所への帰路。
宮下が運転するオフロード車のフロントガラス越しに、頂を白く染めた連峰が姿を現した。
新たなプロセッサを入手した今、葵という存在は、柊真の手の届くところまできている。しかし、柊真の表情は晴れなかった。
「宮下君、僕たちの選択は、正しいのだろうか?」
前方を見据えたまま、宮下は冷静に答えた。
「数年待ったとしても、正規ルートで手に入るプロセッサなんて、たかが知れています。
……感情理解アルゴリズムの省力化、できませんよね?」
それは、葵の心の一部を凍結させること──葵の魂を削ることに等しい。
柊真には到底、受け入れられるものではなかった。
ラボに戻るなり、宮下は『GE-X91』を解析システムに接続した。
モニターには膨大なログが滝のように流れ落ちる。
「どうですか、宮下君」
「……驚きました。
これ、中核となる倫理判定のロジックが……柊真さんの特許そのものです。
感情に対する判別アルゴリズムが、ハードウェアレベルで最適化されて組み込まれている。
まるで、最初からAoi-Coreを動かすために設計されたみたいだ」
宮下はキーボードを叩き、さらに深い階層まで潜っていく。
「……出ました。
システム最深部、暗号化された認証ヘッダです」
モニターに、無機質な解析ログが展開される。
─────
=== GE-X91_kernel_auth.log ===
timestamp: 203X-10-12T16:42:11.002Z exec_time: 0.0008 sec
core_latent[4096]: 5.12e-02, 3.88e-01, 1.02e-05, ...
input_type: neuro_synapse_link GF_SIG: VERIFIED (RSA-4096)
status: optimized_running
ethics_layer: GF_standard_policy_v12
EVAL_NODE: emotion_buffer = STABLE
EVAL_WEIGHT: 0.000000 → 1.000000
HEURISTICS: toh_ma_alg_integrated
trace_id: GF-PROTOTYPE-X91
AUTH: Guardian Force / Central Ethics Committee
─────
「バックドアや不審なコードも見当たりません。
……完璧です。
柊真さん、これならいけます!」
その言葉に、ラボの空気が一気に華やいだ。
「これで、先に進めますね!」
ずっと隣で見守っていた詩織が、淹れたてのコーヒーが入ったマグカップを二人に差し出す。
「……詩織さん。僕、猫舌なんです」
宮下は苦笑いしながらも、コーヒーを受け取った。
それをデスクとは別のテーブルに置き、解析の最終チェックに戻る。
窓の外では、冬の訪れを予感させる、冷たい秋風が吹いていた。
手に入れたのは、禁断の果実か、あるいは守護者からの贈り物か。
だが、柊真の瞳には、ようやく遅延なく微笑むことができるであろう、葵の未来だけが映っていた。
【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】




