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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第3章 葵の身体
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29話 白の芽生え

心と身体──それらが一つに統合され、アンドロイドとしての器が完成してから、初めての駆動テストが繰り返されていた。

14フェーズ・プロトコルの第1段階。

それは、葵の神経系へと流れ込む膨大な感覚情報と、Aoi-Coreによる感情制御が、齟齬(そご)なく連動しているかを確認する重要なプロセスだった。


「定例報告を開始します」


ラボに詩織の冷静な声が響いた。

それぞれの持ち場で作業していた三人が、ミーティング用の長机に集まる。


「フェーズ1における追加学習項目──『愛着の形成』は、当初のシミュレーション通り完了しました。

 現在、葵の感情ラベリングにおける“信頼”と“安全”の優先度は、柊真さんをプライマリ・アンカー(主要な愛着対象)として固定されています。

 私たちラボのメンバーも、付随する形で同様の存在として定義されています」


詩織がモニターに映し出したデータには、特定の養育者との間に築かれる情緒的な絆──アタッチメントの形成が、波形となって示されていた。


「葵のペルソナには、私たちが創造主であることを定義済みです。

 この定義により、彼女は私たちを絶対的な信頼の対象として認識するようになりました。フェーズ2以降の対話による学習を成立させるための土台が整ったと言えます。

 柊真さん、予定通りフェーズ2への移行を提案します」


詩織の報告を聞き、柊真は安堵の息を漏らした。


「葵が、僕たちを……

 わかりました。フェーズ2へ進みましょう」


「身体の方はどうです、工藤さん」


柊真の問いに、工藤が油の染みたウエスで手を拭きながら顔を上げた。


「ハードウェアは至って健康だ。

 葵の意思──というか、Coreから飛んでくる駆動パルスに、アクチュエータの追従が遅れることもねぇ。

 関節のトルク制御も、指先の繊細な挙動も、あいつの思考ログを余さず形にできている。

 準備は万端だぜ」


「こちらのセンサー側も、感度は最大まで引き上げてあります」


今度は宮下が、モニターから目を離さずに会話に加わった。


「ただ、感度が高すぎて、モーターの駆動ノイズや気圧の変化まで拾ってしまっている。

 システム的には除去すべきゴミデータですが、どういうわけか、Aoi-Coreはこの“ノイズ”を何らかの感覚情報として解釈し、無理やり感情ラベルを紐付けようとしている傾向があります。

 その影響でチップの処理は、すでに限界が見え始めている」


「フィルタリングはできないのか?」


工藤が単純な解決策を提案した。


「……できます。

 ですが、そうするとAoi-Coreが感じ取っている“何か”も消えてしまう。

 効率化の対策は講じますが、これ以上の負荷増大は、ハードウェアの死を招きかねない」


「些細なフィードバック情報であっても、葵が意味を見出そうとしている限りは、それは彼女の“心”の一部です。

 今はまだ、何も捨てないでやってほしい」


「……やるだけ、やってみます」


柊真の懇願するような声に、宮下は短く答えるのが精一杯だった。



ラボの中央──クリーンルームの静寂の中、葵は椅子に座り静かに目を閉じていた。

その姿は、未だ言葉を持たぬ彫像のように美しい。


柊真がマイク越しに声をかける。


「葵。聞こえるかい?」


その瞬間、葵の瞼がわずかに震えた。

ゆっくりと開かれた瞳の絞りが、柊真の姿を捉えた瞬間に微かに拡大する。口角のマイクロモーターが駆動し、人間の“喜び”の表情筋パターンと酷似した柔らかな曲線を描いた。


ペルソナに“愛着”を直接書き込んだわけではない。だが、彼女の反応は明らかに他のメンバーに対するものとは異なっていた。

頭部のセンサーはまだ本格的な稼働前で、視覚の感度も最小限に抑えられていた。焦点の合わないはずの視線が、確かに柊真を追いかけている。

それは単なる音声認識の結果ではない。まるで、柊真の声に含まれる温度さえも、彼女の“揺らぎ”が受け止めているかのようだった。


「柊真さん。

 葵は、あなたの声のトーンを認識した瞬間に、感謝や愛情に近い強烈な情動反応を示しています」


詩織が背後で囁く。


「これは高度な模倣かもしれませんが……

 彼女の内部で、私たちの想定を超えた“何か”が芽生え始めている。

 そう考えずにはいられません」


柊真は深く、長い息を吐いた。

自らの祈りが、葵の中で形になりつつある。その安堵とともに、未知の領域へ足を踏み入れた不安が、彼の瞳に影を落とした。


「柊真さん。あらためて聞かせてください。

 あなたは、葵に何を求めているのですか?

 人間のような心ですか?」


詩織の問いに、柊真は静かに首を振った。


「……いえ。

 人間になってほしいわけじゃない。

 ただ、彼女が感じていることを、僕も感じたい。それだけなんです」


その答えに、詩織は何も言わなかった。

ただ、その瞳の奥に一瞬だけ、複雑な色がよぎったのを、柊真は知らなかった。



──その夜、研究所は深い静寂に包まれていた。

資料室へ向かう廊下を歩いていた宮下は、二階にあるラボの扉が、わずかに開いていることに気づいた。

宮下は息を殺し、扉の陰から中を覗き込んだ。


そこには、一人で端末に向かう詩織の姿があった。

宮下が入室したことにも気づかないその背中からは、いつもの余裕ある彼女とは異なる、切迫した、あるいは何かに憑りつかれたような異様な気配が漂っていた。


彼女越しにわずかに見えた画面には、ラボの標準プロセスとは異なる、見慣れぬコードが高速で走っている。診断のようでもあり、外部へのデータ転送のようにも見えた。


「……何をしているんですか?」


不意の問いかけに、詩織は肩を跳ねさせた。

瞬時に画面を落とし、端末を閉じる。振り返った彼女の瞳には、隠しきれない動揺が走っていた。


「いえ、特に……フェーズ1のログを、個人的に整理していただけです。

 気にしないでください」


視線を逸らすその態度は、いつもの冷静な彼女からは想像できないほど、余裕を失っていた。


「……そうですか」


宮下の胸に、小さな棘のような違和感が刺さる。

一瞬だけ網膜へ焼き付いたコードの残像は、この清浄なラボには決して存在してはならない“毒”を含んでいるように思えた。


詩織は、逃げるように足早にラボを去っていった。

一人残された宮下は、暗いラボの中央へと視線を向ける。

クリーンルームの中、外部電源に繋がれたまま淡い光を浴び、静かに佇む葵。


普段、宮下が葵に対して向けるのは、センサーの数値やログを確認するための無機質な視線だけだ。そこに情緒を見出すことなど、これまでは一度もなかった。

だが、今この瞬間の葵は──その不変であるはずの表情が、どこか自分たちの先行きを予感して、不安に震えているように見えた。

【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】

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