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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第3章 葵の身体
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24話 制御の天才

試作機の滑らかな、しかしどこか心許ない動きを、詩織はじっと見つめていた。

ふと視線をモニターの数値へと戻す。そこには、工藤が組み上げた機構から送られてくる膨大な姿勢制御データが、滝のように流れていた。


その膨大なデータ量を見ていた詩織の胸に、素直な疑問が浮かんだ。


「柊真さん。

 身体側のセンサー情報は、すべて、Aoi-Coreへ送信されるんですか?」


柊真は、コンソールから伸びる無数のケーブル類を避けながら、静かに首を振った。


「いいえ。

 情報のすべてを、そのまま受け渡すわけではありません。

 Aoi-Coreは、あくまでAIです。

 センサー類からの情報は、AIが処理可能な形式へと変換する必要があります」


「人間でさえ、視界に入るものすべてを意識しているわけじゃない。

 情報が思考の処理速度を追い越せば、システムはフリーズしてしまう。

 僕たちがすべきなのは、葵にとっての適切な情報の密度──解像度としきい値の設定です」


詩織は頷き、今度は作業台の傍らで工具を握る工藤へと向き直った。


「工藤さん。

 センサー情報から、『感情ラベル』を定義する上で、特に重要な部位があります。

 頭部や肩、上腕、それから背中……

 これらに触れられた際の反応を定義したいんです。

 その部位に、触覚センサーは配置されていますか?」


工藤は作業の手を止め、眉間に皺を寄せた。


「……頭、肩、上腕だと?

 いや、そいつはねぇな。

 歩行や姿勢維持といった『動作』には直接関係ねぇ部位だ。

 今のところ、そこはただの外装(ガワ)でしかねぇ」


「追加をお願いできますか?」


詩織の声は穏やかだが、譲れない一線を含んでいた。


「葵が葵として、誰かの手の温もりを感じ、それを心に刻むためには、『どこに触れられたか』が、すごく大事なんです。

 人は、頭を撫でられるのと、背中を押されるのとでは、同じ『接触』でも、全然違う気持ちになりますから」


工藤はすぐには答えず、隣に立つ柊真の顔を伺った。


「おい、柊真。本気か?

 センサーを増やせば増やすほど、配線も重量も嵩むぞ」


柊真は無言で、しかし確信に満ちた眼差しで頷いた。

その静かな肯定は、詩織の要望に対する何よりの回答だった。


「……ハッ、やれやれ。

 お前さんたちがそう言うなら、やるしかねぇわな」


工藤は呆れたように、しかしどこか満足げに笑って、乱暴に頭をかいた。


「助かります、工藤さん」


柊真は小さく笑みを返し、再び視線を葵の頭部へと移した。


「それから……

 顔のセンサーについても相談させてください。

 視覚、聴覚、嗅覚はもちろんですが、唇や耳、頬の触覚を極限まで高めたい」


「!? まだあるのかよ」


「人間は、顔の触覚が驚くほど発達しています。

 指先でさえ感じないような微かな風、触れるか触れないかの指先の気配。


 葵には、それを感じ取ってほしい。

 顔には、感度の高い触覚センサーをネット状に配置してください」


「……言うのは簡単だがなぁ」


工藤は、剥き出しの配線がのぞく試作機を睨みつけ、指先で天を仰いだ。


「いいか、お前ら。注文が多すぎるぜ。

 これだけのセンサー情報だぞ。

 一体どこに、これをリアルタイムで捌けるチップがある?

 回路設計はどうするんだ?」


「既存のチップ一つで全感覚を処理するなんてのは、実質不可能だ。

 中継回路を組んで、各部位である程度の情報を整理・圧縮しなきゃならねぇが……

 悪いが、俺にそんな超高密度の回路設計はできねぇぞ」


工作室に、重い沈黙が流れた。


工藤の言う通りだった。

身体(ハード)(ソフト)がどれほど優れていても、その間を繋ぐ「制御系」がなければ、葵は動くことも、感じることもできない──ただの人形に留まってしまう。


「葵を生み出すためには……」


柊真が、絞り出すように言葉を紡いだ。


「Aoi-Core──彼女の心と、この身体をつなぐための、回路設計と制御が必要です」


詩織が、息を呑む。


「それって……」


柊真は、静かに続けた。


「AIと、アンドロイド──両方に精通し、センサー配線、基板設計、処理プログラムを、一つの思想としてまとめられる天才的な人物……」


詩織は、思わず聞き返した。


「……そんな人、いるんですか?」


工藤は、低く唸る。


「昔の会社にも、天才って呼ばれる連中はいたが……

 こんな全身センサーだらけの狂った機体を扱った経験がある奴なんて、この世にいるのかよ。

 俺は、知らねぇな」



工藤の問いに、柊真は無言でコンソールのキーを叩き、一つのブラウザを立ち上げた。

ブラウザの脇には、幾重にも重なるグラフやログが絶え間なく流れる制御パネルが常駐している。


工藤はその複雑なパネルに目を細めた。


「おい、その脇でチカチカ動いてるのは何だ?

 演算ユニットの状況か?」


「いえ、この研究所の防壁(ファイアウォール)の稼働状況です。

 研究所の通信には、秘匿性の高い衛星回線を用いています。

 VPSの多段経由やパケットの偽装、そして強固な防壁を組み合わせることで、研究所の存在そのものを、外界から隠匿しています」


柊真は淡々と答える。


この山奥の研究所が、巨大企業の追跡や産業スパイの目から逃れ続けていられるのは、柊真が構築した情報工作システムがあるからだ。


工藤は「やれやれ、物騒な戸締まりだぜ」と苦笑したが、その瞳には柊真という男の徹底した用意周到さへの信頼が混じっていた。


柊真はそのまま画面の中央にある、匿名性の高い技術系電子掲示板のログを指し示した。


「回路設計と制御の天才──条件を満たすのは、彼しかいません。

 この書き込みを見てください」


掲示板の画面には、既存の学説を真っ向から否定する過激で断定的な主張が躍っていた。


『人工自我は、ソフトウェアだけでは到達できない。

 身体というハードウェアからのフィードバックなくして、その概念は実体を伴わない』


ハンドルネーム『Circuit(サーキット) Prophet(プロフェット)』は、並みいる研究者たちを相手に、たった一人で論戦を繰り広げていた。

数百行のコード断片や、現行研究の盲点を突く図解を即座に貼り付け、相手を黙らせる。


たった一人で既存のAI論理を論破していたその人物の言葉に、柊真は直感的に、「同類」──自分と同じ場所を見ている人間だと感じていた。


その一文を読み、詩織が小さく息を呑んだ。


「ハードウェアからのフィードバック……

 これって……」


詩織は、自分たちが今まさに直面している課題、そして柊真がこれまで語ってきた理想をそこに重ねていた。

柊真は画面を見つめたまま、静かに頷く。


「そうです。

 14フェーズ・プロトコルと、基本思想は同じと言っていいでしょう。

 彼は独力で、僕たちが辿り着いたのと同じ領域にまで手を伸ばしている。

 しかも……この男、ただの知識人じゃありません」


柊真が、確信を持って言葉を継ぐ。


「理論の組み立て方に、現場を知る者特有の泥臭さがある。

 恐らく、自力で高度な検証環境を構築し、既存のシミュレーションの限界を独力で突破したのでしょう。

 そうでなければ、これほどまでに解像度の高い指摘はできないはずだ」



──その日の夜。

静まり返った自室で、独りモニターに向き合った柊真は、掲示板を介してCircuit Prophetとの接触を試みた。

専門的な問いかけや、あえて定説を擁護するような軽い挑発も投げたが、相手は一切の反応を示さない。

彼は神出鬼没で、驚くほど冷静だった。


「やむを得ない……」


柊真は、普段は防御に徹しているその研ぎ澄まされた技術を、Circuit Prophetの秘密を暴くための矛へと変えた。

彼が絶対の自信を持って隠蔽していた発信元のログを、その素性を、まるで薄い紙を剥ぐように解体していく……


Circuit Prophet──『宮下 蓮』。

その名は、国内トップクラスの大学の博士課程に登録されていた。

だが彼は、博士号取得を目前にして大学を去っている。


柊真は、彼が残したコードの「癖」を鍵として、ネットワークの深淵へとさらに潜った。

宮下が過去に、自身の技術を試すために残したであろう痕跡を追う。


辿り着いた先の一つは、某重工メーカーの極秘サーバーだった。

宮下は匿名で基幹システムに侵入し、開発が頓挫していた多脚歩行ロボットの致命的な制御バグを、勝手に、そして完璧に修正していた。


現場のエンジニアたちが数年かけても解けなかった難題を、彼はたった数晩の「暇つぶし」で解決し、高精度アクチュエータの予測制御アルゴリズムを根本から書き換えていたのだ。


既存の制御理論を嘲笑うかのような、あまりに洗練された最適化。

それは、名だたる企業や研究機関が理想とするモデルを遥かに凌駕し、実用化の域にまで引き上げていた。


柊真は、数日間にわたる追跡の末、柊真は確信した。


「Circuit Prophet──

 宮下の協力は、葵のために必要だ……」


柊真は、宮下が愛用する匿名アドレスへ一通のメールを作成した。

彼が過去に修正した重工メーカーの極秘コードの一部を添付し、本文には一言だけ添える。


『退屈な日々は、もう終わりだ』


送信ボタンを押し、柊真は深く椅子に背を預ける。


沈黙は、長くは続かなかった。

短い通知音とともに、モニターに一通のウィンドウがポップアップする。


『面白い。次の日曜日、1400、Lupin』



当日、柊真は秋葉原の駅を降りた。


最新のガジェットや広告が躍る表通りの喧騒から離れ、路地を折れる。

軒先にジャンク基板や古いPCが山積みにされたパーツショップの露店を通り抜け、さらに細い脇道へと足を踏み入れる。


秋葉原の路地裏、電子部品の焼けるような匂いがかすかに漂う場所に、その店はあった。

「Lupin」の看板が掲げられた古い喫茶店。


その薄暗い店内の隅で、一人の青年が待ち構えていた。


店内には十数人の客がいたが、柊真は迷うことなくその席へと向かった。


フレームの細い黒縁メガネの奥で、カミソリのように鋭い眼光が一瞬こちらを見た。

痩身で神経質そうな佇まいだが、周囲の雑音を完全に遮断し、自分の領域を支配しているかのような、不遜なまでの堂々とした風格。


柊真が対面に腰を下ろすと、青年は視線すら上げなかった。


「宮下君だね」


そう短く声をかけると、ようやく青年──宮下が顔を上げた。

値踏みするような冷徹な視線が柊真を貫く。


柊真は余計な挨拶を省き、カバンからタブレットを取り出した。

工藤が組み上げた試作機の駆動映像と、Aoi-Coreのアルゴリズムを、無言のまま画面に提示する。


流れる試作機の映像──宮下の眉がかすかに動いた。


彼はテーブルに置かれた端末の画面を指でなぞり、画面を流れるコードを読み解いていく。

アルゴリズムの「深淵」に触れた時、淀みなく動いていた彼の指先が、ぴたりと止まった。


(……これは、単なるプログラムじゃない)


彼が今まで「退屈」だと切り捨ててきた世界の理が、書き換えられた瞬間だった。

どこか冷めていた宮下の心は、急速に熱を帯び始める。


「……正気じゃないですね。

 このアルゴリズムを書いた人間」


顔を上げた宮下の口角は、わずかに吊り上がっていた。


「最高に面白い。

 僕が欲しかったのは、こういう狂った挑戦ですよ」


その瞳が、初めて面白いオモチャを見つけた子供のように、鋭く輝いた。


こうして、制御と論理の塔のような若き天才が、柊真の築く白き要塞の、最後の欠片(ピース)となった。

【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】

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