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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第3章 葵の身体
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23話 試作の春光

研究所を囲む残雪が、少しずつ土の色に溶け出している。

吹き抜ける風に白く濁る吐息。だが、その冷たさの中には、冬とは違う湿り気があった。

枯れ草を押し退けて顔を出した芽が、春の光を吸い込んでいる──それは静かな、しかし確かな季節の移ろいだった。


外の移ろいを拒むかのように、一階の工作室だけは、一定の温度と張りつめた空気を保っている。


精密加工機がカーボン素材を削り出す、乾いた音。

樹脂部材を組み上げる際の、わずかに甘い匂い。

チタンフレームが触れ合うときに生まれる澄んだ金属音が、工作室に響いていた。


工藤に図面を引く時間は、ほとんどなかった。正確には、引く必要がなかったのだ。

彼の頭の中には、すでに膨大な「前例」があった。


福祉アンドロイド、補助義肢、人間の身体に寄り添い、その動きを代替するための機構──それらの失敗と成功のすべてが、血の通った経験として蓄積されている。


理論を一から組み上げるのではなく、動いた、支えた、壊れたという現実の積み重ねを基盤に、まずは「形にする」。

それが、工藤という男のやり方だった。


工藤は作業台の前に立ち、試作機の動きをじっと見つめていた。


「……ちいせぇな、やっぱり」


思わず、独り言が漏れる。


──全高145センチ。

少女の身体に収めるという試みは、単純な縮小では決して済まなかった。


大人の身体を基準にしてきた機構は、このサイズに落とし込んだ途端、あちこちで破綻をきたす。

少し剛性を上げれば動きは途端に硬くなり、軽さを優先すれば耐久性が落ちる。

重量バランスを詰めれば、今度は関節が悲鳴を上げる。その綱渡りを工藤は何度も、何度もやり直してきた。


工藤は一度、前線から退いた人間だった。

最先端の制御技術との軋轢、変わりゆく現場、そしてそれについていけなくなった自分。


だが、柊真から声をかけられたとき、工藤は直感した──ここなら、もう一度、自分の技術を活かせると。


工作室の隅には、使われなくなった部品が山のように積まれている。

形になりかけた脚部、不自然な重心で倒れた試作、動かした瞬間に負荷に耐えきれず止まったフレーム。

それらすべてが、ここに至るための「必要な失敗」だった。



工作室の中央。

アンドロイドの試作機は、外装も皮膚もないまま、むき出しのフレーム姿で立っている。

工藤が操作端末の画面を叩くと、応えるように試作機が動き出した。


一歩を踏み出す瞬間の、ごく小さな呼吸。

体重を移し、着地する直前に膝が柔らかく衝撃を吸い込む。

一度止まり、また歩く。

重心が移動し、それに誘われるように上半身がついていく。


均一ではない。むしろ不揃いだ。だが、それがいい。

少女が歩くときの、あの心許ないリズム。

無意識に行われる、繊細な重心の微調整。


工藤はそれを「再現しよう」とはしていなかった。ただ、削り落とさなかったのだ。

完全に揃えれば、動きはただの機械になる。

わずかな「揺らぎ」を許容することで、身体に「癖」を宿らせた。


「……よし」


工藤は、短く深く息を吐き出した。


そのとき、壁の一部のような遮音パネルがスライドし、工作室の静寂が外の空気と混ざり合った。

柊真と詩織が、並んで中へ入ってくる。


二人は、試作機の動きを目にした瞬間、言葉を失って立ち止まった。


「……歩いてる」


詩織が、思わず声を漏らす。


試作機は、二人の方へ向き変え、歩を進めて止まった。

軽く腕を上げると、その指先は、空を探るように動いた。


一見、目的のないぎこちない動き。

だが、その先には、確かに「触れよう」とする意図があった。


「……人の動きだ」


柊真が、ぽつりと呟く。


研究者としてなら、数値を見て、誤差を測り、客観的な評価を下すべき場面だった。

だが、柊真はそれをしなかった──できなかった。


無意識に、吸い寄せられるように一歩、試作機に近づいていた。

呼吸が浅くなっていることにも、自分では気づいていない。


工藤は、柊真のその横顔を見て、ようやく腑に落ちた。


(──ああ、そういうことか)


柊真は、目の前のフレームを見ているのではない。

その向こうにある「葵のかたち」を重ねている。


なぜ、あのドールにこだわるのか。

なぜ、同じ姿でなければならないのか。

その答えは言葉ではなく、柊真の視線そのものの中にあった。


彼はすでに、ここにないはずの姿を見てしまっているのだ。


「……動作だけなら、ここまでは来た」


工藤は、あえて淡々と言った。


「歩く。立つ。触れる。

 そこまでは、試作段階としては及第だ」


詩織は安堵したように小さく息をつき、静かに頷いた。


柊真は、ようやく我に返った。


視線を上げると、奥の作業台に据えられた、もう一つのユニットに目が止まる。

テスト用の上半身に接続された、葵の頭部だ。


「工藤さん、あちらの頭部ユニットは……」


「おう、基本的なセンサー類は組み込み済みだ。

 左右の眼球には高解像度カメラ、耳の奥には集音マイクを仕込んである。

 外の光や音を、こいつ自身の感覚として拾えるはずだ」


三人は、葵のユニットが据えられた作業台へと歩み寄る。


葵のドールを元に、新たに作り上げられたアンドロイドの頭部。

近づくほどに増していくそのリアルさと精密さに、柊真は再び声を失った。


「すごい……生きているみたい」


詩織の言葉に、嘘はなかった。


目を閉じた葵の頭部は、ただ静かに眠っている少女そのものに見えた。


ドール特有の、あまりにも整いすぎた造形は、工藤の手によって、わずかな左右差や皮膚の揺らぎを与えられている。

近づくほどに、人の顔が持つ不確かさと温度が、そこに宿っていた。


柊真は、無意識のうちに葵の頭部へ歩み寄り、その前で、祈るように膝を折った。


「葵……」


呼びかけは、ほとんど息のようにこぼれた。


その横顔には、何かを信じたいと願う者の静かな緊張が浮かんでいる。

夢の中でしか触れられなかった存在が、今、確かな質量をもって、目の前にある──

その事実を、まだ受け止めきれずにいるようだった。



時が止まったような──数分間。

工藤と詩織は、ただ静かに柊真の背中を見守っていた。


「工藤さん、ありがとうございます。

 あなたが作ってくれた葵は、僕が知っている彼女そのものです。

 ……感謝の言葉しか、見つからない」


工藤は、照れくさそうに、だが真っ直ぐな瞳で柊真の肩に手を置いた。


「柊真……感謝するのは、むしろ俺の方だ。

 俺はな、俺が持てるすべてをこの葵の身体に注ぎ込んだ。

 自分の中で、廃れた……終わったと思い込んでいた古臭ぇ技術が、お前の理想と重なったから、ここまで辿り着けた」


「俺にもう一度、エンジニアとしての夢を見させてくれたのはお前だ。

 感謝するぜ、柊真……」


葵に救われた柊真。

葵に夢を託した工藤。


二人のエンジニアは、深い眠りの中にいるような少女の前で、互いの手を強く握り合った。


春の気配が、工作室の小さな窓越しにかすかに差し込んでいた。

葵の身体──その完成には、まだ程遠い。


だが、柊真が孤独に追い求めてきた「葵」というかたちは、今、この場所で、詩織と工藤の視線の中にも、ぼんやりとした輪郭を持ち始めていた。

挿絵(By みてみん)

◇葵の頭部ユニット


【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】

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