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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第2章 葵の心
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14話 心の鍵

十分ほどして、車は静かな県道へと入っていく。

細い道路を進むにつれ、日が沈む気配が次第に濃くなっていった。

木々の間から漏れる橙色の帯が、二人が乗るアースブルーのバンを、不規則なリズムで照らしている。


山道への分かれ道の交差点──柊真は信号待ちの間、詩織の様子を横目でうかがった。

顔色は悪くないようだった。


「気分は、良くなりましたか?」


乗車時の彼女の異変を案じる問いかけ。


「ええ……。さっきは、お見苦しいところを見せしてしまいました」


詩織は小さく瞬きをし、自分を見ている彼の視線に、わずかに頬を赤らめる。


前の車が動き出し、柊真は慌てて前方へ視線を戻すと、ハンドルを左へ切った。


「いえ。こんな遠くまで呼び立てて、すみませんでした。

 ……その、無理はしないでください」


「ふふ。ありがとうございます、柊真さん」


詩織は俯き、小さく笑った。

その笑みは控えめで、どこか懐かしい柔らかさを帯びている。


「詩織さんは、大学を卒業した後はどうされていたんですか?」


彼女の卓越した才能なら、都内の先端研究所か名だたる企業で、華々しいキャリアを歩んでいるはずだ──柊真は、そう確信していた。


「帰郷して、地元のソフトウェア会社に就職しました」


その声は、かつて情熱を共有した日々の記憶を、自ら断ち切るかのように平坦だった。

あまりに不釣り合いな回答に、柊真は言葉を重ねた。


「詩織さんの地元は、確か……なぜ、地方に?

 あなたの能力なら、もっとふさわしい場所があったはずです」


純粋な疑問。

詩織は一瞬、喉の奥が締め付けられるのを感じた。


「体が弱かった母のそばにいたくて……

 家族との時間を大切にしたかったんです。ただ、それだけです」


淀みなく出た言葉。

それは、柊真との別れのあと──自分自身にさえ言い聞かせてきた、偽りを含んだ台詞だった。


詩織が窓の外へ目を逸らすと、彼はそれ以上、踏み込まなかった。


しばらく走ると、ヘッドライトに照らされた暗い森の先に、大きく黒い口を開けたトンネルが現れる。

不意に詩織は、心の闇が具現化したかのような不安に囚われた。

反射的に視線を逸らし、ハンドルを握る柊真の手へと目を向ける。


「ここから先は未舗装なので、少し揺れます。

 気をつけてください」


ガタガタ──と車体に伝わる振動が大きくなる。

詩織は「はい」とだけ、小さく返した。


山を越えるカーブの途中、柊真がゆっくりと切り出す。


「……詩織さん。

 今、AIで『心』を再現する研究をしています」


「心、ですか?」


詩織は、それが容易ではないことを理解していた。


「はい。特に……『女性の心』です。

 理論上は可能なはずなのに、どうしても、心の『温度』が生み出せないんです」


詩織は、静かに耳を傾ける。

その表情は変わらないが、胸の奥で何かが、かすかに揺れた。


「以前の研究で扱っていた、福祉用途の対話モデルと感情データ、

 あれを応用してみたのですが、どうしても足りない。

 仕組みは理解できても、意味に届かないというか……」


そう言いながら、柊真の声には、疲労とも諦めともつかない色が滲んでいた。


「だから、詩織さんに、力を借りたいんです」


詩織の手が、膝の上で静かに握られる。


(女性の心──

 私にできるのだろうか……)


「分かりました」


詩織は軽く息を吸い、まっすぐな声で言った。


「できる限り、協力させてください」


あらためてその言葉を聞いた柊真は、肩から力が少し抜けるのを感じた。


「ありがとうございます。詩織さん」


笑顔とともに、心からの感謝の言葉が車内に静かに響く。


峠道の最後を曲がりきると、白い建物が夕焼けの中に、静かに浮かび上がった。



研究所──その外壁は、濃い茜色に染まりながらも、輪郭だけは冷たく無機質な白を保ち続けていた。

山の端に日が落ちる直前、世界が息を止めたかのような静寂がそこにあった。


詩織はその威容に圧倒され、言葉を失う。


(想像より、ずっと、頑なで……重い)


森の奥に立つその建物は、どこか要塞のような堅牢さをまとい、同時に「閉ざされている」という強い印象を与えていた。


(柊真さんの心、そのものみたいだ)


そう思ったが、口にはしなかった。

ただ、夕日に染まる白い壁を静かに見つめていた。


「お疲れさまでした。ここが、僕の研究所です」


二人は一旦車を降り、研究所の入口に立つ。

ぐるりと囲まれた高いコンクリート製の壁と、数々の監視カメラからの視線──詩織は緊張した面持ちで、研究所を見上げた。


「すごいですね……」


言葉以上に、胸の奥で複雑な感情が混ざり合っていた。

尊敬、畏れ、自責、期待──そのどれが強いのか、詩織自身にも判別がつかなかった。


柊真は車を、研究所の分厚いシャッターの奥へと進める。

鈍い駆動音が響き、外界の音が遠ざかっていく。


歩いてシャッターをくぐった詩織は、閉じる直前、一瞬だけ外の夕焼けを振り返った。

それは、彼女にとっての世界との最後の接触のように感じられた。


柊真はキャリーケースを引きながら、「こちらです」と詩織を促す。

外壁の無機質な白とは対照的に、柔らかな照明が灯るエントランスの自動扉をくぐった。


「……外界の音はここには届かないようですね」


詩織の声は、その徹底した静けさの中で、細く響いた。


「ええ。防音とセキュリティは徹底していますから」


柊真の声はどこか誇らしげでありながら、その言葉が「孤独な要塞」の定義でもあることを、自覚しているかのようだった。



エントランスホールを抜けると、木の香りが漂う談話室が現れる。

その先へと続く扉は、よく見ると重厚な金属製で、壁にはセキュリティロックが埋め込まれていた。


「人は、めったに来ませんが──関係者以外はここまでです。

 大きな機材を入れる時は、別の搬入口を使っています」


柊真はそう説明しながら、談話室の椅子を引いた。

室内は温かみのある木材で統一されている。

横長の窓の向こうには、夜の帳が下り始めた深い森が広がっていた。


「お食事、まだでしたよね。軽いものですが」


柊真は手早くサンドイッチとサラダを並べ、温かいコーヒーを淹れる。

詩織はその手際を静かに見つめていた。

昔から変わらない、寡黙で丁寧な所作。


「いただきます」


木製のテーブルと陶器の皿──その組み合わせが、妙に落ち着いた。


柊真も一緒に食事をとる。

──食事が一段落した頃合いを見て、意を決したように切り出した。


「……詩織さん。

 『女性の心』をAIで再現する方法について、あなたの意見を聞きたいんです」


詩織はカップを置き、ゆっくりと考えるように目を伏せる。


「……女性の心、ですか」


「はい。どうしても、そこだけが、論理の壁に阻まれてしまう」


詩織は小さく息を吸い、視線を窓の外へと移した。

暗い森の奥、冷たい月に照らされた山々の稜線が、幻想的に浮かび上がっている。


「感じ方の『構造』が、違うからだと思います」


「構造ですか?」


「たとえば……

 『好き』という感情は、論理的な重みや因果関係で成立していません。

 日々の小さな積み重ね、温度、声のトーン、距離感、相手の表情に宿る、ほんのわずかな『揺らぎ』……

 自分でも説明できないような微弱な相関の連なりが、複雑な情緒を生むんです」


詩織は、木のテーブルへと視線を落とした。

その表情は静かだが、声には自身の記憶が滲んでいた。


「AIは、明確な因果を求めすぎるんです。

 だから……女性特有の心という細い糸の震えに、辿り着けないのではないでしょうか」


柊真は霧が晴れたかのような表情で、静かに目を見開いた。


「なるほど。確かに、現在の感情の価値判断層は、統計的に強い相関ばかりを優先して拾う設計になっている。

 ……だが、言われてみればその通りだ。

 ノイズとして切り捨てていた微弱な信号の中にこそ、本質がある……!」


わずかに声が熱を帯び、詩織は小さく微笑んだ。


「柊真さんは、理論は得意でしょう?

 でも、女性の心は、理論の外側の部分が強いんです」


「そうか……確かに、そうですね」


短い静寂──淹れ直したコーヒーの湯気が、談話室の柔らかな照明に溶けていく。


柊真は、何かを掴み取ったかのような勢いで立ち上がった。


「今の話、すぐ試したいんですが……

 一緒に見てもらえますか?」


詩織は驚いたように目を瞬かせ、すぐに力強く頷く。


「……はい。喜んで」


柊真は、研究所の心臓部へと続く扉のロックを解除した。

ガチャ──という重厚な金属音が響き、扉が開く。


「行きましょう」


柊真以外が踏み入ったことのないラボには、まだ生まれかけの──心を持たないAoi-Coreが、静かに誕生の時を待っていた。

【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】

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