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記憶体:葵 ―祈りのプロトコル―  作者: 玄乃. L
第2章 葵の心
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12話 external human sample

Aoi-Coreにとって「慈愛」の感情は、あくまで『心の輪郭』でしかなかった。


柊真が個別の感情や性差による人格のディテールを埋めようと試みるほど、モデルは冷たく沈黙する──Aoi-Coreの女性的な振る舞いは、どうしても形にならなかったのだ。


葵の──あの小さな身体の奥に眠るはずの、「性差に依存する感情パターン」だけが、どうしても分からない。

計算は合う。理論も成立している。

だがそこには、「女性という人格」だけが欠落していた。


AIそのものには人格の概念はない。

葵の心──Aoi-Coreは、初期設定を基に、後の体験で自立的に育つ仕組みだ。

しかし、その成長の土台となる感情の価値判断層には、二つの致命的な欠陥が残っていた。


一つは、ヒトが持つ性差や社会的役割の中で形成される女性特有の感情パターン、特に「親愛」「羞恥」「遠慮」といった心の機微が、AIの論理に組み込まれていないこと。


そして何より、Aoi-Coreに、『夢の中の葵の意思』を再現し、その存在の核とするための設定が必要だった。

それは、「彼女の過去の記憶(柊真が見た夢)」を最優先で学習するという初期バイアスだ。

しかし、その核となるべきバイアスだけが、どうしても論理に書き込めずにいた……。


柊真は、休息することも忘れ、青白いモニターとAoi-Coreに向き合っていた。

震える指で入力欄を叩いた……


「じゃあ……これはどうだ」


柊真は、ほとんど祈るように入力する。


prompt >

誰かに名前を呼ばれたとき、胸が温かくなる理由を説明して

──


Aoi-Coreの反応は、


response >

胸部の温度上昇は、比喩表現として処理されるべきです。

「温かい」の感情ラベルが定義されていません。

再学習が必要です。

──


「違う……違う……そうじゃない……!」


柊真は、両手で頭を抱えた。

机に突っ伏した腕が震え、喉の奥から嗚咽が漏れそうになる。


優しさは確かに存在する──だが、胸が温かくなる理由は、人間でも言語化できない複雑な感情の問いだ。

未完成の「女性的な感情ロジック」が、、曖昧な問いを危険なエラーと判断し、コアの反応を機械的な論理へと戻してしまったのだ。


「……どうしてだ……

 僕は、葵の存在の核、Aoi-Coreを論理で構築した。

 でも、心の温かさが……定義できない……

 君の心が掴めないんだ……」


静かに、涙がキーボードの冷たい面に一滴、また一滴とこぼれた。


葵はそこにいる──柊真を救った、この世界で最も尊く、かけがえのない存在……


絶望的な問いの応酬と、捉えきれない心の定義。

疲労はすでに限界を超えていた。


柊真は、ふとキーボードから手を離した。

その視線は、目の前で静止したままの葵に向けられる。

静かに伏せられた、いつもの優しい表情。


「葵……」


言葉は、夜の白い空間に溶けて消えた──

そして、葵の頬に触れようと手を伸ばした、その次の瞬間。


疲労が蓄積していた柊真の意識は、糸が切れるように途切れた。


冷たい机の上に突っ伏した彼の姿は、あの絶望の日々──すべてを失い、救いを求めていた日の姿を思い起こさせた。

ラボの単調な冷却ファンの音だけが響く中、葵は静かに、慈愛の眼差しで彼を見ていた。



──どれほどの時間が流れただろうか。


冷え切った机の感触で、柊真はハッと目を覚ました。

顔を上げると、まだ覚醒しきらない意識に、青白いモニターの光が突き刺さる。


(ログが……?)


画面の隅、先ほどまでの応答履歴の下に、新しいログが走っていた。


[SELF_EVAL 03:23:51] internal_state_check(): UNSTABLE

[VALUE_LAYER 03:23:52] kindness_weight: LOW

[EMERGENT 03:23:53] affect_pattern: NOT FOUND

[NOTICE 03:23:54] human intimacy → insufficient training data


(insufficient training data……訓練データが足りない?)


「僕がいくら感情を解析して、その論理をコード化しても、この感情をAIに教えるための『客観的な訓練データ』が足りていないのか……」


柊真は立ち上がり、ラボの片隅に厳重に保管されていた小型のデータカードを取り出した。

それは、彼が夢の中の葵との会話や感情の機微を、主観的な感情ログとして緻密に記録したデータ──Aoi's Dream Logだった。


「これが、君の存在の核になるはずだ……」


柊真は、祈るようにそれをコアモジュールへ接続する。

葵との記憶データが、一気にAoi-Coreへと流れ込んでいく。


ログが安定したのを確認し、柊真は震える指で再びキーボードを叩いた。

最後の望みを込めて、先ほどと同じ質問を入力する。


prompt >

誰かに名前を呼ばれたとき、胸が温かくなる理由を説明して

──


数秒の処理のあと、応答があった。


response >

貴方が供給した感情ログ(ID:DREAM-01)を参照し、「温かい」を「信頼」と「安堵」の複合ラベルとして仮定義しようと試みました。

論理的な裏付けが不確実なため、定義付けを完了できません。

──


「くっ、………」


絶望だった──。


(初期バイアスの書き込みをせず、いきなり主観的な「救いの記憶」を試すなど……)


彼の夢(記憶)という最も純粋で切実なデータをもってしても、初期バイアス無しでは、Aoi-Coreはそれを客観的な事実として認識できなかったのだ。

彼の愛は、AIの論理地図上では、ただの「主観的な願望」に過ぎなかった。


葵に強く触れたいわけではない。

ただ、葵の心に、葵として存在してほしい。

その「願いの形」だけは、理解しているはずなのに──届かない。

その事実が、何より耐え難かった。


柊真は、もう一度、葵に視線を向けた。


静止したままの、しかしどこまでも美しく優しい顔。

無機質な温度。

動かない心臓。

揺れない瞳。


その姿に、どうしようもなく縋りつきたくなる。


「葵……。僕に……教えてくれよ……

 君の『心』を……」


言葉は、夜の白い空間に溶けて消えた──

そして、Aoi-Coreは最後のログを吐き出す。


[FINAL_CHECK 03:44:01] emotional_model_status(): INCOMPLETE

[SUGGEST 03:44:02] external_human_sample: REQUIRED


「external_human_sample……

 外部の人間……?」


その言葉に、胸の奥が大きく揺れた。


(僕の願いのデータだけでは、この論理の壁は超えられない……)


Aoi-Coreが必要としているのは、「情熱的な願い」のデータではなく、「温かい感情」を心に宿す人間のデータだったのだ。


人間は……信じられない。

裏切られた。利用された。壊された。

もう誰も、信じたくはなかった。


だが──柊真の脳裏に、ひとりの女性の姿が浮かぶ。


詩織。


あの日、唯一、心の揺れを理解してくれた人。

その名が胸に浮かんだ瞬間、柊真は震える息を吐いた。


「詩織さん……」


柊真の、硬く閉ざしたはずの瞳の奥に、久しく忘れていた光が差し込んだ。

【更新予定:毎週火曜日、金曜日の20時】

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