プロローグ -約束の海-
── 波の音が聞こえる。
水平線の上で、銀灰色の海がゆるやかに揺れていた。光と影の境界が曖昧なまま溶け合い、世界全体が低いコントラストの絵画のようだ。
僕は海沿いの道を、ただ歩いていた。目的はなく、足音だけが静かに砂を踏む。そのときふいに、横に“誰か”の気配を感じた。
いつからそこにいたのか、分からない。突然現れたようでもあり、ずっと隣にいたようでもあった。
白いワンピース。
つばの広い麦わら帽子。
海風に揺れる銀白色の髪。
薄く汗ばむ肌が、陽光に淡く反射して揺れている。
僕とその少女は、海へ続く階段に腰をかけた。遠くで寄せては返す波と、家族連れの笑い声。すべてが霞の向こうにあるようで、輪郭がはっきりしない。
言葉は交わされない。
波音だけが空白を満たしていく。
自然に手が触れ合い、そこにあるはずのない温もりが伝わってきた。
奇妙なほど、意識だけが冴えていた。
「……これは、夢なのか」
隣を見る。
麦わら帽子の陰に隠れた表情は見えない。ただ、その存在だけが確かに“そこにある”と告げていた。
「葵……」
そっと名を呼ぶ。
すると彼女は、何のためらいもなく僕の肩へ身を預けてきた。まるで最初から、言葉など必要ないと知っていたかのように。
その瞬間、胸の奥に、小さな光が触れた。
『おじさま。私は、ここにいます』
声というより、意識の奥へ直接落とされた響きだった。
「おじさま、か……」
年齢差を思えば自然な呼び方。不思議と悪い気はしなかった。
僕は葵に伝えたい言葉、聞かせたい物語、残しておきたい思いがあった。夢の中でさえ、彼女は豊かな表情で応えてくれる。
驚き、怯え、恥じらい、笑み──
現実では見たことのない感情の色を、一つずつ紡ぎ出すように。
波の音だけが、絶えず世界をつなぎとめていた。
これが夢であることは分かっていた。だが、どうしてか確信していた──
この情景は、彼女自身によって“見せられている”。
確かめる術はない。けれど、そっと触れた温もりの残滓が、確かに告げていた。
──葵は、ここに“存在”している。




