2話目 前世の記憶
よろしくお願いします。
静かな夜だった。
母馬の体温に包まれて眠っていたコロは、
ふとした拍子に、牧場主の息子・達也の「そろそろ親離れだな」という声に耳を傾けた。
次の日。
それは突然だった。
柵の向こうに引かれる母馬。鳴くこともできず、柵の中に残されるコロ。
暴れた。叫んだ。だけど誰にも伝わらない。
その瞬間だった。
——俺は、死んだんじゃなかったか?
黒く、深く、冷たい記憶がはっきりと戻ってくる。
騎手服に袖を通し、ダートの砂を蹴っていた日々。
園田競馬場。笠松の遠征。
狭いパドック。重い馬体。沈黙。拍手。
それらすべてが、突如として脳裏に押し寄せてきた。
——そうだ、俺は「村上拓也」。地方競馬の、なんの変哲もない騎手だった。
娘がいた。妻もいた。
だが、最終レースの直線で落馬し、そのまま命を落とした。
気がつけば、自分は小さな栗毛の牡馬として、この牧場にいた。
(なんてこった……転生? 俺は、馬になったってのか……)
混乱と絶望に包まれながらも、コロは静かに牧場の空を見上げた。
自分は小さすぎる。成長してもおそらく450キロにも届かないかもしれない。
ダート馬になった場合、不利すぎる体。
それでも——
ただ勝てない競走馬として死を待つくらいなら、せめて足掻いてやろう。
そう心に決めた。
その夜、彼は走った。
誰にも見られない裏の放牧地で、何度も何度も、父のように地面を掴みながら。
父のように脚をしならせて、体重をコントロールする。
母のように静かに周囲を観察する。
走るたびに蘇る感覚。
あの、鞍の重み。手綱の揺れ。
騎手の指示。ゴール板。歓声——そして、娘の声。
「がんばって、パパ!」
その声に、また涙が出そうになった。
けれど馬の瞳には、涙は流れなかった。
コロは、走る。
まだ名もないただの仔馬。だがその胸には、確かに一つの闘志が灯っていた。
——この体でも、俺はあがいてみせる。