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Kaleidoscope

作者: u2la

Object - Subject

過ぎ去りし日々を覗き込みながら、そこに何を見ましょうか。

一人の孤独な少年は言った。


「ぼくはひとりぼっちだ」


そして、彼は孤独であることをやめた。


---


今回この筆を取ったのは、僕の物語をあなたに語るためであり、そしてある人との約束を果たすためでもある。僕は自分のためにこの物語を語る。だから、あなたはあなた自身のために、この物語を読めば良い。もちろん今すぐこの本を机に放り出して読むのを止めたって構わない。


このお互いが自分に向き合った自己中な営みが、果たしてどこに向かうのか。そこにどんな模様が生まれるのか。その事への飽くなき興味が僕に小説を書かせている理由でもある。


さて、僕にとってこの半世紀ほどの人生は、紙切れ数枚に収まってしまうほど、薄くて取るに足らない、つまらないものだ。しかし、そんな僕にでも、いやこれはきっと誰にでも、両手にはとても収まらないほどの鮮やかに色づいた時間というのが存在する。


つまらない自分自身がつまらなくなる前の、どんなに汚れを落としても、決して消えることのないような、僕という人間を語る上で欠かすことのできないような厚みが存在している。


このような機会が与えられたならば、そのことを語らずして、一体僕の何を語れるだろう。


---


昨日には無かった景色が賑わいと共に突如として現れる。子どもの夢が実体となって現実に現れたような光景に胸が踊ったものだった。


興奮の色眼鏡は目にするもの全てを鮮やかに輝かせ、賑やかな人々の声も、ごうごうと音を立てるローラーコースターの音も、一定間隔でカラフルに点滅する屋台の電飾も、弾けるような刺激の波に目眩さえしそうなほどだった。


そんな中で僕が迷子にならずにいられたのは、右手に優しく握られた柔らかく温かい手のおかげであり、左手に握られたごつごつとした幹のような手のおかげでもあった。


僕はそんなことを思い出す。


しかし、それは既に過ぎ去ってしまったものだと知っている。


こんなにもつまらない場所だっただろうか。観覧車の周りに群がるような人だかりも、どこかから香ってくる甘ったるいポップコーンの匂いも、何も変わっていないはずなのに、あんなにも輝いていたはずの世界が、今は酷く寂れたものに見えている。


遊園地の賑わいがとてもうっとおしく思われた。誰も彼も不揃いでゴツゴツした野菜のように見える。その凸凹も僕にとっては大差がない。切って炒めてしまえば、結局のところ同じような味になるのだろう。だから、それらは一括りに他人と呼ばれるのだ。


初めからこの遊園地はこんな場所だったのかもしれない。では何が変わったのか。


僕の両手に握られていたはずのものが無くなった。右手は彼岸に。左手は絶望の深淵でかろうじて此岸にしがみ付く。おかげで今年は僕一人。その孤独感が目に映る全てに影を差しているのだろうか。


先程から前を歩いている三人の家族。父母の間に挟まれた真ん中の少年は、今一体どのような気持ちでこの瞬間を過ごしているだろうか。その目には、この場所がどのように映っているだろうか。


もしその時間が、その場所が、奇跡のように輝いて見えているのならば、君はそれがいずれ失われる幻想なのだということを知らない。知らないほうが幸せなのかもしれないが、もしそうであるならば死ぬまで知らないほうが良い。


違う。それでは、まるで自分はその少年をやっかんでいるようだ。なぜ僕はそんなことを思うのか。彼らは僕の人生とは何も関係がない。しかし、今は彼らの幸せが、この遊園地の賑やかさが、翻って自分の不幸を映し出しているかのようだ。


いっそ自分の不幸を嘆いて、そのことに自ら飲み込まれ、前の家族に向かって怒鳴り散らしてでもしてみれば楽なのかもしれないが、そうしたところで、それさえも同じように今の自分が置かれている状態を裏付ける出来事になるだけである。


何を見ても僕のことを考えていた。僕僕僕僕。僕は今何を目にしても、何をしてもそこから僕の不幸を取り出すことが出来るのかもしれない。


ポケットに両手をつっこみ、自分の腿の温かさに触れようとするが、手の平には何も返ってこなかった。僕はしばらくこの移動式遊園地に置いてきた過去を取り戻そうとするかのように、ただ漂っていた。


気がつけば遊園地の縁までたどり着いていた。縁の先には、穏やかな波を立てる青黒い海が見えている。この付近には出店は殆どなく、出店関係者用のテントが立ち並んでいた。


そこで「万華鏡」と書かかれた小さな木札を足元に立てた、一人の初老の男が座っているのを見つけた。男はシワの入った白いシャツにサスペンダーの付いた焦げ茶のズボンを履いている。大きく開いた足の間には内に仕切りの入ったスーツケースが口を開けて置かれ、くたびれた印象の男と対照的に、数々の色の輝きを放っているように見えた。


その男、いうならば万華鏡おじさんを僕は無性に冷やかしてやりたくなった。行き場の無いというよりも、むしろ全てが僕の元に返ってくる感情を前にして、誰かとのつながりを求めていたのかもしれない。気がつけば僕は万華鏡おじさんを見下ろすように立っていた。


「今どき誰が万華鏡に興味を持つっていうんだい」


と僕は唐突に話しかけた。


スーツケースの中に一本一本敷き詰められた万華鏡を整理していたおじさんは顔を上げて、僕の顔を眺めた。目の脇には小さなシワが入り、白髪の混じった髪。近くで見ると余計に冴えない人だと思った。


「それは君のことじゃないか。こうして君は万華鏡屋の私に話しかけているのだから」


とおじさんはこちらを見て答えた。僕は思わぬ反撃を食らったような気持ちで、顔が熱くなっていくのを感じた。おじさんの足と足の間に置かれたスーツケースの輝きの正体は、様々な彩りを持った万華鏡の筒にあしらわれた装飾が放っていたのだということが分かった。


「見たければ好きに見てくれよ。お金は取らないで置こう。君の言う通り、どうせほとんど誰も来やしないのだからね」


そういって微笑むおじさんの顔には、いくつものシワが折り重なり、生きてきた年季を感じさせた。誰も来やしないと分かっていて、なぜ万華鏡屋なんてやっているのかと僕は不思議に思って尋ねる。おじさんは答えた。


「みんなに興味を持たれなくても、必要とする一人がどこかに必ずいると思っているからさ。この私がそうだったようにね。こうして出会った君にも、もしかしたら万華鏡が必要なのかもしれないな」


胡散臭さ以上に、どことなくおじさんの言葉に込められた重みを感じ、スーツケースの中から青色のビーズが筒の外側に散りばめられた小さな万華鏡を手に取った。覗いた先に映ったものを言葉にするのは難しかった。捉えどころのない抽象的な概念が、そのまま視覚に現れたようだった。模様が現れては消え、何かを掴んだと思った途端にその形を変えて離れていき、生まれては死んでいく。光と色の波に揉まれていると、段々とめまいがしてくるような気もした。


万華鏡を返し、おじさんはどうだったかと尋ね、僕は正直に面白くなかったと言った。先ほどから達観したように振る舞うおじさんを、これで少しは苛立たせることが出来るかと思ったが、おじさんは笑って言った。


「万華鏡の模様は君自身を映すんだ。だから、決してこの万華鏡がつまらないんじゃない。きっと今の君が面白くないんだ。そんな怖い顔をするなよ。きっと君は面白くない気持ちでこの筒を覗いたんだろう」


何も知らない人間に僕のことを分かったような口を聞かれ、内から静かな怒りが湧いてくるような気がした。母さんが死んだことよりも、よっぽど心が動くのを感じた。


ついそれを抑え込むことが出来ず、僕は無関心で何事も面白くない、薄情な人間なんだ、母さんが死んだのに一粒の涙も流れないような、と自嘲するようにおじさんに向かって語ってしまった。


「いつものように買い物に出て家にいないと同じにしか思えない。ただ、その買い物が長引いていて、遅くなって、いつまでも帰ってこないというだけのことなんだ。


母さんが死んだということは、まるで本の中の出来事と変わらない。無いはずのものが在ることよりも、在るはずのものが無いことの方が人には実感できない。何かが在ることが証明するよりも、何かが無いことを証明するほうがずっと難しいのは悪魔のせいだと昔のローマの学者は考えていた。


僕もそう思う。母さんは買い物の途中で悪魔に連れ去られてしまったんだ」


おじさんは少し黙ってから僕の両肩に優しく手を置いた。そして、僕の目をまっすぐ見ながらこう言った。


「いいかい。まだ子供の君がこのことを理解するのは難しいかもしれない。でも、何かが起きることよりも何かが起きないことのほうが、ゆっくりと、それでも確実に、深く私たちの首を締めていくんだ。人はそうやって摩耗していく。そして、そのことに気がついた時には、もう何もかも手遅れになっているんだ」


おじさんの言うことはよく分からなかった。母さんが死んだのに僕は悲しくなかった。そして、一度死んだという事実を知ったならば、その瞬間こそが頂点なのであって、もうそれ以上悲しくなることがあるはずがない。そのように論破してやりたい気持ちになった。僕はおじさんの大きな両手を肩から強く払い除けた。


悲しむのは弱さだと思った。母が死んでも泣かない自分を薄情に思いながら、同時にそれは僕自身の強さを示していると考えていた。敬愛するニーチェの言葉がいつも心の中に繰り返されていた。困難につぶされなければ、人はその経験によって強くなれるんだ、と。


あったはずのものが失われた時、そこに決定的な差は生まれなかった。別に母がいなくても生きていけない訳では無い。もともと家族の生活は父の稼ぎで成り立っていたし、僕も大人になれば、自分でお金を稼いで生きていくようになる。その一生にもう母に依存するような余地はない。


では今、一体私は何に躓いているというのだろう。波のような悲しみとは違う、重く寄りかかってくるような、ただ言葉にしようのない不安という概念そのものに心が閉じ込められているようだった。


おじさんは唐突に奇妙なことを言った。


「もう一度お母さんに会いたいかい。もし会いたいなら会わせてあげようか」


それを聞いた時、僕は耳を疑った。変わっている人だったが、まさかここまでだとは思わなかった。そんなことができるはずがないという僕に、おじさんはできると言った。なぜそんなことができるのかと尋ねると、おじさんは答えた。


「私も悪魔だからね」


おじさんはにっこりと笑って僕の頭を撫でた。迂闊に個人的な話に深入りしてきたこの男に恥をかかせてやるのだと、僕はその話を飲むことにした。そうして失敗したおじさんのことを思いっきり詰ってやると強く決めた。


おじさんは明日母さんの形見の品をいくつか持ってくるように言った。一体それで何をしようというのかは皆目見当がつかなかったが、万が一うまく行けば母さんは蘇り、失敗しても僕はおじさんを好きなだけ罵倒できる権利を得る。決して分の悪い賭けでは無いと思っていた。


その薄暗い部屋は何一つ変わっていなかった。家の二階、階段を上がった廊下の突き当り。日の良く入る部屋には西日が差し、薄っすらと小さくホコリが宙舞っているのが見えた。ベッドのシーツにはシワが入り、いつもの癖のようにシーツの上端が小さく折られていた。化粧台の鏡の外側には小さくヒビが入り、掠れたような指紋が残っていた。母の死後、この部屋は母が家を出た時からそのままにされていた。時が止まったように生活感を感じさせるその一つひとつの印は何も変わらない。ただ、その印の主だけがもうこの世にはおらず、死んだというだけだった。


この部屋に入ることは避けていた。様々な母との縁が蘇り、感情が揺れ動くことを恐れていたからだ。しかし改めて入ってみると、想像以上に何も感じなかった。むしろ、悲しくならなかった、という事実にこそ僕は悲しくなった。悲しみの縁となる存在が母そのものであるならば、母自身を失ったということを、その縁の欠如の中でどのように感じ取ることが出来るというのだろうか。


僕はこの母の部屋で形見となりそうな品を探していった。ベッドの奥の化粧台に近づき腰掛ける。相変わらずベッドの近くは床のきしみがひどく、体重をかけた途端にギシギシと音を立てた。化粧台の引き出しを開けると、小綺麗に整理された仕切りの中に、櫛や手鏡、ブローチ、用途もよく分からない化粧道具が並んでいた。


手鏡を手に取り、持ち手の部分を見ると ”Smith” という判のようなロゴが小さく掘られていることに気がつく。手鏡を眺めると、そこには僕が映っている。その顔は面白みもない、線を貼り付けて出来上がったような薄っぺらい顔をしていた。鏡面についたホコリを取ろうとしたら手垢がついた。一体こんなものが形見の品と言えるのだろうか。この大量生産の工業製品のようなものに、何か特別な意味があるのだろうか。


ここにあるものには母さんの残り粕すら感じられない。


今度は櫛を手に取り、その先を指で撫でる。そこからは小さく高い弾く音が聞こえる。いくつかの先端は欠けて曲がってしまっており、不揃いな音だった。僕は引き出しの中に櫛を戻す。


そうやって一つ一つの品を机に並べ手にとっていったが、そこに特別なものは見出されなかった。何も感じない。これらの品に一体どんな意味が、母さんと僕の間にあったものを示す欠片が何かここにあるのだろうかと思った。こんな形見と言えないような品々から、おじさんが万が一本当に母さんを蘇らせたとしたら、そこに蘇るのは本当に”僕の”母さんなのだろうか。


僕は自分が薄情な人間だと思った。本で読んだ人間の一生にはもっとドラマが有って、人が死ぬという一つの結末には最も感情が大きく揺さぶられる。しかし、それが実際に身近に起きてどうだろうか。そう、たしかにそれは起きたことのはずなのだ。だが、何も感じない。


「なんだ、お前か」


いきなり背後から声をかけたのは父さんだった。悪いことを隠すような気持ちで慌てて振り返ると、廊下から部屋を覗き込むように立って、虚ろで少し落胆したような顔を浮かべていた。


「お前はこの部屋に入らないようにしていると思っていたからな。あまり散らかすなよ。ご飯の支度は出来ている。適当に食べてくれ」


とだけ言って、僕の返事も聞かずにすぐにふらふらと階下に降りて行ってしまった。生気を失った父の姿が僕には羨ましく思えた。きっと父さんはきちんと悲しむことが出来たのだ。


机に置かれた品々をどれだけ感傷的に眺めようとしても、それらは形見にはなってくれなかったが、明日何も持っていかなくてはおじさんを苛めることは出来ないので、いくつかの品を腕に抱えて僕の部屋に持ち帰った。


翌日、影が長く伸び始める頃、遊園地では店の幾つかはすでに閉じる準備を始めていた。人の入りも昨日と比べると大分少なくなっていた。僕は母の品を詰めた袋を片手に、遊園地の奥に向かって進んでいく。おじさんは昨日と同じ格好をしてそこに居た。


おじさんは僕の存在に気がつくと笑みを浮かべて、持ってきたかい、と尋ねた。僕はぶっきらぼうに袋をおじさんに手渡した。おじさんは袋を開けて、その中を覗きながら一つ一つの品を取り出していった。


「これから君の持ってきたこれらの物を砕かなければいけない。一度砕いてしまったものは決して元には戻らない。それでも良いかい」


とおじさんは言った。そこでおじさんがこれからやろうとしていることを理解した。つまり、おじさんはこの品々を使って万華鏡を作ると言っているのだった。そうだ、この人は万華鏡屋なのだ。それこそが彼の仕事なのだ。少し驚きはしたが、構わないと僕は言った。


「結局何も感じないはずだから。好きにやってよ」


同じものと取り替えたってどうせわからない。持ってきたのは、デパートに行けば、どこでも買えるような品でしかないのだから。おじさんは小さく頷いて、スーツケースから汚く折り目のついた新聞紙を取り出した。僕の持ってきた母さんの手鏡や櫛は、それに包まれていった。


続いて、おじさんはスーツケースから重みで頭が垂れたような黒いハンマーを取り出した。唐突に物騒な道具を取り出すものだから、ついぎょっとしてしまったが、砕くと言っているのだから、ハンマーくらいは必要だろうと思った。


がさがさと新聞紙にくるまれた品は男の足元に優しく置かれ、次の瞬間にはその優しさを裏切るようにバキッという大きな音が僕の耳に突き刺さった。おじさんが鋭く腕を振り下ろす度に異なった音が鳴り、次第に音は鈍く均一になっていき、それに合わせるかのように包みも平たくなって元々の形は失っていった。


その様子を見ている内に、その大きな音が僕を内側から震えさせるように感じられ、段々と僕の中から何かが込み上げてきた。うまく言葉にはできない。しかし何かがガラガラと崩れ、壊れていくような音が響いていた。


次第にハンマーが振り下ろされていく様をじっと見ていることが出来なくなり、気がつけば僕はおじさんの肩に手をかけて止めようとしていた。


「もうやめて」


こぼれ落ちるようにそんな言葉が口を紡いで出た。しかし、おじさんにその声は届いていないようだった。聞こえていないはずはないが、それが彼の手を止めることは無かった。ただ黙々と仕事をしているかのように、重力に従って物がただ上から下に当たり前に落ちていくように、ハンマーを振り下ろし続けていた。


僕は自分がしてしまったことが、本当はとてもいけないことだったのではないか、と後悔し始めていた。


「やっぱりやめて!」


先ほどとは違い、すでに自分の中の意志が言葉を紡いでいた。しかし、それでもおじさんは僕の手を振り払い、僕の言うことを無視して手を止めず黙々と砕き続けた。耳を傾けようともしないこの男が憎らしく感じられ、本当に悪魔なのかもしれないと思われた。ただ激しく厳しい現実が僕に向かって突き刺さっていた。何度も押し退けられて尻もちをついた僕は、遂にはもうどうすることも出来ないのだと悟り、母の品々が呆然と粉々にされていく様をただただ眺めていた。新聞紙の包みがほとんど真っ平らになる頃には、同時に僕の中にあった何か大切なものも完全に叩きのめされてしまっていた。


しばらくして手を止めたおじさんは、所々に小さな穴が空いてしまった新聞紙をゆっくりと開けた。つい先ほどまで形を持って存在していた品々は、今やその区別も無く両手でひと掬い程の砂粒のようになっていた。


おじさんは大きな破片はよけて、小さな破片をつまんで手に取り、もう片手に持っていた試験管のような細長く透明な容器に入れていく。液体に満たされたその容器の中をゆっくりと破片が落ちていくのが分かった。おじさんはそのまま手慣れた様子で万華鏡を完成させていく。小さな破片の大半は新聞紙に乗せられたままだった。


最後におじさんは万華鏡の筒を、ささやきかけるような優しさで中指の背でトントンと叩いた。そうして”母の万華鏡”が完成したようだった。地べたにうずくまるように眺めていた僕に、おじさんは出来上がった万華鏡を黙って手渡した。おじさんの表情は悪魔というには嫌味がなかったが、人間というには少々感情が欠けていた。


僕にはそれを覗くことが躊躇われた。今の自分の感情がよく分からずにいた。何かが右に左に、上に下に、大きく揺れ動いている。ただそのことだけが確かだった。しかし一体何を揺さぶられているのだろうか。それが知りたいようで知りたくもなかった。そのどちらにも傾かないでいられるような、今はそんな安心が欲しかった。


もし万華鏡が僕自身を映すならば、今それはどんな模様を描いているのだろうか。それを言葉では理解したくない。自分の気持ちを言葉にしたくない。その言葉自身が僕の気持ち”そのもの”になって、それこそが真実なのだと決めつけてしまうようだから。


ならば、今はただそれを呆然と”眺めてみたい”と思った。そこに現れると言われる世界に惹きつけられた。


僕はぎこちなく左目を瞑り、ゆっくりと万華鏡の覗き穴を右目に近づけていった。視線の先にある覗き穴の内側には、うっすらとこの世と違った抽象な世界が広がっているのが分かった。僕は右目も閉じてしまい、その穴を右目にくっつける。そして再び僕は恐る恐る目を開けた。


僕の世界を抽象が満たしていた。それは昨日見たのと大して変わらないただの万華鏡だった。見える色彩からは、何がオブジェクトとして映し出されているのかがよく分かった。薄い水色を帯びたのは母が髪をよく引っ掛けていた櫛。特段にきらびやかに光っているのは手鏡の破片だろう。その抽象的な模様を構成しているオブジェクトの正体が思い浮かぶと、僕は少々冷めた気持ちになった。そこには感動も美しさも無かった。不本意とはいえ、せっかく感傷的な気分で覗いたのだから、せめて幻を見せてほしいと思った。


その世界には中心があった。それは物理的な点として実在している訳では無い。故に目に見えたわけではない。しかしその世界が、移り変わっていくその変化が、その全てがある一点の存在に収束しているのだということが分かった。その存在が混沌で無限にも思われた色彩の奔流に唯一の秩序と規則を与えているように思われた。


僕はしばらく世界が流れていく様を眺め続けていた。その波に乗ってオブジェクトはゆっくりと漂い、大きく揺れていた自分の気持ちもそれに合わせて段々と凪いでいくようだった。


すると次第にオブジェクトが、正確にはこういうべきだろう、”オブジェクトという認識そのもの”が解体され、混ざり、溶け合い、それらが撚り合わされたように新しく生まれた模様が、自分自身の一部のように深く僕を捉えるようになった。そこに生み出された世界の中には、もうオブジェクトは存在していなかった。そのオブジェクトという次元を離れて、世界は新たな次元へと踏み出していた。


その時僕は不思議な感覚を得ていた。そこに浮かび上がっている模様は初めて見るようでありながら、なんだか懐かしい香りがした。そして、どこからか呼びかけが聞こえてくるように感じられた。僕はその呼びかけに応えたかった。しかし、その呼びかけは外からではなく自分の内から沸き起こっていることに気がついた。


呼びかけに耳を傾けると、模様の揺れに呼応するように僕の中にある気持ちが心の水底から穏やかに舞い上がっていく。


悪いことをして母にはよく怒られた。勉強を頑張ったときにはいつも褒めてくれた。だが、その時一体どんな言葉で僕を叱っていたのか、褒める時に母は私を撫でてくれたのだったか、どんな表情で僕を見つめてくれていたのか、そんな具体的なことは覚えてはいなかった。それらが思い出されることもなかった。そういった接触こそが母と僕の確かな関わりであったはずなのに。


その代わりに、僕が感じていたのは、その時確かに感じていたのは、母の温かい優しさ”そのもの”だった。そこに具体的な記憶や場面などの形という”オブジェクト”は無かった。代わりにその”意味”だけが僕の中に残されていることが分かった。その温かな”模様”こそが、僕にとっての母であり、母を僕にとって特別な存在にしていたものだった。


混ざり合い続ける模様に呼応するように、母に対して感じていた優しさが僕を隅々まで包む。これまで自分は母の存在によって地に立つことが出来ていたのだと知った。


そして、その自覚は僕に同時に失ったものと、その大きさを分からせる。僕は喉がつっかえるような息苦しさを感じた。現実を置き去りにしていくようにその模様はぼやけていくように曖昧さを増していった。地にその足を着けていられたのも束の間、再び僕は地を離れて旅立ち、上下左右も分からない世界を漂っていかなければならないのだ。


万華鏡から目を離して初めて、自分の目から涙が静かに溢れていたことに気がついた。何に対する涙なのか、その理由はよく分からなかった。そして、それは分からないままでいいと思った。ただ、このつまらない万華鏡の単純な美しさに涙したということだけは認めたくはなかった。


この万華鏡を覗いている間、自分の中で何が起きていたのか、少しだけ理解ができた。模様は決して僕の外に存在していた訳ではない。外から僕の中に入り込んできた訳では無いのだ。


小さな筒の中でオブジェクトからは模様が生まれる瞬間を僕は見た。僕とその模様との出会いは、偶然でもあり、必然でもある。ひどく矛盾したことを言っているのは自分でも分かっている。


無限に変化し続けるその世界の中で見出された模様は一切が偶然の存在だ。しかし、”その”模様を見出すことが出来たのは、この僕だからなのだ。もし一度見出されたのならば、その出会いは必然でしかありえない。なぜなら、この僕を無くして”その模様”は存在し得なかったのだろうから。


ずっと黙っていたおじさんは、服の裾で目元を拭っている僕に尋ねた。


「お母さんには会えたかい」


まったく意地の悪いことを聞くものだ。この人は本当に悪魔なのかもしれない。


「そんなこと出来るもんか」


嗚咽混じりに放たれたその返事は、その意味とは裏腹で少々滑稽な気がしたが、僕はなんだか清々しく、浮き上がっていくような気持ちだった。おじさんは優しく微笑みながら僕の頭を撫でた。


---


毎年蒸し暑さを感じ始める季節になると、おじさんは移動遊園地と共に現れた。母の死を上手く受け止めることが出来なかった僕の心は、あの日のおじさんの”悪意”によって淀みを払われ、再び弾力を取り戻した。


おじさんはただ優しさや善意から、僕にそんなことをしたのかといえば、単純にそうとは言い切れないようには思っていた。他人の親の形見をガンガンとハンマーで冷徹に叩き壊すような真似をすれば、仮に良い結果を伴ったのだとしても、その行いを善意として正当化し切るのは難しいだろう。おじさんの真意は掴めなかったが、それでも僕は彼に感謝のようなものを感じ、一風変わったこの男を好むようになっていた。


おじさんの身の上が気になって僕はよく尋ねた。これまでどんな仕事をしていたのか、なんで同じ服ばかりを着ているのか。家族はいるのか。おじさんはいつも笑って答えた。しかし、大事な何かだけは、はぐらかされているような気がした。


かつては都会でネクタイを締めて企業に勤めていたのだというが、ある日万華鏡を覗いて、その魅力に引き込まれてしまったのだという。そこですぐに仕事を辞めて、貯金を切り崩しながら万華鏡職人に弟子入りし、数年学んであとは自分で作り始めたらしい。


それまでの人生を投げ捨てて何かに没頭するという気持ちは、まだ働いてもいない自分には理解できなかったが、少なくともその生き方は、僕のような若造に冷やかされるような恥ずかしいものでは無いと思った。


学校での僕は周囲と考えていることや興味の対象に大きな差を感じ、同年代の人間から距離を取っていた。現実から目を逸らすように本の世界へと潜り込み、頭でっかちになっていた僕に向かって、おじさんは周りと上手くやれなどとは決して言わなかった。代わりに文章を書くことを勧めた。


「読んでいるだけでは、面白さの半分しか分からない。自分で書いてみれば、更にもう半分面白くなるだろう。私も一緒だ。万華鏡を覗いているだけでは、どこまでも半分だったんだ」


長い間おじさんのその言葉を思い出しながら、僕は書き続けてきた。今もこうしてこの文章を文字の裏側から、あなたの虚像、そしてオブジェクトとして書き続けている訳だ。読み手と書き手、文字の両面を眺め、そこに隠された姿に迫るには、対立するその二者を経験するほかないのだと今はわかる。


おじさんは職人として、毎年変わった万華鏡作品を作っては、移動遊園地で披露していった。結局どの作品も多くの人を惹きつけることは無かったが、僕は誰よりもそのアイデアを楽しみにしていた。


最もくだらなかったのは、手先の器用だったおじさんが、高さが3cmほどのミニチュア万華鏡をたくさん作って、それをオブジェクトに使った大きな、いわばメタ万華鏡だった。


「“万華鏡”をオブジェクトとした模様が映し出される万華鏡」というコンセプトは面白いと思ったが、結局そこに生み出される美しさ自体に面白みは無かった。その模様に万華鏡という”概念”は映ってはいなかった。面白いアイデアは、その面白さを保ったまま、美しく形にならなければいけないのだと思わされたものだった。


概念を可視化するという試みには意味がある。それは、対象にその概念を見出すことが出来るならば、異質であるはずのそのニ者の間に何らかの構造が共通して存在していることを証明するからだ。オブジェクトを通じて、概念が、意味が顕現する。それが成立した時、次元の超越が成功したことを意味する。


どうやらおじさんは「鏡」という概念に執着しているように思えた。その後も万華鏡を構成する全てのパーツを鏡張りにしてみたり、オブジェクトとして割った鏡だけを入れた万華鏡を作ってみたりしていた。


「私がこの万華鏡を覗き込む時、反対側の鏡に映る目からはどんな模様が見えているのだろうか」


「同じ模様の表と裏、それらを実像と虚像、私たち”二人”で確かめあっている」


「鏡だけで出来上がった万華鏡には、一体何が映っているのだろう。そこに生み出される模様は全て、それを覗き込んでいる私に他ならないのではないか」


「しかし、どうしても私の外にだけは逃れることが出来ない。全てが鏡で出来た世界には一体何が映っているのか、それだけは知ることは出来ない」


「それを”知る”ことが出来るのは、主体である実像だけだからだ」


おじさんは作品を通じて、何かと戦っていたように思えた。今ある場所が常に間違っていると、予めそのように定義づけられた場所なのだというように、そこではない場所に向かって、外へ、裏へと進もうとしていた。おじさんの言うことは、空気に名前を与えることを試みているようで、曖昧で空虚だった。しかし、そこにはおじさんだけの理解と、それによって紡がれている世界があったのかもしれない。


中には僕たち以外にも受けた作品もあった。遊園地にカップルが多く来ていることに目をつけて、筒の真ん中に取り付けたオブジェクトを、筒の両端からカップルが同時に覗いて楽しむという趣向の万華鏡だった。


「同じオブジェクトを見ているのに、違う模様が見えるなんて面白いだろう」


当時の僕には誰にでも思いつきそうな至極単純なアイデアだと思ったが、おじさんはその出来をとても気に入っていた。それで自信が湧いたのか、例年よりも遊園地の中心近くに出店していた。大半の客は物珍しさに小銭を払い、机の上に並べられた万華鏡たちを覗くだけ覗いてすぐに去ってしまったが、中には強く興味を持ったカップルもいて、珍しく万華鏡ごと1個だけ売れた。その時のことは今でもよく覚えている。


二十代くらいの快活な女と、その女に手を引かれた男が現れ、女は小銭を払って机の上に置いてある万華鏡を次々に覗いていった。女の目は万華鏡の煌きに負けじと輝いているように見えた。男の方は万華鏡に触れようとはせず、一歩引いて女が満足するのをじっと待っているようだった。


そして、女はおじさんの作った例のカップル向け万華鏡を見つけ、おじさんは嬉しそうにその趣向を説明した。それを聞いて女は、男の手を引っぱった。


「あなたも反対から覗いてみて」


そして、乗り気ではない男に半ば強引に反対側から覗かせた。女はきれいだといい、男はつまらないと言った。同じものを見ているはずなのに相反することを言うのは面白かった。その感想に女は不服の言葉を発していたが、僕から見ればとその二人のやりとりはじゃれ合っているかのようで、むしろ仲睦まじく見えた。


君が気に入ったならこれを買おう、と男は言って、その万華鏡は売れた。おじさんは大層喜んでいた。その時、万華鏡は確かに異なる二人を結びつける力があるのかもしれないと思ったものだ。


また別の年、おじさんは大きなテントを用意した。少ない財産を注ぎ込んで買ったのだといった。そのテントの中でこれまで作ったたくさんの万華鏡を展示して人を集めるのだという。


これまでの奇抜なアイデアを思えば、おじさんがそんなつまらないことをするつもりはないと僕には分かっていた。一体テントを使って本当は何をするつもりなのかと僕が聞くと、おじさんは


「人間をオブジェクトにした万華鏡を作りたいんだ」


といった。


そのテントの外側にはアルミ製のはしごが取り付けられており、登った先のテントの頂上には覗き穴となる万華鏡がついていて、そこからこっそりと僕とおじさんは中に入ってくる人をオブジェクトにしてその模様を覗き見ようとしていた。


あまりにも人が来ないので中々忍耐を要したが、しばらくして老人がテントに入ってきて、その剥げた頭が視界を埋め尽くすように無限に広がっていく世界を目にしたときには、僕とおじさんは大笑いしてしまった。上にいる間に不良少年たちが展示中の万華鏡をいくつかを持ち去ってしまうという事件も起きた。この時は慌てて降りて、不良を追いかけたものである。


「いつかは自分も万華鏡になって、誰かに覗かれてみたいものだ」


おじさんは冗談のように、よくそう口にしていた。


変わったアイデアも尽き始めた頃におじさんが持ってきたのが、テレイドスコープだった。


「万華鏡は、その内に世界を閉じ込める。しかし、このテレイドスコープがあれば、外の世界そのものが一つの大きな万華鏡になるんだ」


そういって、人差し指くらいの太さをした小さな筒を僕に見せびらかした。先端に取り付けられたガラスの球に周囲の景色が映り込み、筒を覗き込むことでそれらが作り出す無限の模様を眺めることが出来た。


僕はテレイドスコープを持って遊園地の中を歩き回った。連なるテントのビビットな色彩、足元に広がる地面の落ち着いた色、何色にでも染まるような自由な空の色、様々な色彩や質感という視覚的な情報が混ざり合い、歩みを進める度に、首を回す度に、唯一無二の模様が移り変わりながら生み出されていく。この筒を覗いている時、周囲の人間や物、景色といった僕を取り巻く全てのものが、この小さな筒に向かって収束し、一面の模様を構成するオブジェクトへと変わっていった。


そうやって模様を眺めていると次第に優越感のような気分さえ感じられた。この筒を覗き込む時、世界の全てがこの僕を中心として回り始めていくようだった。しかし、同時にそれと矛盾するような、不思議な感覚が湧き上がった。


僕があって、世界がある。でもこの筒から目を離してしまえば、その二つに境界なんて無いということを知っている。僕もこの世界の一部であり、本来僕とこの世界は地続きであるはずなのだ。だから、この世界と僕という区別は、このオブジェクトとサブジェクトという隔たりは、この万華鏡を覗いている時にだけ存在している。


もし筒の反対から、覗かれている世界の方から見れば、きっと僕の方がオブジェクトなのだ。この万華鏡を覗いている時、僕は世界に対する主体であるが、同時に世界にとって僕は客体となっている。その区別が生まれるということそのものが、本来相容れないはずの主体と客体がそこで出会っていることを示しているように思うのだ。そして、その場所で生み出される美しい模様こそが、その二者の幸福な融合の”印”なのだ。


おじさんはこのテレイドスコープをとても気に入ったらしく、それはある種の盲信のような、ときに取り憑かれているようにさえ思えた。おじさんが目の色を変えたように、テレイドスコープを覗き込みながら遊園地内を歩き回り、その先端を僕に向けた時、近い内にこの人はここに来なくなり、二人のこの不思議な関係性も終わりを迎える時が来るのだろうということを直感した。


その年、僕は兼ねてから聞きたかったことを改めておじさんに尋ねた。なぜ万華鏡職人なんてやっているのかと。おじさんは迂回をしていくように答えた。


「万華鏡という概念に惹かれたんだ。どんなものでもその内に取り込んで、美しい模様を作り上げてしまう、そのような構造を持った装置に。ただし、その装置自体を美しくすることは出来ないということに限界は感じているけれど」


「長年やっていると、万華鏡にはこの ”筒” さえも本当は要らないんじゃないかと思うようになる。それはこのテレイドスコープで確信に変わったよ」


「人も、景色も、音も、匂いも、文字も、誰かの言葉も。私たちを、いや ”わたし” を取り巻く全てがオブジェクトなんだ。だから当然、音の万華鏡、文字の万華鏡、というのがありえると思うんだ。いや、あり得るというよりも、それは既に当たり前にこうして存在している」


「それを突き詰めていけば、きっとこんな考えにたどり着く。私が見ている ”この世界” という”模様”は、私たち人間が ”わたし” という筒を通じて、その万華鏡を一生の間、眺め続けているということなんだ」


「私が認識している全ては、その世界を構成するオブジェクトから生み出された万華鏡の模様であって、そしてその装置の構造に支えられているからこそ、世界は美しく在ると思うんだ」


「私が実際に売っているのは、確かにこの小さな万華鏡だけど、私が本当に売りたいのは、希望を見出しているのは、”その”万華鏡という概念そのものなのかも知れない」


このときの僕には、おじさんのいうことの意味の多くが分からなかった。それがまたそれからの僕の学習意欲を大いに掻き立てたとも言えるのだが。少々浮世離れをしてはいたが、その考えが未熟だった僕を先へと導いていくように、僕はおじさんに一種の父性のようなものを感じていた。


そのことを伝えると、おじさんは少々そっけない言葉を返した。


「私は君を導くような人間ではないし、決して君の恩人などでもないよ。もし仮に君が私に救われたと思っているならば、それは君が自分で自分自身を救ったんだ。私はただその場に居合わせたというだけだよ。私は君の母親でも父親でもない。


君は自分で君を救えるんだ。もし君が一度その孤独に触れたならば、元いた場所に戻る必要はない。鏡の世界に救いがない訳じゃない。前も後ろも無いけれど、それでも”前”に進むしか無い。一度そこに立ってしまったら、もう戻る場所なんてないだろうからね」


でも、僕が救われたとすれば、それは確かにあなたと出会ったからだ。


おじさんは僕のその言葉に


「それならば、私もこうして勝手に君との出会いに救われているんだ」


と微笑んだ。


---


翌年、僕は志願していた大学への入学が認められ、来月には父のもとを離れてこの街を出ていくことになっていた。仕事を失っていた父も学費だけは工面してくれた。僕はこの一年で書き上げた1篇の小説を持って遊園地に向かった。


海が見える遊園地の縁、いつもの場所におじさんの姿は無かった。しかし、その代わりに見慣れたものが置かれていた。おじさんがその内に万華鏡が詰め込んでいた革製のスーツケースであった。スーツケースの持ち手の部分には手紙が挟み込まれているのが目に入った。


それに気がついた瞬間、おじさんがもうこの場所には帰ってくることはないのだろうと、僕は察していた。同時に昨年に抱いた直感は正しかったのだと思った。


スーツケースの持ち手から抜き取り、シワの入った手紙を開くと、おじさんのみすぼらしい見た目と似つかわしくない、優美に整った文字が並んでいた。


```

私はこの国を離れなくてはいけなくなりました。

きっともう会えることも無いでしょう。


君のおかげで私も決心がつきました。

この模様を私は大切にすることにします。


孤独は語ってはいけません。

自分が孤独であると語るならば、それは矛盾というものでしょう。


本当に孤独な者は何も語りません。

そして、何も語らないからこそ、本当に孤独でいるのです。


文章はこれからも書き続けるように。

いずれ君が有名になって、君の書いたお話が読める日が来ることを願っています。


P.S 万華鏡は全て差し上げます。

```


この数年間おじさんが何を思って僕と接していたのかは分からない。その内に何を抱えていたのか、それは最後まで明かされなかったし、僕もそこに深く踏み込もうとは思わなかった。僕とおじさんの間にそれは必要がなかった。おじさんの言葉を借りるならば、僕は勝手におじさんに救われ、おじさんは勝手に僕に救われていたということになるのだろう。


彼がそこにどんな模様を見ていたのか、僕には知る由もない。


しかし、僕はそこに美しい模様見た。それが僕とおじさんの出会いを裏付けていた。


---


こうしてようやく、僕がこの話を書いているという状況をあなたにも理解してもらえることだろう。大学に入ってからも、おじさんの勧め通りに文字を書き続け、物書きとなって今もこの文章を書いている。


おじさんが買ってくれたほどの一流の文筆家にはなれず、こうやって時々雑誌に載せる小説を書く程度の取るに足らない小説家にしかなれなかった訳なのだが。


昨年に病で妻を亡くし、郊外に引っ越すために家を整理した中で、偶然おじさんからの手紙を見つけたことをきっかけにこの小説を書いている。大学に入学してからは日常に没頭しながら歳を重ねていき、自然とおじさんのことを思い出すこともなくなっていた。おじさんがあの後にどうなったのか、今も生きているのか、それすらもわからない。しかし、押入れの段ボールに乱雑に纏められていた手紙の中から、それを見つけた時、僕が見ていた模様が鮮明に蘇った。


ここまで語ったこの物語は、結局のところ僕が見た模様だ。おじさんにも、この文章を読んでいるあなたにも、本当の意味でその美しさを知る由はない。僕が裏側から描いた模様は、あなたが表から読む文字が描き出す模様とは異なっている。


だから、それはこの僕だけに映し出された唯一の模様だ。


それでもこの物語は、あなたと出会うことで初めてオブジェクトから模様へと変わり得る。そして、この出会いが同じように、あなたを”勝手に”救うことになればいいと思っている。


僕が当時のおじさんと同じくらいの年齢になった今、おじさんの言っていたことにようやく理解が追いついたようだ。再び苦しい状況にある私は、あの時のおじさんがそうだったように、”出会い” の中で再び自身を救い、前に進んでいきたいと思う。


この文章を読んでいるあなた。


いや、ここまで読んでくれたならば、もうこう言ってもいいだろう。


この万華鏡を覗き込んでいるあなた。


僕は、あなたとの出会いそのものを、今ここで小説にしている。そして、僕はそこに一つの美しい模様が見えている。その優美で玲瓏な姿をあなたに伝えたいと思っているが、その試みが実るかどうかは分からない。小説が ”文字通り読まれる”ことなどあり得ない。それはおじさんの見ていた模様が僕には分からなかったと同じことだ。あなたは一体どうだろう。


ここまであなたに伝えた話、その言葉の一つ一つ、そしてこうやってあなたに話しかけている僕自身が、この万華鏡にオブジェクトとして詰め込まれて、あなたは今それを覗き込んでいる。この万華鏡を覗き込みながら、あなたはそのオブジェクトたちとあなた自身の中にある思い出や理解を結びつける。文字の一つ一つがゆらめきながら、あなただけの模様を描き出す。


僕はあなたにとって一介のオブジェクト。割れた手鏡や先の折れた櫛と変わらない。あなたが一体何を抱えて生きてきたのか、僕が語ったこの物語をどのように捉えたのか、そこに何を感じ、何を考えたのか。結局のところただのオブジェクトで、他人である僕にはそれが分からない。


それでも、あなたはそこにあなただけの模様を見出したはずだ。


きっと誰も想像がつかないような、あなただけの美しい模様が、ゆっくりと少しずつその姿を変え、漂うように、流れ落ちるように、囁くように、ときに眩しいまでの光を放ちながら描かれていく。


あなたは自分だけの万華鏡を覗いている。


あなたをおいて他に、そこに映し出された模様を誰も知ることはない。声を枯らすようにどれだけそれを伝える努力をしても、他人も同じようにあなたをオブジェクトに押し込めて、薄暗い自分だけの万華鏡を一人で覗き続けるだけだ。その無慈悲な隔絶に、その徹底的な孤独に絶望したくなるかもしれない。


だが、そこに模様を見出す時、あなたは一人ではないのだ。


この万華鏡が、そこに見出したあなただけの模様が、あなたの勝手な救いとならんことを願おう。僕には決して見られないことがとても残念だが、あなたが見たその模様の美しさが、この出会いが確かに存在したことを裏付けているのだろう。

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