18.あぶらとり
「お疲れ様ですー。好きなのおひとつどうぞ」
部長と一緒に京都に出張へ行っていた高田が、お土産を買って帰ってきた。
差し出す箱には八ツ橋の小袋と、ほーじやのあぶらとり紙。八ツ橋は高田が、あぶらとり紙は部長が選んだらしい。
「なんであぶらとり紙?」
「さあ?世代ですかね?」
お土産といえばお菓子、と思っていたのは私だけじゃなかったようで、案の定八ツ橋の方が圧倒的なスピードで消えていく。
「あれ、伊東さんは八ツ橋だと思ってました」
「……まあ、ほーじやも有名だしね」
あぶらとり紙を選んだ私をちょっと意外そうな顔で見て、高田が去っていく。
高田よ。社会人っていうのはな気遣いができて一人前なんだぞ……。
本音を言うと八ツ橋の方が食べたかった。めちゃくちゃ食べたかった。けれどここで私が八ツ橋を手にしたら、あぶらとり紙だけがぽつんと残ってしまう。部長のお土産だけ取り残される未来、想像しただけで胃が痛い。気遣いとバランス感覚、それが大人の処世術である。
(って、言ってる本人が一番できてないんだけどね)
二日前、ショウから突き放す様な厳しい言葉をかけられて、感情的になって反発したばかりだ。ショウはホストとして客と適切な距離を保とうとしただけなのに、私が過剰に反応して、めちゃくちゃなことを言ってしまった。
(ホストを辞めろなんて……ほんと、何様よ!?)
結局、シオンの思惑通りになってしまったのも悔しい。もしこれで本当にショウがホストを辞めたりなんかしたら、罪悪感がものすごいことになる。
(いやいや、まさか、そんなことはない……ないよね? だってあの後も結局ショウはふざけて『やっぱ向いてないかー』なんて言ってたし)
……だめだ。思い返せば思い返すほど、自分がどれだけショウに気を遣われていたかが分かる。
大人としても客としても、それはどうなの?ってレベルだ。
(“痛客”って言うんだろうな、こういうの)
ふと視線を落とせば、手元のあぶらとり紙に描かれた女性が「そうよ」と言っている気がして、私は大きくため息をついた。
◆◆
プシュ、シューーー。
黒い合皮のソファに洗剤を吹きかける。
プシュ、プシュ。
プシュ、プシュ、プシュ……。
スプレーから出る泡を繋げて文字を書く。
『ドヘタクソ』
言葉とは反対に、思いの外綺麗に書けたそれを見て、ショウはがっくりと項垂れた。
(……ドヘタクソだよ、馬鹿野郎)
あの夜、美咲にひどいことを言った。
ご飯と血のことしか頭にないあの人に、普通の客と同じことを求めたって無駄だとわかってたのに。
無理やりその枠に押し込めたくてわざとキツイ言葉で脅した。なのにーー
(なんで俺が動揺してんだよ……)
きっと美咲の言葉に深い意味なんて、ない。
売り言葉に買い言葉。俺が強く出たから、同じように返されただけ。
流生とキスしたっていうのも……たぶん適当な話だ。
ドヘタクソの文字を、タオルで拭き消す。
白い泡を潰すようにゴシゴシと。
『ホスト、辞めたほうがいいよ』
あのときの声が、頭の中で繰り返される。
向いてないことくらい、自分でも分かってる。
現に、美咲とのやり取りを引きずって、昨日は売上最下位で、こうして掃除をさせられている。
だから美咲の指摘自体に反論はない。
けど、引っかかるのは──
(なんで、シオンと同じこと言うんだよ)
ホストを辞めろと言うのは、いつもよく聞くシオンの言葉だ。あの二人が同じことを言うなんて、偶然とは思えなかった。
あの日、俺がいない間に何を話してた?何か言われた?共謀した?
二人して俺を辞めさせて、何をしようって──
荒ぶる心を隠す様に、一層強い力でソファを擦った。
「痛っ…」
ソファの縫い目に爪が引っかかった。
見れば元々ささくれていた爪の脇に赤い血が滲んでいる。
(美咲さん、好きそうだな)
なんて、ふと浮かんだのは普通なら出てこない発想で。
もう、とっくに侵されているんだと気づく。
(ドヘタクソ)
この感情に名前はない。
(だめだろ、こんなの。ちゃんと……ホストやらないと)
名前は、付かないままでいい。
『なんとなく』と答えた彼女の様に、分からないくらいがちょうどいい。
そうすれば、また一緒にラーメンを食べられるから。
「おい、掃除に感情移入しすぎだろ。ソファ、死ぬぞ」
不意にかけられた声に、振り返ると、いつの間にか現れたオーナーの拓実が呆れた様にこちらを見ていた。
「おーおー、なに、シオンにいじめられたか?」
「……そういうんじゃ、ないです」
キャストとは違う上品なスーツ姿。
拓実はすっとショウの隣に立つと、肩に手を置いて、ニヤリと笑う。
「じゃあ、伊東美咲だな。どうだ?落とせそうか?」
程よく焼けた肌に、ざっと掻き上げた髪。キリッとした男らしい眉に対して、少し垂れた目尻が絶妙な甘さを添えている。
かつて一世を風靡した“伝説の元ホスト“が、揶揄うような口調で訊いてくる。
「美咲さんは無理だって言いましたよ、俺」
「諦めんの早いだろ」
「あれは摩訶不思議生物なんです」
ショウは絡んでくる拓実をあしらって、掃除を再開した。その動きを見ながら拓実はつまらなさそうに言う。
「あっそ。じゃあ、シオンに頑張ってもらうか?」
「あの人、普通の昼職ですよ」
「知ってる。でも、そんなの関係ないだろ。昼職だろうが夜職だろうが、落とす金の価値は同じだ」
ショウが掃除をしたばかりの黒いソファに腰を下ろした彼は、考える様に顎に当てていた指をパッと開いて振った。
その所作にはなんとも言えない色気があって、男のショウでも心揺さぶられるものがあった。
オーナーの拓実とは以前からの知り合いだった。シオンがお世話になった人で、ショウにとっても恩人だ。
そんな人が美咲をClub GOURMETの常連に加えたがっている。
ーーこの人には逆らえない。
そんなショウの思いを見透かすように、拓実は強い口調で言った。
「自分でこの世界に来たんだから、腹括れよ。客は客だ」
ホストと客。
その形を壊すのは御法度だ。
改めて突きつけられたその事実に、ショウは溢れていた名前のない感情を押し込めた。
「……分かってます」
「あと三ヶ月。できなきゃそれで終わりだ」
ショウは静かに頷いた。
厳しい顔でそれを見た後、拓実は雰囲気をふっと崩す。
「ああ、そうそう。掃除のご褒美に良いことを教えてやろうと思ったんだわ」
拓実がいたずらっぽく笑う。
「“電話予約できますか”って、なんだあれ。可愛すぎるだろ」
「なんの話ですか?」
突然の言葉に戸惑うショウを、拓実が楽しそうに見つめながら言った。
「ま、いいから。まずは伊東さんに連絡しろ。来週のホワイトデー、スペシャルイベント開催だ」