11.つけ麺(3)
「次、クリスタルのロゼとクリュッグを2本ずつお願いします」
バックヤードの黒服に流生は声をかけ、間違えないようにオーダー票を書き込む。
バレンタインデーにはまだ少し日があるが、休日だからか客が多い。
(忙しいとはいえ、ちょっと手を抜きすぎたかな)
美咲の卓での失敗を思い出す。
予想どおり、お菓子に釣られてやってきた彼女をさくっと落とすつもりが、なぜか流生が口いっぱいにガトーショコラを詰め込まれる羽目になった。
思わず小さく笑う。
(でも、ま、あれは完全に昼職の女だな。ホストクラブの遊び方を分かってない)
接客方法を間違えたのは自分のミスだ。けど、それに気づいて調子がおかしいと指摘までしてくるとは、ホストクラブの客としては厄介すぎる。
流生はオーダー票を書き終え、黒服に手渡した。
「B5卓にヘルプつけてください。他の卓、回るので」
今日は本指名の客だけで4卓。効率よく回さなければならない。黒服もそれを承知で尋ねた。
「3番の場内指名の席、今お客様一人になってますけど、どうします?」
伊東美咲の席だ。
(ただのOLに見えたけど、ここで取りっぱぐれたら大ミスだしな……)
オーナーがやけに気にしている女。それをみんな知っているから間違いがないように流生の指示を待っていたのだろう。さっきは失敗したけれど、今度はしっかり繋げる必要がある。
「そこは、あとでーー」
「俺、入りましょうか?」
横から声が飛んできた。ショウだった。普段はラフな服装が多いくせに、今日はきっちりスーツを着ている。
「流生さん……何もなくてよかったです」
どこかで卓の様子を見ていたのだろう。『何もなかった』ことを分かっていながら、心配する風を装って挑発してくる。
「……何も、ね」
ショウの視線を真正面から受け止め、流生は軽く笑った。
「いや、俺が行くよ」
さらりと告げるが、ショウは簡単には引かない。
「流生さん、一人で大丈夫ですか?」
さらに煽りを追加。
流生はぴたりと足を止め、挑戦的に笑いながらショウの目をじっと見据えた。
「気になるならくれば?」
ショウも僅かに目を細める。
「お願いします」
ショウは静かに頷くと、流生の隣に並ぶ。
軽く舌打ちしたい気分だったけれど、それを表に出すほど焦ってはいない。むしろ、これはいい機会だ。
(そっちがその気なら、目の前で落としてやるよ)
流生は、美咲の待つ卓へと足を向けた。
◆◆
流生が去ってから、誰も席に来ない。
……って、そんなことある!?もう15分くらい経つけど?
普通こんな時はヘルプがつくんじゃないかと思うけれど、何が問題なのか、誰も来ない。
時折り誰かが私の「ぼっち具合」を確認して裏に引っ込んでいくが結局誰もやってこない。
大丈夫か?この店。
いや、別にいいんだけどね?私もともとホスト目当てじゃないし。でもさ、それはガトーショコラあっての話で、無くなった今は、ホスト(血)が必要でしょ!あーこんな事なら、さっき流生に変におせっかい焼いてないでサクッと吸っとけばよかったわ。
(ショウも居なさそうだしなぁ……)
フロアをぐるっと見渡すが、見慣れた姿はない。
私はソファに背を預け、脱力して目を閉じる。
このまま帰ろうかとも思うけれど、そうなると大損で終わってしまう。
(……だめだ、まだ帰れない。やっぱりひと吸いさせてもらわないと)
木付流生。その名刺を見た時から、ひょっとして…と思っていた。
名字と名前で分かれてるけど、これ絶対つけ麺の「つける」だよね?いやー、素晴らしい!!これは大変期待できるお名前で!!
これまでのホストとはスタイルが違うところもなんだかつけ麺っぽいし、楽しみすぎるっ!!
(最近ラーメンばっかりだったからなぁ。あー…何のつけ麺かなぁ。魚介かなぁ)
うきうきで考えてたらお腹が空いてきた。
今度こそ一発で仕留めないとね。ショウと違って流生はしっかり腕取ってガードしてくるから、悟られないように近づかないといけない。
(だったら、この体勢ってちょうどいいかも)
酔っ払って寝たふりをしてれば流生が戻ってきた時、私の近くに様子を見にくるはず。そしたら、そのまま首筋をかぷっと……ふっふっふっ、覚悟するがいい!
完璧な脳内シミュレーションに勝利の笑みをこぼしていたら、近づいて来るターゲットの足音が聞こえてきて、私はあらためてぎゅっと目を閉じる。
「ごめんね、美咲ちゃん。お待たせ……って、大丈夫?」
衣擦れの音がして流生が私の右隣に座ったのを感じる。でも、触れるほど近くはない。
(だめだ、まだ、引きつけなきゃ。)
私は酔った演技を続ける。これまで数々の飲み会で見てきた酔っぱらった人の動き、今こそ再現する時!!
「う……ん。ちょっと、酔っちゃったかも」
「ありゃー。お水飲んで今日はもう帰りかな」
「やだ。もっと一緒にいたい〜〜」
コテンと、頭を流生の肩に寄せ、手探りで流生の腕に絡みつく。普段は絶対に出さない甘い声も、この後のつけ麺のためなら恥ずかしさに耐えられる。吸血すれば記憶も飛ぶし、問題はない!!
さあ、もっと、もっと引きつけないと!!
覚悟を決めた私は不満げに唇を尖らせて頭を流生に当てこする。
「流生がどっか言っちゃって一人で寂しかったのぉ」
んなわけあるかっ!
思わずセルフ突っ込みをしながらもなんとか演じ切れば、流生の体が私の方に向いた。
軟体動物のように脱力した私を支えるために背中に手が周り、顔にかかった髪の毛を指が優しく払う。
よし、いいぞ、いいぞ!私は流生の首筋に狙いを定めるために薄く目を開いた。
「そっか、寂しかったかあ。でもそんなに俺のこと好きになってくれたんだね」
流生の声が上から降ってくる。
私はサンダルウッドの香りを吸い込んで、一気にその首元にーー
ーーん?サンダルウッド……?
嗅ぎ慣れた優しい香り。
流生はこんな香水だったっけ。目の前の首はシャツでしっかり覆われていて……ちょっと待て、この服見たことあるぞ?
「そんなに好きになってくれたなら今度来たとき本指名してみる?そしたらもっと長く一緒にいられるしね」
ソファとテーブルの間に立って、前屈みになりながら流生が余裕たっぷりに、そう言った。
……なんで、流生がそっちにいるの?
なんで、立ってるの!!!???へ!?
な、なら……今私の隣に座ってるのは
私は恐る恐る右上を振り向く。
「ーーお目覚めですか?美咲さん」
そこにはショウが呆れたような目で私を見下ろしていた。
「えっ!?えええええ、ショウ!?」
私は驚きに目を見開く。
そして、今しがた自分が発した言葉を思い出して青くなる。
「ち、ちがっ!これは……その……誤解っ!」
とんでもないところを見られた私は慌てて身を引こうとするが、ショウの腕はしっかり背中に回っている。なんで!!
「何が違うんですか?俺がいたら都合悪いですか?」
(都合悪いに決まってるだろおおおお!!!)
ショウが冷ややかな目で静かに問いかける。
いつもの軽い口調でなく落ち着いた口調なのが、余計に私を追い詰める。
(……くっ、これはやられた!!嵌められた!!!)
いないはずのショウがここにいて、流生は面白そうにニヤついている。こんなのどう考えても流生が仕組んだに違いない。
……無理無理無理、こんなの無理!!あああぁぁ恥ずかしさと屈辱で死にそう!!
自分の甘ったるい声を思い出して羞恥心が加速する。
(そんでもって、この視線が痛い!!)
ショウの冷ややかな目が私を突き刺す。
その視線に耐えかね、私はショウの腕を振り切って立ち上がる。
「違うから、忘れて!全部忘れて!この人が悪い!!」
私は親指で流生を指し示し、流生をキッと睨みつけたけど、流生はそんな反応も面白がっているようで、とても腹が立つ。
「ね、美咲ちゃん。今更俺らの関係を取り繕っても無理だよ。もう素直になろう。俺は美咲ちゃんと一緒にいるの楽しいよ?」
ないわ、そんなもん!!
さっきと変わらない嘘つきの瞳でよくそんなことが言えたもんだ!
呆れてものが言えない私を放って流生はさらに続ける。
「正直に教えて?俺とショウ、どっちが好きなのーー?」
その言葉に私は固まった。
(……すき?……私が……??)
その言葉が頭の中で二、三回飛び跳ね、カチッとスイッチを押した。
「ふっ…ふっ……」
思わず湧き上がる笑いと共に、私はゆっくりと流生の肩に手をかけた。
流生は満足げにその手を受け入れる。
「あ、やばい、流生さん逃げてっ!」
「え?」
ショウの言葉に流生が一瞬身を固くしたが、もう遅い。
ガブっ!
ショウが止める間もなく、流生の首筋にかぶりついた。
「ちょっ、美咲さん、ストップストップ!!」
ショウが私を引き剥がそうとするが、絶対に離すもんか!私は両足に力を込めて踏ん張った。
(……こいつは貧血になるまで吸ってやる!!!ガトーショコラとこの羞恥の恨み、その血で償うがいい!!)
吸ってすぐにふらついた流生をソファに沈めたあとも、私はその魚介豚骨つけ麺味の血をたっぷり堪能した。
そして『やっちゃったよ』と頭を抱えるショウの隣で、満足げに息をつく。
「ふー、すっきりした!」
◆
「…ねぇ、これしなきゃダメ?」
「当たり前でしょ!美咲さんがやったんだから責任持ってよね!!」
貧血で気を失ってる流生をショウと二人で挟んであたかも起きてるように見せる作戦。
……意味あるかな、これ。
ぎゅっと抑えてそれっぽくさせないといけないので結構疲れるから、もう放っておこうよと言ってみたらショウに怒られた。
「流生さんが気絶してるなんてバレたら、お店大騒ぎになるんだからね?最悪救急車だよ!?」
「大丈夫、すぐ目覚ますって。ショウもそうだったでしょ?まあ、確かにちょ〜〜っとやり過ぎたかもしれないけど…」
へへっと、誤魔化し笑いをする私のを見てショウが諦めたようにため息をついた。
「ねえ、……美咲さん、いつもあんなことしてるの?」
あんなことーー。
バカみたいな酔ったふりの事だ。
私は勢いよく頭を振る。
「いやいやいや!あれは……えっと……冗談!そう、おふざけ!!」
「ふぅん。いつもああやっていろんなホストの血飲みまくってるのかと思った」
「まさか!」
いろんなホストの血を飲んでることは間違いじゃないけどね、言わなくていいことは黙ってるに限る。私は口をつぐんだ。
「流生さんとはさ、いつの間に知り合ってたの?」
「チョコ、買いに行ったときだけど……あ、でも会ったのは偶々だからね!?偶然ってやつ!」
(……ってなんで私こんなに必死に言い訳してるんだろ)
自分で言っておいて疑問に思った私は首を傾げる。この湧き上がる罪悪感はやり過ぎちゃったから……?いや、違うな。なんだかショウの言い方が問い詰められてるみたいでーー……
ちらっとショウを盗み見れば、ショウは私の持ってきたチョコの紙袋を眺めていた。
私の視線に気がついたショウは、寂しげに笑う。
「大丈夫だって、ねだったりしないから。そりゃちょっと期待したけど。あれ、美咲さん用のチョコでしょ?」
「……そう、母に頼まれて」
「まっそうだよねー」
ショウが今度はからっと笑う。
「期待、したの?」
「一応ね。バレンタインシーズンだし」
ジュノの言葉を思い出す。
チョコの数=ホストの人気。
売れてないというショウにとってはひとつでも意味があるんじゃないだろうか。
私はちょっと考えて紙袋を手繰り寄せた。
「これ、あげる」
チョコの紙袋を差し出せばショウは驚いた顔をした。
「え?いやいやいや、お母さんのなんでしょ!?俺別に強請ってるわけじゃー」
「違う違う、中身は別のやつ!母のはさすがにあげられないから」
私は紙袋から抜き取った母に頼まれた限定チョコを取り上げて見せた。
ショウが、きょとんとして手渡した袋の中を覗き込む。
「このチョコ買った時に、新作の宣伝がやっててさ。その、色々迷惑かけちゃったし……大したものじゃないけど、良かったら」
渡したのはロリポップのような棒付きチョコレートだ。アニマル形のチョコはそのまま食べてもいいし、ミルクに溶かしてホットチョコレートにもできる。
袋の中から取り出したそれをショウがじっと見つめる。
「……これ、全部この形なの?」
「うん?いや、ウサギとか猫とかもあったよ」
「なんでこれにしたの?」
「え?……だって、ウサギや猫より美味しそうじゃない?」
私の答えにショウがぷっと吹き出す。
「そりゃ、鳥だからね!美咲さんてほんと、食べるの好きだよね」
そう言ってショウが鳥の形のチョコレートをくるくる回した。
……ぐっ、いや、そりゃ可愛げなんてない理由だけど!!でも、ウサギとか猫とか犬より鳥の方が食べ物には適してるじゃん!?
それに、ほかにも理由はちゃんとある。
「でもやっぱショウって言ったら鳥だし、甘いものそんな好きじゃないから小さい方がいいかな、とかって、一応そういうことも考えたんですけど?」
「……俺、甘いの苦手って言ったっけ?」
「え、だっていつも無糖しか飲まないじゃん」
「……」
あと、こないだサロン・デュ・ショコラで見かけたとき、お客さんにそう言って小さいチョコのボックスにしてくれるようにお願いしてたし。
余ったら私が喜んで貰うのになー、なんて思ったのを覚えてる。
そんなことを考えて選んだというのに、ショウはあんまりピンときていないようだ。
「えっ……まって、じゃあ、これ、美咲さん用のチョコじゃないの?」
「いや、だからショウ用に選んだんだって」
どうやら全く話を聞いていなかったらしい。
まあでも私も本当に渡す気はなかった。ホストクラブのバレンタインイベントがどんなものか分からなかったから、手ぶらでくるよりは良いかな?って思っただけだ。
それにーー。
「私用だったら絶対にあげてない」
「確かに」
ショウが納得したように深く頷く。
そして、急に嬉しそうに頬を緩めた。
「そっか……じゃあこれ本当に俺のために選んでくれたんだ」
ショウはチョコを目の高さに上げてまじまじと見ながらそう言った。
(……そういう言い方されると、ちょっと…)
私はさっと顔を背ける。
こんな顔、ショウに見られたらなんて言われるか分かったもんじゃない。
「……ぅん。……あれ、なんで…」
「あ、流生さん起きた。もー、だから言ったじゃないですか、流生さん絶対貧血気味だって。ほら、次コールあるんで行きますよー」
意識が戻った流生をショウが引き上げる。
想定通り流生は何も覚えていないようで、混乱した顔をしながらも、コールと言う言葉に反応してブースを出て行こうとした。
「あー、待って待って。俺が連れてきますから!……じゃあ美咲さん、送れなくて申し訳ないけど」
「あ、うん。大丈夫。てか、よろしく」
ふらつく流生が思ったより危なっかしくて思わず伸ばしてた手を、私はそのまま左右に振った。
軽く挨拶をしたつもりだったけれど、ショウがその手を片手で優しく掴んだ。
指先に、ほんのりと温かいショウの唇が触れる。
「チョコ、ありがとう。すっげー嬉しい」
にっと笑ったショウはすぐにその手を離して去っていく。
残された私は、口づけされた自分の指先をじっと見つめた。
(……あれ、今のって…………!?)
じんわり上がる体温は、きっとガトーショコラに入ってたブランデーのせいだ。
なんだかんだでホストとして成長してるショウの行動に驚きながら、私は指先に残る熱を誤魔化すように手近なグラスを煽った。
◆◆
「あれ、お前来週からじゃなかったっけ」
バックヤードの控え室で、オーナーの拓実は久しぶりに見るシオンの姿を捉えた。
シオンは店内カメラの映像を興味深そうに眺めている。
「そうですよ。だからちょっと様子見に。流生頑張ってますね」
「今日はラスソンだろうな。まあ、お前が戻ればそんな日はもう無くなるだろうけど」
Club GOURMET のNo.1であるシオンは、拓実の言葉に薄く笑った。
「さあ、分かりませんよ。彼女次第ですからーー」
シオンが、店内の様子を映るモニターのひと枠を指差す。
拓実はそこに映っている人物を見て、舌打ちした。
「お前、戻ってきたらまずは弟の教育しろよ。伊東美咲を引っ張れっつてんのに、あいつ俺はやりませんって言いやがった」
「ははっ。ショウらしい」
「笑い事じゃねえんだよ」
拓実の声が低くなる。
「これが取れなきゃ、うちは終わりだ。お前が一時的に抜けただけでも俺がどんだけ苦労してると思ってる」
拓実の不満をシオンは宥める。
「大丈夫ですよ。ーーあと少しですから」
シオンはモニターに向き直る。
そこには美咲が一人で指先を眺めている映像が映し出されていた。
「彼女もそろそろ、自分の“好み”に気づく頃です」
シオンは目を細めて、ゆっくりとモニターを撫でた。拓実は腕組みをして、苛立たしげにため息をついた。
「……尻拭いはお前がしろよ」
「分かってます」
シオンは静かに応じた。ただ、その視線がモニターから逸れることはなかった。