見知らぬ草原で腰を抜かして、しゃべる黒猫と出会った
奈々(45才)とモモをよろしくお願いします。
町田奈々(45歳)は、自宅の自室をアトリエにして細々とアクセサリーを制作する作家だった。
奈々はその日、人気店『高倉の森珈琲』の駐車場前で左折のウインカーを出して待っていた。
『期間限定!キャラメルバタークリームケーキ』を食べるためだ。
バタークリームには、カルピスバターを使っているらしい。
奈々の住んでいる街は、大きくも小さくもなく、新幹線の停まるターミナル駅があるのに車がないと生活できない地方都市だ。
だから『高倉の森珈琲』の駐車場はとっても広かったけど、平日の午前中なのにカップルやおしゃれマダムの車でいっぱいだった。
奈々は、そこにソロで挑む。
連れが欲しくて妹を誘ったけれど「40歳を過ぎたあたりから、こってりした味全般が苦手になった。あそこは駐車場渋滞あるから行きたくない」とあっさり断られたからだ。
先週、焼肉食べ放題に誘った時には「やっぱり焼肉はカルビだよね」とモリモリ食べていたのに解せない。やはりカップルとおしゃれマダムで溢れる店内と駐車場がネックか。
などと考えていたら、1台の車が件の駐車場から出てきた。
「やっとか!」と奈々が大きめの独り言とともに車をゆっくりと動かし始めた時、突然眩い光が前方から迫ってきた。
どんどん目の前で大きくなっていくその光が、奈々の体を ビュン と通り抜けた瞬間、それは起こった。
奈々は、見知らぬ草原に座っていた。
「えっ?」
草の青い匂いがする。
しゃがみ込む奈々の頬を、そよそよとやさしい良い風が撫でていく。
そこは気持ちのいい草原だった。
5分ほど、呆然と周囲を見回す。はるか遠くに風車のようなものが見える。
「えっ?」
思わず立ち上がろうと焦ったが、奈々は立てなかった。
脚に力が入らない。これは腰が抜けているのかも。
45年間生きてきて、驚いて腰を抜かすのは初体験だな。対処法がわからないな。などと、奈々は呑気に考えを巡らせる。
人間、驚きすぎるとパニックになる余裕すらないんだなと思いながら、回らない頭で自分の置かれている状況を判断する。
「高倉の森珈琲がなくなった・・・キャラメルバタークリームケーキ・・・・」
奈々がポソリとつぶやく。
「それは美味しい?」
突然後ろから声がかかったので、思わず振り向く。
そこには、小さな黒猫がちょこんと座っていた。
「えっ?」
「にゃ?」
見つめ合う、一人と一匹。
奈々は、”猫がしゃべる”という現象には、当然だけど驚いた。
そりゃあもう驚いたけれども、人間はより大きな問題に直面していると、些末な問題は後回しになる。
というか、奈々はむしろこの場が自分一人ではなく、黒猫が居てよかったと実は思っていた。
猫がしゃべってる奇妙さはさておき、人語を解するものがいると会話ができるので、それだけで少し落ち着く。
奈々は、まず『高倉の森珈琲』が突然消えたと判断して周囲を見渡した。
結論から言うと、なくなったのは『高倉の森珈琲』だけではなかった。
あったはずの道路も、周囲の建物も、奈々の車もなくなっていた。
周囲の景色が一変したのに、すぐさま違う場所に来たと考えなかったのは、現実から目をそらしたいがための一種の現実逃避だったのかもしれない。
「どうしよう、車のローン終わってないのになくなっちゃった」
「くるま?」
「うん、自動車」
「じど・・?」
黒猫はしばし考え「アレはお姉さんの?」と前足で後方を指し示した。
「・・!そう、私の」
そこには、車の後部座駅に置いていた仕事道具と材料の入ったキャリーバッグが、春物のコートと一緒に落ちていた。
他に何かないかとよく見ると、ドリンクホルダーに刺さっていた未開封のミネラルウォーターが小脇に転がっていた。
斜め掛けしていたサコッシュには、お財布と運転免許証とスマホくらいしか入っていないはずだ。
消えてない荷物はこれだけか・・・と、しばし落ち込んだが、「あってよかったね」という黒猫の言葉で、何もないよりは良かったのかもしれないと思うことにした。
「あ、スマホ!」
奈々は、スマホを取りだし、暗転をオンにして指紋認証を解いた。時間は11時32分。
一瞬期待したが、当然のように圏外だった。心の中に、絶望感がじわじわと広がってくる。
どうしよう、どうしよう。連絡が取れない。ここが何処かもわからない。
不安からじわりと涙がにじんでくる。
「だいじょうぶ?」黒猫が隣に座り、前足を奈々の膝にポフっとのせる。
奈々は、小さく「だいじょばない」と答えて、両手で顔を覆って俯いた。
20分くらいそうしていただろうか。
「あー!もう!・・・喉乾いた」
奈々は、顔を覆っていた手を離すと、ゆるゆると顔を上げて、ペットボトルを開けて水を一口飲んだ。
「さて!どうしたもんかね」
心配そうに寄り添っていた黒猫に顔を向けて聞いてみる。
「黒猫さん、ここが何処だかわかる?」
何か少しでも、この場所を特定する情報を得たい。
「草原だよ」
「どこの草原?」
「森の入り口にある草原だよ」
「なんていう森の入り口なの?」
「草原から入れる森だよ」
「・・・・」
うん、さすが猫。固有名詞が全く出てこない。
一人と一匹は、しばし見つめ合う。
奈々は、気を取り直して、人が居そうな場所がないか聞いてみた。
「えっと、町や家は近くにある?」
「あるよ」
黒猫さんがそう答えた瞬間、スマホにピコンとメッセージが入ってきた。
地球での町田奈々は、45歳(独身)自宅の自室をアトリエにして細々とアクセサリーを制作する作家です。奈々が地球に戻るのをなぜ早々にあきらめたのか、仕事用キャリーバッグをなぜ持っていたかなど、小さい謎は物語の中で、少しずつ明らかになります。




