003 黄金草はみメルシー亭
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黄金草はみメルシー亭。
特に珍しいこともない、1階が飲み食いできる酒場兼食堂、2階に部屋というオーソドックスな旅籠だった。
老齢な店主が経営しており、オクルスが数日分の宿泊費をまとめて払うと上機嫌でもてなしてくれる。
酒場には数える程度の冒険者が少し遅めの昼食を取っていた。これからの任務について話し合いも兼ねてる様で、酒を飲んでいるものは居ない。
オクルスが入ってくると一瞬だけ剣呑にこちらを見たが、特になにかあるわけでもなく、すぐに興味をなくしたように視線を仲間にと戻す。
誰も座っていない端席に座ると、オクルスは“人間の双眼”を閉じた。
それでも彼の視える景色は何ひとつ変わらない。周囲360度を余すことなく知覚できる。“開いている眼”は単なる擬態だった。正直、他の眼はそこまで開かずとも視えるのだ。
「この国には、商いをしに来なさったのかい?」
店主が飲み物の入ったジョッキを置いて尋ねてくる。
オクルスは眼を閉じたまま周囲をもう少し観察したかったところだが、口の端を少し吊り上げてゆっくりと双眼を開いた。
「見たところ、ガットランドの人間じゃないね」
「ええ。アウト・ルベドのセルヴァンから来ました」
「中央の城塞都市? こりゃ驚いた。また遠方からこんな田舎に来なさったねぇ。…まさかと思うが、一人旅かね?」
まるで咎めるような口振りに、オクルスは少し違和感を覚える。
「この辺では行商は珍しいのですか?」
「え? ああ、いや、そういう意味じゃないよ。ただ護衛もないのはあまりないと思ってね…」
店主は少し言いづらそうにレンジャーたちを見やった。暗に治安が悪いことを示しているのだとオクルスは察する。
「必要なら現地で雇えばいいと考えていました。まだ売買契約だけなので、価値のあるものは持っていませんしね」
雑についた嘘だったが、店主は信じたようで頷く。
「まあ、夜出歩かなきゃまず大丈夫さ。ガラの悪い連中は来るがね。目を合わさんようにしていれば問題はないさ」
「ご忠告感謝します」
「……それと、悪いことは言わんから、あまり長居しない方がいい。宿代前払いでもらっといてなんだけどな」
できるだけ声を抑えて、店主は言う。
「それはどういうことでしょう?」
店主は周囲を警戒するように見てから続ける。
「…コディアック様。サルダンの領主様なんだが。ほんの3日前に病没されてね。それからなにやらこの町だけじゃねぇ。国全体がキナ臭いんだ」
「ルデアマー家ですか?」
店主は少し驚いた顔をして頷く。
「……ああ。この村にはベイリッドっていう、ルデアマーの次男坊がデカい顔して住んでいるんだが、まあこれがコディアック様の血が少しでも受け継がれてるのかって疑いたくなる様な人物でね。とても褒められた奴じゃない」
「なるほど。サルダン国に変化が起き始めていて、このペルシェ町もそれに巻き込まれている…と」
「巻き込まれてるというか、その中心かも知れないがな。長男が首都ディバーに住んでる。兄弟仲は最悪だ。そこまで言えばわかるだろう?」
「言われた通り、私が来た日が悪かったということですね」
「なんだって?」
「先程、ルデアマー家の屋敷でそう言われたものですから」
「……アンタ」
店主の顔色がみるみる青ざめていく。
「……今の話は」
「ご安心下さい。私の胸の内に秘めておきましょう」
「……あ、ああ。頼むよ。そいつはワシからの奢りだ」
ジョッキとつまみを指して、店主はそそくさとカウンターへ戻って行く。
机の上に置かれたエールとイロ豆を炒った物を見て、オクルスは少し迷う。
(液体は微弱な毒素…解毒する必要まではない。植物は強酸で溶かしてしまえばいい)
栄養(活動エネルギー)となるわけでもないのに、不純物を胎内に入れる事をオクルスは厭う。
「人間はなんでこんなものを嬉々として受け入れるのだか…」
無意識のうちに、“毒性に強い耐性のある者”が口腔部へ移動する。
口に含んで飲む真似はするが、それは食道や胃を通るわけではなく、“口腔部そのもの”が、そのアルコール分の混じった液体を処理する。
同じ様に、イロ豆も咀嚼する真似をし、“強い溶解液を持つ者”がすべて溶かしきってしまう。
食事をしていたレンジャーのひとりが、オクルスがエールを飲み干すのを羨ましそうに見て、ゴクリと喉を鳴らした。
“美味そうに演じねば…”とは思うものの、“オクルス自身”は食欲というものを基本的に覚えない。人間を捕食する時でさえ、それは“仲間”が欲するから応じているに過ぎない。
「昼間から、いい御身分だよな…」
ボソリと悪態をつかれたのに、オクルスは失笑する。
(摂取せねば怪しまれ、摂取すればしたでよい印象を与えぬとは…難儀なものだ)
ちょうど飲み終える頃を見計らって、なにやら動く気配があることにオクルスはすでに気付いていた。
さっきから店主が話しかけてくる時に、不快そうにチラチラとこちらを観察している者が居たのである。
だからこそ、オクルスは店主との話をさっさと終わらせるために、あえて言う必要もなかったルデアマー家でのやり取りの話を出したのである。
(目立ちたくないのはお互い様、か)
エールが空になるまで待っていたのは、それを羨ましそうに見ていたレンジャーがいたからだ。飲み干してしまうと、彼は途端に興味を失った様だった。貰えるわけでもないのにずっと見ていたのは、彼がそれだけ酒好きの呑兵衛だからなのだろう。
「……オタクがオクルスで間違いないよな?」
「ええ」
頭巾をすっぽり被った、いかにも怪しげな中年が話しかけて来た。緊張しているのか声がやけに固い。
「オクルス…下はなんだ?」
周囲を警戒しながら尋ねる。
「オクルス・マーチャントとでもお呼び下さい」
「あ? 商売人だと? …ふざけるなよ。明らかに偽名じゃないか」
「“危険な物”を扱っておりますもので、用心が必要なのです」
それで得心がいったのか、男はコホンと咳払いして頷く。
「……それで、アンタが“魔物”を売るというのは本当か?」
一層のこと声を潜めて、男は鋭い眼つきで聞く。
「素性の知れぬ相手に尋ねることでしょうか?」
「ベイリッド様の遣いだ。それ以外のなんだと思う?」
オクルスは肩を竦めた。
「いまは確認だけだ。“陛下”は今は町にいらっしゃらん」
「……“殿下”でなく?」
「そうだ。これからは“陛下”だ」
「……なるほど。では、私には“陛下”がお帰りになるまで滞在しろと?」
「なにも無料でとは言わん」
重そうな小袋を、ジョッキの横に置く。
「明晩には兵団長が戻られる。商談はそれからだ」
オクルスはあまり興味なさそうに小袋を見やって頷く。
「いいか。ちゃんと伝えたぞ」
男は念を押すように言ってから立ち去った。