108 天帝竜の諦観
(およそ4,300文字)
そこは宇宙にも似た空間。上下左右の区別なく、ただ膨大なる魔力で形成された領域だ。
光と重量による不可避の魔法攻撃を受け、ベイリッドは瀕死にまで追い詰められていた。
「限られた命、限られた力……ゆえに無駄に消耗したくはないのですよ。人間種」
暗闇の中、金色に輝く竜がそう呟く。
その姿は多くの人が抱く巨躯なドラゴンとは違っていた。その顔は鷲のようで、身体は細長い蛇、無数の光る翼を体節ごとに持ち、螺旋を描きながら滞空していた。
「命までは取りません。お帰りなさい」
この“竜縛領域”を使い、一騎打ちに引き込んだのは、一番強い者を完膚なきまでに叩きのめすことで、戦意を削ぎ、“無駄な挑戦者”を減らすためだ。
「そして、二度と私を煩わせないでください。仲間にもそうお伝えなさい」
金色の竜……天帝竜ラ・スー・スーがそう言うと、ベイリッドは喉の奥で笑った。
「……ここまで来られた。私はもう満足だ」
ベイリッドがそう言うのに、ラ・スー・スーは螺旋の向きを反対に変えて回り出す。
「さあ、殺してくれ。私は天帝竜と戦って敗れた。レンジャーとしてこれ以上の誉れはないだろう。ヴァルディガもシャルレドも……赦してくれる」
「なんとも奇妙な話です。まるで自害するために、わざわざ私の元へ来たように聞こえますね」
「ああ。私は生きてるように見えて、もはや生きてはいない……。もう人生に未練などないんだ。仲間たちにも進むべき道を見せることができただろう。私の果たすべき責任は果たした」
「責任は果たしたですって? それはなんとも気楽で無責任で羨ましい限りです」
「なに?」
両手両足はすでに折れて動かなくなっていたので、ベイリッドは首だけ伸ばして顔を上げる。
「私はこの世界に対して責任を負っています。“神々が見棄てた地”……その平定には未だ遠い」
「平定……? 何を言っている?」
「若人よ。知らぬのも無理からぬこと。この世界に悪意が生じる前に、その芽を私が摘んで来たのですから」
ベイリッドは困惑の表情を浮かべる。
「それは……つまり、世界を……人類を守っていると言ってるのか?」
「なんとも人間種らしい浅慮なモノの見方ですね。人間種を守ったつもりはありません。私は神々に代わり、秩序を守るという己が役割を果たしているのです」
ラ・スー・スーは、ベイリッドたちが生まれる以前から、この世界に蔓延る魔物たちと戦いを繰り広げており、“魔王”という存在が生まれることを防いできたのだと説明する。
「……なぜ世界を守る? それが正義だからか?」
「あなたがたは何につけても理由を欲しがりますね。では、逆に問いますが、あなたはなぜ“古き竜”を殺しに来たのですか? 人目につかぬように、他種族との関わりを絶ち、この何人たりとも立ち入らぬイロコニア峻厳に身を潜めていた私を殺す理由はなんなのですか?」
ベイリッドが答えに窮していると、ラ・スー・スーはわずかに笑っているように見えた。
「知っていますよ。“名誉”のためでしょう。しかし、あなたは“名誉”を欲してるわけではないと私は気づきました」
ラ・スー・スーが魔法を使うと、ベイリッドの受けた傷が瞬時にして治る。
「“ヴァルディガ”と“シャルレド”のために帰りなさい。“殺すべき竜”ならば他にもいます」
そう言うと、ラ・スー・スーは目を閉じる。ベイリッドの後ろから光が漏れ、それは聞かずとも外界に通じる道なのだと理解できた。
「……なぜだ?」
「……なにがでしょう?」
「これだけの実力差があれば、私と戦わない選択もできたはずだろう?」
ベイリッドが言う通り、彼は文字通り手も足も出ない状態だった。
戦いを拒否しようと思えば、ラ・スー・スーは自身の空間に隠れてしまえばいいし、またはその逆にベイリッドだけでなく、ここに来た全員を一瞬で皆殺しにすることも容易だと思われた。
「……“諦観”です」
「なに?」
「……あなたの目には“絶望”しかなかった。私の命を狙って来る者は、だいたい“欲望”や“戦意”に染まっているもの。あなたにはそれが無かった。だから、ほんの少し興味を覚えたのです」
ベイリッドは唇を噛み締める。
「かといって、私は“自殺”に協力する気はありません。私が評価したのは、“死を恐れない諦観”です」
話すのも億劫だとばかりに、ラ・スー・スーはしばらく黙る。
それはベイリッドにも、「この面倒な人間を無難に追い返す決定的な言葉はなんだろうか?」と考えているように見えた。
「……そうですね。あなたは人間の中では強い方なのでしょう?」
「強い……か」
何も出来ずに負けたベイリッドは、思わず苦笑いする。
「人間たちの中で、“私を倒した”と言っても構いませんよ」
「なんだと? どういうことだ?」
「証拠が必要ならば、鱗の1枚でも差し上げましょうか」
「な…ッ!」
憐れまれたのだと知り、ベイリッドはなぜか強い悔しさを覚えた。
「先ほど……“限られた命、限られた力”と言っていたが、それはどういう意味だ?」
「……そのままの意味です。竜には寿命はありません。しかし、力を使い果たせば“死”を迎える。いずれは復活しますが、それに100年かかるか、1,000年かかるのかは不明ですけどもね」
眠りを妨げてほしくないという態度で、それでもラ・スー・スーは続ける。
「最も悪しき魔竜は倒しました。ですが、まだ何匹かの敵対している強力な竜が存在します。その1匹、1匹が……放っておけば、世界を滅ぼすだけの力を持っています」
「? まさか、それらを倒すつもりなのか?」
「……ええ。これでわかったでしょう? 私が無駄に消耗したくない理由がね。
さあ、もうお行きなさい。人間。私は私のやるべきことが、あなたにはあなたのやるべきことがあるはずです」
「……私はベイリッド。ベイリッド・ルデアマーだ」
「…………覚える気はありませんよ。ベイリッド・ルデアマー。死を恐れぬ諦観者よ。さようなら」
「それでも構わない。その……私に、なにか、出来ることはないだろうか?」
──
天帝竜ラ・スー・スーもただ状況を静観していたわけではない。
ベイリッドが“主”となっている時はサポート役に徹するしかないが、それでも魔法による防御などは全力で行っていた。
──ベイリッド。ここであなたを失うわけにはいかないのですよ──
ただの無力な人間。それに力を貸す気になったのは、ベイリッドが自分を捨て、天帝竜の手足になることを自分から申し出たからだ。
ラ・スー・スーの“竜の体”はだいぶガタが来ており、自身の魔力を使い“精神体”として存在する他なく、そのため移動に関しては色々と制約が掛かっていた。
“人間の身体を依り代”として自由に移動できるのは願ってもないことだったが、大体の場合は人間の身体は巨大な力に堪え切れず、堪え切れたとしても、人間側の精神は飲み込まれてしまうことが殆どだった。
そのリスクも承知で同化したが、最初のうち、ラ・スー・スーもそれが上手くいくとは期待していなかった。
だが、予想に反し、ベイリッドの肉体は巨大な力に堪えられただけでなく、その精神もラ・スー・スーに呑み込まれたり、消え去ってしまうこともなく、絶妙なバランスで同じ身体に同居を可能としたのだ。
ラ・スー・スーは人間を“自分の事しか考えないエゴの塊”と思っていたが、共に行動するうちに、彼自身がいかに清廉で高潔な魂を持っているかを理解する。
彼は私心を捨て、天帝竜の役割を果たし、その働きは冒険者ギルドだけでなく、あの空中城塞エアプレイスも認めることになる。
“世界最強の強さ”、“ドラゴンスレイヤー”、“ブラックランク”、“最高峰の英雄”……そんな肩書を持ってしても、ベイリッドはそれを鼻に掛けたり、また傲り高ぶることもなく、ただ平和と秩序のために身を捧げた。
このサルダン継承戦争に置いてもそうだ。
ベイリッドは、ハイドランドを出し抜いて、領主になろうなどとは少しも考えていない。ハイドランドが民を犠牲にして私腹を肥やそうとしないのであれば、この愚かな戦いに参入する気はなかったのだ。
ただ民たちの安寧を、“自分が愛した者たちの国”を守ろうとした男のささやかな願い……そういうわけだったからこそ、天帝竜ラ・スー・スーも今回はベイリッドに力を貸したのである。
心に深い傷を負っていたこと以外は、彼は天帝竜という超常の存在から見ても敬意を払うに値し、またそれ故にベイリッドの意思を尊重し、戦闘として必要とされない以外ではラ・スー・スーも無理に表層人格に現れることはない。
しかし、今のベイリッドは“娘”の登場で酷く動揺しているのがわかる。
今回の件でよくなかったことは、上位悪魔や、エルフの連れてきたネグレイン、イゼリアやヴァルディガすらも、天帝竜からすれば“敵とも思えない存在”だったということだろう。
これはラ・スー・スーの傲りというより、人間からすれば羽虫相手に全力で戦うことがないように、それらを“脅威”と認識できなかったのである。
これが一変したのは、ヴァルディガの黒剣を叩き折り、彼が魔法攻撃に切り替えようとしたタイミングだった。
ベイリッドとヴァルディガの間を横断するかのように、上空から剣が物凄い勢いで降ってきた。
──!──
鍔と柄の部分がやや長いだけの、特に目立った特徴のある剣ではない。しかし、ラ・スー・スーにはその剣に見覚えがあった。
──魔剣アンチマジック!?──
一瞬だけ驚いた顔を浮かべたヴァルディガが、その剣を掴んだことで、ラ・スー・スーはベイリッドから“主導権”を奪い、全力で魔力を展開する。
「“これ”が言っていたヤツか!」
ヴァルディガは魔剣アンチマジックを掲げると、鍔の中心が左右に開き、隠れていた赤い魔石が輝く!
──魔力が消える?──
魔剣アンチマジックは周囲の魔力を強制的に解除し始め、それは天帝竜の作った防御壁もだった。
それだけでなく、半人半竜化も強制的に解除された。
ヴァルディガは勝機を感じ取り、獰猛な笑みを浮かべ、「目覚めろ、ベイリッドォッ!」と叫びながら、サニードの喉元を目掛けて剣を──




