知らない同室おじさんとの夢みたいな一夜
当たった。
以前に応募していた懸賞にわたしは当選した。
巨大遊興施設に二泊三日遊び放題、8名様。
少ない荷物を肩にかけて、休暇を貰って出かけていった。
正直そんなに楽しい気分ではなく、緊張のほうが勝っていた。
知らない人と同室なのだ。
人見知りする自分にはストレスが大きかった。
最近完成したばかりの巨大遊興施設。名前はよく見てなかった。
ドーム球場にも似たそののっぺりとした外周に沿って歩いていると、大きなエントランスがちょこんとついていた。
当選チケットを受付で出すと、真新しいスーツを着たフレッシュなおじさんに聞かれた。
「お一人様ですね?」
当たり前だ。応募資格は『一人』だからな。
そして懸賞当選の言い訳がなければ、こんなところに三十代独身女が一人で来れるものか。恥ずかしい。
宿泊する部屋に案内されると、一人だった。
同室の人はまだ来ていない。どんな人なのだろうか。
ちょっと病室みたいなイメージの部屋だった。清潔な白とライトグリーンで統一された、テレビと小さなテーブル以外には何もない部屋だ。
部屋の左右に離れてシンプルなシングルベッドが一つずつあった。一つだけの手荷物をベッド脇に置くと、わたしはすることを見失った。
何しにここへ来たんだろう。
わたし、なんであの懸賞に応募したんだっけ。
まさか当たるとは思っていなかったので、あまり興味もなく、ここに来たら絶対あれをしようみたいなことも思い描いてなかった。
テーブルの上にあった分厚い館内案内を手に取り、パラパラとめくる。
施設内には色々と遊べるものがあるようだ。
カラオケ、ゲームセンター、ボウリング、スポーツジム、すべてが当選者のわたしには無料で利用できる。
しかし一人でやるにはどれもあまり気が向かず、どちらかというとここで一日中寝ていたほうが楽しいような気がする。
わたしは緩い動作で、さらにページをめくった。
温泉……ああ、これはいいな。これには後で行ってみよう。
ボルダリング……へえ、やってみたかったな、これ。でも疲れそうだからやめておこう。
バッティングセンター……
バッティングセンター……!
むくむくとボールを打ちまくりたい欲求がわたしのお尻をベッドから浮かせようとしていたその時、ドアがノックされた。
「あはい!」
わたしがそう言うと同時に、ドアの鍵が外からカチャリと開き、その人が入って来た。
とても背が高いのに、とても威圧感のない、とても無害そうな、50歳ぐらいの、頭の薄いおじさんだった。
「あこんにちは」
彼が緊張のこもった綺麗なテノールでそう言って、ぺこりと頭を下げたので、
「あどうも」
わたしもぺこりと返した。
そのことは知っていたので意外ではなかった。
新しくオープンした遊興施設で王様・お姫様気分を味わえるツアー二泊三日、8名様ご招待!
応募資格はお一人様のみペア禁止。
宿泊は二人部屋。知らない異性の方とペアになります。
恋愛自由。つまりするもしないも自由。
一切会話はせずに部屋で寝る寝ないも自由。
ベッドはかなり離して設置してあります。
どういう趣向のツアーなのかもよく考えもせずに、そもそも当選するなんて思わずに応募したので、わたしを包んでいるのはまるで手ぶらで砂漠にでもやって来たような茫漠感だった。
同室のおじさんとはとりあえず話をしなかった。
彼が館内案内をめくる静かな音を聞きながら、ベッドに足を伸ばしてスマートフォンで小説投稿サイトを読んでいた。
おじさんが小さく声を上げた。
「あ。バッティングセンターが、あるのかぁ……」
思わず反応してしまった。
「一緒に行ってみます?」
知らないおじさんを背中に従えて、エレベーターを降りて、人のいない薄暗い廊下を歩いた。床は絨毯生地でフカフカだった。その上を、履いてきていたスニーカーで歩いた。
夜のように暗い、だだっ広い室内空間があった。緑色の網で囲われ、水銀灯で球場ムードが演出されていた。
わたしとおじさんは、べつに仲良しではないので、離れたボックスに入ってそれぞれにバットを持った。他に誰もいなかった。
当選者の特権として貰ったカードを読ませると、30球がセットされた。
わたしはピッチャーを睨むように前を見る。
白いボールが、風切り音を立てて、飛んできた。わたしにバットで叩かれるために。
「とりゃあ!」
快音を立てて、ホームランが飛んでいった。
チラリとおじさんのほうを見ると、綺麗なフォームでゆっくりと、空振りばかりを繰り返している。明らかに振り遅れている。
ちょっと可哀想になったが、どうしてあげることも出来ず、ただ自分の戦いに専念した。
空気を切り取るように飛んでくる白い球を、いちいち掛け声を発して打ち返した。
「とりゃあ!」
ふと気がつくと、後ろからネット越しに、おじさんがわたしのバッティングを見ていた。
額も頬も、汗だくだ。
見てくれている人がいると、気持ちいい。
調子に乗って、わたしは90球、続けて打って、打って、打ちまくった。
「とりゃあ!」
やがて掛け声も出なくなったので、終了することにした。
よく戦った。こんなに体を動かしたのはたぶん12年振りだ。
ヘトヘトになりながら金網の扉を開くと、おじさんが尊敬するような目をして笑っていた。
「凄いね、いっぱいホームランあったね」
「おじさんも、フォームが綺麗でしたよ」
「でも、当たらないからなぁ……。トシには勝てないや。……っていうか、見てたの?」
「ふふふ。誰かが見てくれてると気持ちいいでしょう?」
「かっこいいところが見せられれば、ね。参ったなあ……」
部屋に帰ると、お互いに好きなものの話をいっぱいした。
歳が15以上は離れてそうなのに、意外と共通の映画や小説が好きだったりした。
自分がこんなにお喋りが出来る人だとは思わなかった。途端にここにいることが楽しくなってきて、時間が早く流れはじめた。
「もう少ししたらお昼ごはんの時間ですね」
明るくわたしがそう言うと、
「うん。バイキング形式だったよね。楽しみだなぁ」
おじさんも明るくそう答えてくれた。
お互い名前は聞かなかった。
わたしはこの通り器量がいいわけでもない三十代独身の、冴えない岩石みたいな女だし、おじさんは当然家族がいるんだろうし、このツアーが終わったらふつうに別れるだけだろう。
一期一会という言葉。それだけがあればよかった。
食堂へ行くと、知らないおじさんが三人、わたしたちに話しかけてきた。
「当選者だよね?」
「何? 同室どうし、すっかり仲良くなっちゃってんの?」
「いいなあ、いいなあ」
三人とも目玉のギョロッとした、脂ぎったような印象のおじさんだ。身近にいる部長や社長、親戚のおじさんにどこか似ていた。それに対してわたしの同室のおじさんは脂ぶんが少なくて、まったく種類の違うおじさんという気がした。
「なんだか気が合うだけですよ」
同室のおじさんが、わたしも同意なことを言った。
「そちらの同室の女性の方々は?」
「あそこで女性どうしで仲良くなっちゃってるよ」
「俺らのことは無視されてる」
彼らの視線の先を追うと、一つのテーブルに三人、二十代くらいの若い女の子が着いていて、スマートフォンを見せ合って仲良さそうにしていた。
「世代が違うからなぁ……、仕方ないとはいえ、この仕打ちはないわ」
それから三人のおじさんたちは、わたしたちのすぐ横に座り、三人でとてもつまらない会話をしはじめた。わたしのまったく興味のない、立派な大人がみんなするような、社会システムとかの話だった。
そのうち話の内容がわたしには一つもわからない漁業の話になると、せっかくこんな楽しい場所に来てるのに、なんだかいつもの窮屈な会社の席にいるような気分になって、わたしは食事を取りに席を立った。
長机がチェックのテーブルクロスで彩られ、その上に料理がたくさん並んでいた。
やきそば、からあげ、パエリアやサラダ──
カップうどんなんかもなぜかあった。
わたしはサラダにたっぷりとポップコーンを乗せ、フライドチキン味のドレッシングをかけると、脇にカルボナーラスパゲッティを山のように盛った。
「おっ、うまそうだね」
料理を取っている同室のおじさんにばったり出会って、そう言われた。おじさんのお皿を見ると、糸こんにゃくサラダや納豆巻き、鯖の味噌煮や高野豆腐が綺麗に盛りつけられている。
「ヘルシー志向ですね?」
わたしがにっこりそう言うと、
「糖尿病でね、仕方なくなんだ」
ちょっと同情で笑顔が崩れてしまう言葉が返ってきた。
「じゃあ、お酒なんかも、だめ?」
わたしが聞くと、
「普段は我慢してるからね、たまにはいいだろう。今夜、一緒に飲む?」
「飲む? 飲む?」
わたしはつい、とても楽しみな内心が顔に漏れてしまった。
「うん、飲もう、飲もう」
おじさんもとても楽しみな心を笑顔に表し、頷いてくれた。
「「でも、その前に……」」
二人でおんなじことを口にした。
「「もう一回、バッティングセンターに行かない?」」
食後の運動なので軽めにした。
再びわたしはバッターボックスに立った。今度は一人ずつだった。
「ホームラン打つから見ててね」
わたしが笑顔でそう言いながら振り返ると、おじさんは凄く楽しみにしてるように、歯を見せて笑ってくれた。
わたしが予告通りホームランを3発打ったあと、交替でおじさんが同じボックスに入った。
「どうしたらホームラン、打てる?」
おじさんがそう聞いてくるので、
「掛け声を出せば気合が入りますよ。『とりゃあ!』って」
そう、教えてあげた。
「どりゃあーっ!」
痩せ型体型なのに、さすがは男の人だ。おじさんが金属バットでとらえた打球は強く、場外まで飛んで行く勢いだった。
いい汗をかいたのをお風呂で流した。大浴場はとっても広く、ギリシャっぽい大理石デザインで統一され、冒険コースみたいに浴槽が繋がっていた。
噴水みたいなジャグジーに一人入って、なかなかに賑やかな浴場の中を見渡したら、少し寂しくなった。
いつもはこんなことないのに。日帰り温泉に一人でよく行くけど、一緒に入りたかった人がいたことなんて、ないのに。
部屋に帰ると約束通り、おじさんとテーブルを挟んで向かい合った。
内線電話で注文した飲み物とおつまみを、ペンギンによく似た従業員が届けてくれた。
わたしはまずはグレープフルーツチューハイ、おじさんはとりあえず生ビールだ。
「なんかラブホに来たみたい」
わたしがそう言うと、
「俺もそう思った」
おじさんが同意して、明るく笑ってくれた。
「ラブホに行ったこと、あるんだ?」
「君こそ。なかなかの遊び人だな?」
静かな部屋に、行儀のいい笑い声を遊ばせて、二杯目はわたしはロックのウイスキー、おじさんは水割りを飲みはじめた。
来た時にはこの二泊三日をどうやり過ごそうと考えていたのに、もうこのままここに住みたいような気持ちになっていた。
毎日バッティングセンターに行って、毎日バイキングレストランで食事して、毎日こうやっておじさんと話せたら、どんなに楽しいだろう。
恋とかでなく、依存するわけでもなく、ただ一緒にたいと思う。長年連れ添った夫婦と言うにはお互いの事を何も知らなくて、それでも相手から出てくるものは全て自分にもしっくり来る。おじさんは、そんな相手だった。
夕焼けに染まる湖の話とか、ジャングルみたいに広い庭で出会った猫の話とか、そんな他愛ない、他人にとって面白いわけがない話題でわたしたちは盛り上がった。
盛り上がるけれどお互い抑制が効いていて、ピスタチオやチーズをつまみながら、けっして羽目は外さずに、けっして互いの体には触れなかった。
そして気づけば、名前もまだ知らなかった。
それを聞いたら何かが壊れるような、そんな気がして、聞くことが出来なかった。
わたしの名前を教えたら、何かが始まってしまい、それがたちまち終わりに向かって行くような気がして、名乗れなかった。
でもお酒が回ってくると、大胆になったのか、わたしは遂にそれを口にした。
ピスタチオを指の先で転がしながら、お酒で熱くなった頬に手を当てながら、おじさんの顔を上目遣いに見た。おじさんは何かを予感しているように、なんだか青ざめた笑顔を静かに浮かべてた。
「ねえ」
わたしは、聞いた。
「おじさんの名前、教えてよ」
するとおじさんは、途端に無表情になり、大正時代の日本人を写した動画フィルムの中の人みたいに色褪せて、消えてしまった。
わたしは目を覚ました。いつもの自分の部屋で、布団に寝ている自分を発見した。頬が涙で濡れていた。
あの人は誰だったんだろう。あの人を思いながら、つまらない日常は続いて行く。
ほんとうに夢だった、あの一夜を胸に抱きながら。
どうしてももう一度会いたい人を夢に描きながら。
存在しないあの人を、この世に求めながら。