影の狂騒
テオーは暗闇の中を彷徨っていた。
幼いころにお化けが怖くて眠れなかった夜のような、不安定な暗がり。カーテンの隙間、ベッドの下、すり硝子の向こう側。誰もいないはずの空間で誰かと目が合う。
そんな漠然とした不安と恐怖が足に絡みつき、徐々に自分という存在が闇に飲み込まれてしまうような感覚。
とにかく出口を探して、そして少しでも光の灯る方へ歩く。しかしそんな思いとは裏腹に、歩みを進める度に周囲の闇は深くなっていく。次第に闇と自分が溶け合い、同化していくような感覚が強くなり、自分が何者なのかという認識さえも希薄になっていく。
しばらくすると、自分は何かに囲われているのだと気づいた。
黒いもの。
たくさんのそれが、テオーを囲み、そして彼に重なっていく。
その度に意識が薄くなり、己という存在が変質していくのがわかった。
(ああ……そっか)
ふいに悟る。
光は、テオー自身だった。
夜光虫。自分に重なる黒いものは、テオーという光に誘われて近づいてきたのだ。
テオーが放つ命の輝き。彼らは、それが眩しくて仕方がない。
(前にもこんなことが、あったっけ)
暗くて、怖くて、痛い。
しかし遠い過去の記憶から、もうすぐその感覚も無くなることを知っていた。
(……?)
誰かが、彼の名前を呼んでいる。遠くの方で。何度も何度も。それが聞こえる度に、チカチカと白い光が瞬く。
(うるさいな……)
(こんなに、真っ暗で静かなのに)
瞬きをする。視界は変わらず暗いまま。
一瞬、なにかが目の前を通り過ぎる。
「君を連れて行ってあげる」
耳元で声が聞こえた気がした。
遂に、残っていた意識を手放す。
そして全てを、闇に委ねた。
***
街のあちこちで、影が蠢いていた。
残留思念。
その場所に残る記憶。通り過ぎる人々や動物、虫、微生物。大気の流れや天候の変化。
通常それらは、現世に留まることはなく、次々と生まれる情報に一瞬で上書きされていく。
しかし特別長く記憶されるものがある。
それは、負の感情。
人間や動物の持つ恨み、妬み。嫌悪や殺意。それらはより多くのエネルギーを蓄え、その場所へ記憶されていく。
そうしたものを伴う記憶は上書きされ難く、長時間その土地に残ることが多いとされる。
その中でも死の寸前の感情は最も強く記憶され、世界を循環する魔力によって、現世へ姿を現すことがある。
異端審問官や神父は、それを影と呼び、時に魔術に利用したり、時に穢れとして浄化したりするのだ。
さて、先ほど起こった爆発的な魔力の奔流。
天を穿つほど巨大な炎の柱により引き起こされた魔力の乱れが、ミッドガーデン北部における影たちの氾濫を起こしていた。
(これは、酷いな……)
暗闇から湧き出る無数の影。
そのほとんどは明確な輪郭を成さないものであるが、時折人型を形成したゴーストが散見される。
雲に覆われ、月の光も星の瞬きも遮られた夜。彼らは生ある者に惹かれ、その精神を喰らう。人口の少ないエリアではあるが、局所的には大規模な精神汚染を引き起こす可能性が高い。
そうなればこれは最早災害だ。
蠢く影を置き去りにして、駆ける。時折死角から湧き出る影を切り裂きながら、テオーの居場所を探していく。
彼から目を離したのは一瞬だったが、どうやらその隙に取り込まれた可能性が高い。
神父の中には、伝播性思念感応症を発症した経歴を持つものが度々おり、残留思念やそこから出現する影に対して親和性を示すことが多い。
そもそも浄化や思念観測は、残留思念を視ることができる人間でないと務まらない。
精神汚染に対する自己防衛や対処方法は、神父なら必須のスキルであるが、テオーはまだ見習いだ。適切な対処が可能かどうかは疑問が残る。
今回に関しては、先の思念観測により、彼の消耗が激しかったことも不安要素の一つである。
「……影が、増えてる?」
駆け出してしばらく。
時間経過とともに影の数が増えてきているように感じた。
儚く希薄だったその気配が、先へ進むにつれて濃密になっていく。それを道標としながら、闇を縫うように駆けていく。
彼らは光に誘われる。それも命が放つ光に。
影の群れは、一つの建物に続いていた。
「……」
廃墟の群れ。
過去に北エリアでマフィアたちが抗争を始め、非合法な商売が我が物顔でマーケットに鎮座する。
日を追うごとに治安が悪くなっていくに従って、住人たちが消えていった、その痕跡。
「まさにゴーストタウンですってか」
笑えない冗談だ。
とにかく、影たちはその廃墟のひとつ、教会を目指しているようだった。
道を塞ぐ影を魔力が宿った剣で薙ぎ払いながら、進む。
背の高さもありそうな雑草が生い茂る庭を抜け、蔓の絡まった階段を昇り、半壊した扉の前へ到着する。
小さな教会だった。
荒らされた痕跡はないが、石造りの壁は所々抜け落ち劣化が進んでいることがわかる。外から観察する限りは、何の気配もせず、声も聞こえず、ただ隙間風のような音が断続的に響いている。
煤で汚れた扉が、少しだけ開いていた。
まるでこちらへ誘おうとでもしているかのような錯覚を覚え、頭を振った。
隙間から中の様子を伺うが何も見えない。
月明かりがない所為ではない。
ここにはただ、闇が満ちていた。
残留思念から這い出た影たちが、ここにある何かを守るかのように教会の中に充満していた。
「……っふぅー」
息を吐き切り、そしてもう一度大きく吸う。鼓動が早い。頬を汗が伝う。
この中にテオーがいるとして、果たして彼は正常な姿でいるのだろうか。
「ったく、余計な手間こさえやがって」
防壁の魔術を体の周りに展開する。
覚悟を決め、教会の中へ足を踏み入れた。




