アルルの場合
「……おそい」
開け放たれた窓から吹き込む冷気。
「おそいおそいおそすぎるぅー!!」
どんよりとした乱層雲が、静かに雪を降らす。
「お腹減ったぁぁー!!!!
遥か眼下で残飯を漁っていた野良犬が、ビクリとその身を震わせた。
「たかだが報告書の提出と買い物に行くだけで一体何時間かかってるんだ、あのゴミムシは!!」
アパートメントが衝撃に揺れる。
殴りつけた壁に穴が空き、石膏ボードがコンニチハ。
パラパラと音を立て、石材が足元へ落ちる。
「ああ、クソ! お腹が減った。なんだって私がこんな饑文字い目に合わなければいけないのか!!!」
地団駄を踏む。
『私は疲れた。先に帰って寝てるから事後処理は貴様に任せた。あ、そういえばアレが食べたい。パンケーキ。貴様が帰ってきて作ったら、起こしてくれ』
あれが夢でなければ、確かにアヤメにお願いしたはずなのに。
夜明けの薄暗さから目覚めてみれば、眠りにつく前と同じ灰色の空。
周囲から流れ込んでくる暖流と、低気圧が衝突することで、この辺りは一年のほとんどが同じような天気だという。
外を見ても、灰色の雲に覆われている所為で今が何時なのかわからない。この街で生まれ育ち生活している者ならば、体感である程度は把握しているのだろうが、私にその能力はまだ培われていない。
この街では珍しいと言われる、プラチナブロンドの髪も、青と緑が薄く混じったような碧眼も、私がここの生まれではないことを指し示していた。
時計を見れば既に夕刻。
昨日の今頃は、おピンク街に向かっていた頃だろうか。
まだ今一つ覚醒しきっていない頭で考える。
魔術を使い、壁の修復を開始する。
石材たちが意志を持っているかのように、穴に吸い込まれお互いの組織を溶け合わせていく。
魔術は問題なく遂行された。
「っ!」
チクりと、左眼に痛みが走った。
反射的に抑えると、ざらざとした布の感触が手に伝わる。
段々はっきりしてきた思考が、昨日の出来事を呼び起こす。
薄暗い部屋の隅に置かれた姿見に映った自分をぼんやりと眺めると、あまりにも酷い姿に思わず目を逸らしたくなった。
垂れた肩紐が、だらしなく腕に絡みついていたナイトウェア。
黒く揺れる逆十字の垂れるチョーカー。
寝癖がつき、不規則に突き出した金髪。
左目を覆う、黒い眼帯。
先ほどの、痛みの正体を確かめようと、眼帯を外す。
湖を写したような色をした右目とは対照的に輝く――金色の瞳。
魔女が魔法を行使したときに現れる特徴的な所見として、両目が金色に変化する、というものが挙げられる。
なぜそのような現象が起こるのかは不明だが、魔女の研究に特化したお偉い学者様が鋭意研究中だとかなんとか。
その現象が、私に限ってはなぜ左目にだけ現れるのか。
実を言えば、私はその答えを知っている。
私が魔女で、その力の大半を封印されているからだ。
人工魔力灯の光を受けて鈍く光る逆十字。
黒いチョーカーから垂れるそれは、大司教ヘリアンの飼い犬になった証。
私の中に流れる魔女の力を抑制するための、首輪。
膨大な魔術に関すること以外の記憶を失い、彷徨っていた私の最初の思い出は、両手を拘束された私にチョーカーを装着する彼女の顔だった。
だが封印されているからといって、魔力そのものが使えないわけではないのは、今にしてみれば幸いだったのだろう。記憶は失っていても魔力の操作は体が覚えていたようだし、魔術の行使に影響はなかった。
誰にも伝えてはいなかったが、少しだけ魔法も使えた。
氷を操る魔法。それが私固有の能力であったらしい。
魔法を使用した際の金色に輝く左目は、中途半端に発揮された魔女の力の影響なのだろう。
バレないように立ちまわっていたのだが、昨日黄金の林檎と呼ばれる文書に目を通した瞬間に、自分の中の何かが変化したのがわかった。
以降、この左目が収まらない。
それどころか、今までは平気だった魔術でも左目の違和感を覚える始末だ。
度し難いものだ。
少なくとも今、あの頭の上から指の先まで血と臓物の臭いに塗れた、大司教ヘリアン・ヴァーリには知られるべきではないだろう。
しかし、あのウスラトンカチ《アヤメ》に見られてしまったのは計算外だった。
腹の辺りがきゅっと締め付けられる感覚とともに音が鳴る。
今にも空腹で倒れそうだ。
眼帯を付け直して、立ち上がる。
「ホットココア飲もう」
うむ、とにかく甘いものを摂取して、面倒くさいことは忘れよう。
そして今一度なにか食料がないか探すのだ。




