8.その悪魔、計り知れず
俺と絢瀬が付き合う(フリをする)ことになって数日後。
部活を終えて帰宅すると、毎日のように俺を出迎えていた絢瀬の姿がなかった。
リビングにも彼女は居らず、シャワーの音も聞こえないが、靴はあるから家にいるのは確かだ。
大方、部屋でのんびり過ごしているのだろう。
荷物を部屋に置いてリビングへ向かうと、コトコトグツグツと音が聞こえてきた。
嫌な予感がしてキッチンを覗くと、鍋に火がかかったままだった。
沸騰したまま放置された鍋からお湯が吹きこぼれている。慌てて火を止めると、鍋も落ち着いたようでその音も徐々に小さくなる。
ほっと一息ついた俺は、その足で絢瀬の部屋に向かった。
料理が得意だと謳っていながら火をつけて台所を離れるなんて以ての外だ。あまり料理をしない俺の方でもその危険性は理解している。
しかし、あの絢瀬が何の理由もなくそんな危険を犯すだろうか。
もしかして、今度こそ本当に倒れているんじゃないか。
綾瀬の部屋の前に立ち、何度かノックをするが返事はない。
一度同じ状況に立ち、俺は失敗している。
この扉を開けてしまったせいで、絢瀬の本性を知ることになった。
この部屋はパンドラの箱だ。中には災いが詰まっている。
そうだとわかっていても、心配や不安が先に立ち、ドアノブにかかる手を止めることが出来ない。
恐る恐る扉を開けた瞬間、雄叫びにも似た怒声が響いた。
「ああもう! なんなのこいつ!」
そして同時に理解する。
ああ、また見てはいけないやつだった、と。
椅子に座ってぶつぶつと何かを呟いているが、その小さな背中からは禍々しいオーラのようなものが見える。
これはあれだ。親友が殺された怒りで超サイヤ人になったあのシーンと同じだ。怒りのオーラで髪が逆立ってる気がしてきた。
絢瀬に近付くと、その言葉の全容が聞こえてきた。
「ほんとムカつく。くるみんが枕なんかするわけないでしょ。努力の成果に決まってんじゃん。私を抱いていいのは紘斗くんだけだっての」
聞かなきゃよかった。こいつ紘斗くん好き過ぎるだろ。厄介オタクに絡まれるアイドルってこんな気分なのか。百年の恋も冷める勢いだ。
絢瀬を心配していた気持ちはとっくに姿を消し、俺の心は絢瀬に対する呆れとアンチに対する怒りに染まっていた。
「絢瀬」
「ひゃうっ!」
躊躇いもなく肩を叩くと、絢瀬は間抜けな声を出して椅子から転げ落ちた。
余程驚いたのか、ビクビクと体を震わせて涙目でこちらを見上げている。ちょっと可愛い。
「か、帰って来てるなら言ってよ!」
やっぱり可愛くないな。
「ノックはした」
「聞こえなきゃ意味ないでしょ!」
「そんなことより、火つけっぱなしだったぞ」
「あ、やば!」
バタバタと部屋を出て行こうとする絢瀬の腕を引いて止める。
「火も止めた」
「え、あぁ、そう。ありがと……」
「それよりも、だ。さっきのアンチはどこのどいつだ? 匿名アカウントで袋叩きにして炎上させてやる」
「もうやってるから大丈夫」
「ちょっと待て」
何も大丈夫じゃない発言が聞こえた気がするんだが?
「何をやってるって?」
「だから、複垢での袋叩き」
「知りたくなかった、その事実」
純朴の天使とは何だったのか。
自らアンチとバトるアイドルなんて信じたくない。それが自分の推しともなれば尚更だ。
大きくため息をついていると、絢瀬が潤んだ目で俺を見ていた。
「もしかして、今度こそ引いた?」
悪魔のような素顔に続き、アイドルとしても最低レベルな行いをさも平然とやってのけるくるみんに、流石の俺も──
「いや、引いてないな」
「じゃあよし! お鍋の様子見てくる!」
絢瀬は俺の手を振り払い、ピューっと部屋を飛び出して行ってしまった。
俺は何度騙されるのだろうかと頭を抱えながら、絢瀬を追ってリビングへ向かった。
リビングからキッチンに目を向けるが、先に下りたはずの絢瀬の姿はない。
ダイニングルームを抜け、キッチンを覗き込むと、彼女は鍋の前で崩れ落ちていた。
「どうしたんだよ」
「お味噌汁、焦げてる……」
中を覗くまでもなく、蓋の開いた鍋からはほんのり焦げ臭さが漂っていた。
「怒ったりしょげたり忙しいやつだな。少し焦げたくらい別にいいだろ」
「ダメに決まってるでしょ! ヒロくんならともかく、紘斗くんには美味しいご飯を振る舞いたいの!」
「同じなんだよなぁ」
「うるさい!」と声を荒らげつつも絢瀬の目にはじわりと涙が浮かんでいた。
俺のため……ではなく、あくまで優等生の紘斗くんのためであっても、自分のためにそこまで一生懸命になってくれるのは嬉しさもある。
「そう落ち込むなよ。多少失敗してもご愛嬌だ。俺……紘斗くんのために作ったならそれだけでありがたいって」
「私は美味しいご飯で紘斗くんの胃袋を握り潰さなきゃいけないの!」
「好かれたいのか? それとも殺したいのか?」
「一生愛されたい」
「難しい相談だな」
重すぎるオタクの愛情は俺には抱えきれない。
アイドルも大変なんだろうな。俺も少し改めようと思う。
少なくとも「ゴミカスアンチめ……私と紘斗くんの恋路まで邪魔してくるなんて……」などと逆恨みをしている絢瀬のようにはなりたくない。
味噌汁を焦がしたのは間違いなく絢瀬の失態だが、こうも落ち込まれると責めにくい。
今にも泣き出しそうな絢瀬を見て、俺は大きくため息をついた。
ここは紘斗くんの出番だな。
俺は絢瀬の傍に屈んで、精一杯優しい笑顔を作る。
「くるみ、大丈夫だよ」
そう声をかけると、絢瀬はぐるりと首を向けて目を輝かせた。
「僕はくるみのその気持ちだけで充分嬉しい」
「で、でも……家事もまともにできないのに、私が紘斗くんの近くにいる資格なんて」
「資格なんかいらないよ。くるみがそうしたいなら、僕もくるみの傍にいるから」
「紘斗くん……」
何だこの子、ちょろ過ぎる。
ちょっと優しくしただけで号泣している。悪い男に騙されやしないか心配になるレベルだ。
「やばい……生の紘斗くんかっこよすぎ……膣キュンしちゃう」
「あー、今のは聞かなかったことにする」
心配は無用だったな。これは男の方がドン引きする。
しかしながら、いつもの絢瀬に戻ったようで安堵している自分もいた。
口が悪く淫語癖のある絢瀬に慣れつつあるのは考えようだけど。
「紘斗くん、ご飯にするから手伝って」
ケロッと立ち直った綾瀬に手を引かれ、俺は夕食の支度を始めた。
紘斗くんを演じただけであっという間に機嫌を直してしまった絢瀬を見て、肩を竦める。
俺にはまだ絢瀬の本質を推し量れそうにないらしい。