3.その同棲、二人きり
あっという間にその日はやってきた。
日曜日、約束の日だ。
皆既日食が起こる日ではない。長年暮らしてきた家を離れ、新たな生活が始まる日だ。
「お荷物、片付いた?」
午前中の部活を終え、最後の仕上げとばかりにダンボールに教科書類を詰めていると、母が掃除機片手に声をかけてきた。
「うん、これで最後だよ。でも、母さんの荷造りは全く手伝ってないけど大丈夫?」
「大丈夫よぉ。言ったでしょ、引っ越すのは紘斗だけだって」
「うん……うん?」
予想だにしない言葉に耳を疑った。
「え、新しい家に引っ越すんだよね?」
「うん。紘斗だけね」
再度確認してもその事実は変わらない。
母は悪びれる様子もなく「言ってなかったかしら?」と首を傾げた。
「全く聞いてないんだけど。母さんは一緒に暮らさないの? 僕と慎一郎さんとくるみだけ?」
「ううん。慎一郎さんと私はここに住むの」
さらに意味がわからない。
説明を求めるようにじっと目を細めると、母はふふっといたずらっぽく笑った。
「慎一郎さんの家、学校の近くらしいの。だから、紘斗もそこに住む方が交通費がかからなくていいんじゃないかって慎一郎さんが」
「それはいいんだけど、てっきり四人でそこに住むのかと」
「嫌よぉ。私と慎一郎さんのラブラブ新婚生活を邪魔されたくないもの」
息子を邪魔呼ばわりですかそうですか。
絢瀬親子との夕食を終えた後、母からは「私のことはいいから自分のお荷物だけ整理してね」とは言われていた。
しかし、まさか俺だけ引っ越すことになるとは。再婚すると聞かされて家を追い出されるとは誰も思わない。
さらに母の話では、少なくとも高校卒業までその生活が続くとのこと。家族とは名ばかりに、母と慎一郎さん、俺と絢瀬でそれぞれ生活することになるらしい。
なるほどなぁ。家族とは何だったのか、その定義について小一時間ほど問いたいものだ。
そこまで整理して、ようやく事の重大さを理解した。
俺は絢瀬と二人で暮らすことになる。あのくるみんと、だ。
くるみんと二人きり。若い男女がひとつ屋根の下。大天使とオタクの二人暮し。そんなことがあっていいのか? そこだけ切り取ると軽く犯罪の沼に浸かっている気がする。
「ちょっと待った」
話は終わったと言わんばかりに部屋を出て行こうとする母を呼び止めた。
「あー……その、思春期の男女が二人きりで生活するのはどうかと……」
「それもそうねぇ」
言われなきゃ気付かないのか。むしろ真っ先に危惧すべきことだと思うが。
半ば呆れていると、母はビシッと人差し指を立てた。
「高校卒業まで避妊はしっかりすること!」
「そういう問題じゃなくてね?」
冗談だとしてもいろんな欲が旺盛な思春期男児に言うべきことではない。
内心に溢れる期待をひた隠しにしつつ、俺はため息をついた。
夕方になると慎一郎さんが訪ねてきた。
どうやら俺の引っ越しを手伝ってくれるらしい。
引っ越しとは名ばかりの借りぐらしだったおかげで荷物は随分減った。冬服や漫画をダンボールに詰め込む作業が徒労に終わったのは虚しいところだ。
もしかすると、邪魔な荷物を片付けさせるという母の思惑があったのかもしれない。
ワンボックスカーに最低限の荷物を乗せて絢瀬宅に移動する。
これまで電車で通っていた道のりを別の視点から眺めながら、母と慎一郎さんの惚気を右から左へと流して行く。何で母さんがついて来てんだろうな。
二十分の苦痛な時間が終わり、絢瀬宅に到着した。
白を基調とした立派な一軒家だった。それこそ、二人で住むには広すぎる。
絢瀬宅の方が学校に近いとはいえ、家主を追い出して住み着くのは少し気が引ける。
「本当に一緒に暮らさないんですか?」
母では話にならないと思い、荷物を運び込みながら慎一郎さんに尋ねた。
「そうだね、私はどちらでもいいんだけど。紘斗君は一緒がいいかい?」
「僕もまあ、どちらでも。ただ、家族になるなら一緒の方が良いかとは思います」
模範的な回答だ。絢瀬と二人きりは俺の心臓がもたないと素直に言えばいいものを。
「聞き方を変えようか。くるみと二人きりは嫌かい?」
俺にあてがわれた部屋にダンボールを下ろすと、慎一郎さんは静かに微笑んだ。その視線は俺の本心を見透かそうとしているようにも見える。
何とも答えにくい質問だ。嫌だと言うのも絢瀬に失礼な気がするし、嬉しいと答えるのも何か勘繰られそうで躊躇ってしまう。
絢瀬と二人きりでの生活は夢のような暮らしだけど、家族のあり方としては少し違う気がする。
「出来れば四人で暮らしたいですね。慎一郎さんともっと話したいですし、くるみさんは可愛いので二人きりは緊張します」
これまた無難な回答だ。二択の質問に第三の選択肢を加える狡い回答とも言える。
しかし、それが本心でもあった。
母の再婚は嬉しい。相手の慎一郎さんは男の俺から見ても魅力的な男性だ。絢瀬は言うまでもなく好き……じゃなくて、華やかで眩しさすら覚える美人で、同年代の男子が二人で暮らすには心臓に負担がかかりすぎる。
俺の心臓のためにも二人暮らしは避けたい。新しい家族という繋がりを大切にしたい。何より、家族でありながら離れ離れなのは少しばかり寂しい気がした。
俺のわがままな真意を察してか、慎一郎さんはふっと目を細めた。目尻に皺が寄った優しい笑顔だった。
「家族としてのあり方は家族によって違う。悠花さんにもくるみにもそれぞれの考え方がある。勿論、紘斗君にも私にもね」
「そう、ですね」
「君たちはあと二年も経てば自分たちの生活が始まるんだ。その練習として、私は二人の意見に賛成した。けれど、私も家族は一緒に過ごすべきだとも思っていてね。紘斗君がそう言ってくれるのは嬉しいよ。せめて、月に何度かは一緒にご飯を食べようか」
俺の頭をぽんぽんと叩く彼の手は大きく、暖かかった。
「……あ、ありがとう……お義父さん」
やはり慎一郎さんは大人だ。俺が言わんとすることを汲み取り、母の要望を受け入れながらもそれらを両立させようとしてくれる。
彼の人柄は俺を安心させてくれる。きっと母も彼のこういうところに惹かれたのだろう。ほんと、素敵な旦那さんを見つけてきたものだ。
慎一郎さんの笑顔につられて、俺もにこりと笑顔が零れた。
荷物を運び終えると、慎一郎さんは母の待つ車に乗り込んだ。荷物運びを手伝うわけでもなくずっと待っていたようだが、きっと一時も慎一郎さんから離れたくなかったのだろう。ちょっと愛が重い。
「じゃあ、私たちは戻るよ」
「引っ越しの手伝い、ありがとうございました」
「気にしなくていいよ。これくらい当然さ」
こんな大人になりたいなぁ、なんて考えながら、エンジンをかけた慎一郎さんにふと浮かんだ疑問を投げかける。
「そういえば、くるみさんはどちらに?」
荷物を運ぶ最中一度も見かけず、それどころか家にいる気配もなかった。
大方予想はついているが、慎一郎さんがどこまで知っているのか確認するためにも聞いておくに越したことはない。
「ああ、学校でボランティア活動があるらしい。夕方には戻ると言っていたから、そろそろ帰って来ると思うよ」
あー、アイドル活動ね。
学校でボランティア活動の募集なんて聞いたことがない。絢瀬の嘘だとすぐにわかった。
今日はライブもないし、きっとどこかのスタジオで練習でもしているのだろう。
やはり慎一郎さんにも話していないとなれば、俺から言うべきことじゃない。
「そう言えば清掃ボランティアに参加していると聞いたことがありますね」
「そうなのかい? ボランティアとだけ言って週末に家を空けることが多いから少し心配だったんだ」
「大丈夫ですよ。部活中に見かけたこともありますし」
「くるみちゃん偉いわねぇ。紘斗も参加しなさいよぉ」
「そうだね、部活がない日はそうしようかな」
上手いこと話を合わせられたようだ。少し悩ましげに顔を顰めていた慎一郎さんも俺の証言で安堵に胸を撫で下ろす。母も珍しくナイスフォローだった。いつもは泥舟なのに今回ばかりは良い助け舟を出してくれた。本人にその自覚はないだろうけど。
慎一郎さんは穏やかに笑って「あとは宜しくね」と言い残し車を出した。
交差点の角から車が消えたのを確認して肩の力が抜けた。
俺も常々嘘で自分を塗り固めているが、人の嘘を隠すのはまた違った緊張がある。
オタクであることを隠している俺。アイドルであることを隠している絢瀬。妙な共通点があったものだ。
まあ、人に知られた時の反応には天と地の差があるだろうけど。
それにしても、絢瀬の嘘は随分と杜撰だ。友達に聞かれでもしたら一発でバレてしまう。
相手が俺じゃなきゃ今頃大騒ぎだったぞ。咄嗟の嘘にしては上出来だと自画自賛したくなる。
ともあれ、絢瀬の秘密は上手く隠せたことだし、彼女が帰るまでに荷解きを済ませてしまおう。俺は何度見ても壮観な一軒家に足を踏み入れた。




