晴天
背後から迫る黒い物体を花びらで払いながら、羽花は口を開いた。
「お願い、ハナ」
羽花から離れまいと上着を握りしめるハナを必死に説得しながら、左手首に光るブレスレットを口元に近づけたが、ハナの存在に改めて気が付き羽花はそっとその腕を下ろした。
「花属性 従二位 暗香疎影」
花から漂う毒気に当てられた魔物は意識を失い動きを止めた。
彼の動きを妨げるよう足、そして彼自身を覆うように無数に伸びた靏がその姿を隠す。
魔物の動きがないことをしっかりと確認した羽花は軽やかに宙を舞い、何重にもなる自身の結界へ侵入した。
「茉莉姉」
「羽花、あなた」
「お願いがあるの」
真剣な眼差しで見つめる羽花に深呼吸した茉莉はその目と向き合い、続く言葉を待った。
「景兄を助けて」
「……景?」
思いもよらぬ弟の名前に、茉莉は妙な胸騒ぎを感じた。
またあの日のようなことが起きたのではないか、不安に駆られる茉莉に気が付き、羽花は首を横に振る。
「大丈夫。あの時みたいなことにはまだなっていない。
さっきみたいな黒い塊に足を拘束されて身動きが取れずにいるの」
「ひとまず命は大丈夫ってことね」
羽花は頷き、話を続ける。
「どうやら私の力は、その塊と相性が悪いらしい」
「それはつまり正統後継者の力が、ってことね?」
「うん。
だから景兄に、茉莉姉を連れて来るよう頼まれた」
「なるほど。
あれからもう時間が経っているし、一刻も早く様子を見に行った方が良いわね」
「だから、」
「でも羽花。
この魔物は新聞紙を介して本体を移動できる。
つまりいつ、どの状態の魔物が自分と戦っているかがわからないの。
そんな状態でその魔物に合ったら――」
「大丈夫だよ、茉莉姉」
羽花のその声に、掴んでいた少女の腕を離した茉莉の腕に小さな温もりが当てられた。
「え、なに?……リス?」
「そう」
「こんな空き地のどこか、ら」
リスが茉莉の腕を歩き、彼女の左手に浮かび上がる火属性の紋様に触れた瞬間、茉莉の艶のある髪の毛が勢いよく逆立った。
驚いたように目を見開いた茉莉は、そのまま羽花の顔を見つめた。
「この子は一体」
「この子は消耗した天力を回復してくれるの。
勿論無限ではないけれど、この子がいてくれたら私はあの魔物とも」
「そうじゃなくて」
いやそれもそうなんだけどと悩ましげに言葉を遮り、茉莉はまじまじと掌の上に座るリスに視線を向ける。
失った天力の殆どが回復し、先程より呼吸をしやすくなった体で疑問を投げかける。
「この感じ……人間の力じゃないわよね?
一体どこから?」
「前に会議で報告した傀儡との戦いの時。
あの時、あの場には私が意図的に逃がしたゆきも一緒にいたの。
この子はその時雪が私に託してくれた子なんだ。
元々の持ち主は傀儡らしいけど、あまり良い環境じゃなかったみたいで、
それに気づいた雪――意図的に逃がした魔界に住む子が私にくれたの」
「え、待って」
茉莉は目を見開きながら空いている片手で羽花の肩を掴んだ。
「それならどうしてこの子は生き続けているの?
自分の力で生成した形ある物は、生みの親の命と連動しているはず。
傀儡がこの子を作ったと言うなら、傀儡の祓後、この子も消えなきゃおかしいじゃない」
もう一度ハナに視線を向けると、つぶらな瞳で自分を見上げる姿を見つけ、なんともいたたまれない感情に襲われ茉莉は肩から腕を下ろした。
「いや、傀儡は確実に祓い済みよね。
だって書物がそれを認めているんだもの。
だとしたら――」
その時、結界がぐらりと揺れ二人は体制を崩す。
茉莉の腕からずり落ちたハナは、自分の仕事を終えたと言わんばかりに羽花の肩に飛び乗った。
羽花による強力な結界のおかげで魔物の攻撃が内部に侵入してくることはないが、動きを再開した今、いつ身の危険を感じるかわからない。
「申し訳ないけど、ここは羽花に頼むわね。
私は一刻も早く景を自由に暴れさせなきゃ。
景は現世代の中で最も実力のある術者だもの。
存分に働いてもらわなきゃ困るわ」
勢いよく立ち上がった茉莉には、もう体の疲労も天力の消耗も感じられない。
ハナが初対面の茉莉に回復術を施してくれたおかげである。
「景を解放して、私は向こうに残る。
あの状況を見る限り朝陽の勝率は四割」
「お兄ちゃんは『勝つぞ』って言ってた」
羽花の不安と信頼の眼差しに微笑んだ茉莉は、この中で術者てしての蓮水朝陽と一番長い時間を過ごしてきた人物である。
「大丈夫。
勝率がグンと上がる方法があるから実際八割くらいよ。
だから朝陽への援軍は必要ない。
今、お父さん達が住宅街の保護に向かっているからそこも心配しなくていいわ。
とりあえず向こうは私達に任せて、羽花はこっちに集中して。
この魔物の祓い方が分かったら直ぐに連絡する。
あと、」
茉莉は一層目の結界を抜け、二層目に手を貫きながら振り返った。
「優美のこと頼むわね」
「お姉ちゃん?」
羽花は地上に佇む姉の姿を見つめた。
「じゃあ、絶対に勝つわよ」
「うん!」
「任せたからね」
そう笑みを浮かべた先輩術者は一瞬にして姿を消した。
天力の気配だろうか。
鳳莱茉莉がいなくなったことに気がついたリッチャーは、今までにないほど暴れ回り、周囲の囲いを破壊していく。
そんな魔物を気に止めることなく羽花の首筋に顔を寄せたハナを優しく撫で、羽花は袖口を捲りあげた。
「ありがとう、ハナ」
『向こうを頼む』
『任せた』
『任せたからね』
小さい頃見てきた自分よりもずっと大きな背中。
そんな三人に任されたら、羽花はもう奮い立たずには居られない。
「私は、蓮水羽花。
この世界の平和を任された蓮水家の術者の一人!!」
解。
結界が弾けるように解除され、姿を現した術者にリッチャーは鋭い眼光で振り返る。
先程とは雰囲気を変えた羽花に俄然興味が湧いたリッチャーはニヤリと口元を歪ませた。
何かが吹っ切れたように清々しい顔で魔物と対峙する羽花の心に、もう迷いの雲はかかっていない。
晴れ渡った雲一つない青空のように、澄み切った心は冷静な頭と広い視野を与えてくれた。
「右、上、右回り、左、右回り――」
相手のタイミングを見計らい、その瞬間。
一気に距離を詰めた羽花は両手指を絡め、術式を発動させる。
「花属性 従二位 巧語花言」
【巧語花言】『花』属性に属する術者が使う術式。
飾りつけただけで、内容のない言葉という意からなるこの術式は、敵の攻撃に関するあらゆる手数が多い場合そのうちの八割を『使用不可』にすることが可能になる。
しかしこの術式は相手のみならず己にも強く作用するものであり、使い時を見誤った場合こちらが不利になるという性質を持ち合わせている。
そして相手の攻撃を選別するのは術者本人ではなく、術式本体。
自分の最大の武器であっても術式に弾かれてしまえば使用不可となるため、目の前の相手を倒さない限り、省かれた術式が戻ってくることは無い。
今。
茉莉が家に戻り、確実に戦力を失ったこのタイミングで。
羽花がこんなにも強気な戦術を選択した理由。
「不規則でいようとすればするほど、規則的な動きになってしまうよね」
先輩術者の期待に答えるため。
本来所持している術式の殆どを禁じられた羽花に残された一つ目の武器。
『冷静な頭と広い視野』
最大限に発揮し、羽花を惑わそうと躍起になる黒い塊を削っていく。
そんな彼女の姿を見つめる目があった。
彼女の名前は蓮水優美。
正真正銘血の繋がった蓮水羽花の三つ年上の姉である。
彼女は自分を覆い守ってくれる結界に触れ、そっと呟いた。
「驚く速さで成長しますね、羽花さんは」
一人取り残された結界内で、寂しそうに呟かれた声。
押してもビクともしない強靭な結界に頭を預け、優美は一人夜の世界に身を溶け込ませていたのだった。




