たられば
「お、兄」
「良かった」
頭に添えられた手の力が強くなり、耳元では安堵の声と啜り泣く声が絶え間なく聞こえてくる。
羽花が朝陽の前で涙を流すのは二度目なのだが、あの時怒りの感情が体を支配していた朝陽にとって、涙する妹をしっかりと認識したのは今が、何年振りとなるものだった。
羽花は自分自身も兄と同じように涙を流しながら思った。
こんなに泣きじゃくる兄を見たのはいつぶりだろうか、と。
沢山の思い出をどれだけ遡っても、思い出される記憶の中で最も新しいのは羽花と翔がこの世界に足を踏み入れた日の兄の涙だった。
若匡に連れられ術者の世界への一歩を踏み出そうとする二人に不満を漏らし、涙を流しながら必死に引き留めようとしていた当時十歳の朝陽。
隣に立つ同い年の茉莉は呆れた顔でその姿を見つめながら、何とか宥めていたのを今でも鮮明に覚えている。
※ ※ ※ ※
「ほら朝陽。
仕方ないよ、私達だって通ってきた道じゃないの」
「でも嫌なもんは嫌だ」
「そんなこと言ったってどうにもならないよ?
これが私達の家の決まりなんだから」
「じゃあ今すぐそれ撤回してよ」
「無理に決まってるでしょ」
溜め息をついた茉莉は、羽花の腕を掴んで離さない腕に手を伸ばし指先に力を込めた。
「いってぇ!!!!」
「いい加減にしなさい。
仕方ないことだって、さっきから言ってるしょ?」
「したら、羽花ちゃんだけ置いてってよ。
翔、一人でも大丈夫だよな?な?」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら詰め寄る朝陽に、当時3歳の翔は顔を引き攣らせながら答えた。
「う、うん?朝兄、大丈夫?」
純粋に心配する眼差しを受け、朝陽がグッと言葉を詰まらせた瞬間、ここぞとばかりに若匡は二人を連れ出す。
ピシャリと大きな音を立て閉じられた扉に、朝陽がより一層騒ぎ立てたのは言うまでもない。
※ ※ ※ ※
なんとも恥ずかしい思い出だが、思い出せる限り兄の涙はその時が最後だった。
身長もがたいも、懐の大きさもすっかり大きくなった兄の温もりを感じながら、羽花は自身の目元を拭った。
「お兄ちゃん、泣かないでよ」
「兄ちゃんはさ」
雑に涙を拭った朝陽はそっと羽花から離れ、異門へと歩き出した。
そんな兄の数歩後ろをゆっくりとした足取りでついて行く。
「妹達が可愛くて、大好きで、自分よりも大切なんだ」
「うん」
「だから危ないことをさせたくない」
「うん」
「過保護ってよく言われる」
友達とか茉莉から、兄の背中を見つめているとそんな笑い声が聞こえてくる。
「でもどうしたってその気持ちは変わらないし、変えられない。
そもそも変える必要なんてないと思っていた。
けれど最近わからなくなったんだ。
俺にとって二人の最善の道がこれでも、当事者自身はどうなんだろうかって。
そう意識し始めてから、俺はどうしていいのかわからなくなった」
異門の正面で足を止め、怪しげな雰囲気を漂わせる中をぼんやりと見つめながら、朝陽は後ろにいる羽花に話しかける。
「わからなくなっても、それでもやっぱり俺は。
優美と羽花には幸せになって欲しいと思っちゃうんだ」
「うん」
「術者をやっている限り命の犠牲は付き物だ。
三年前、俺達はそれを実際に痛感した。
例え周りの誰か死が起きたとしても、術者を辞めれば自分自身の命の危険性は今よりずっと低くなる。
特に羽花ちゃんは特別な証を持っているから相当の差が生まれるはずだ。
本当はこの世界にいて欲しくない――そう思う反面、術者として成長した姿が見たいんだからさ」
「もうどうしようもないよな」
羽花は思った。
今、目の前にいる兄の顔を一生忘れることはないだろう、と。
妹への愛、成長への嬉しさ、葛藤、悲しみ。
沢山の感情が渦巻く彼の心の中は、どれほど複雑で辛いものなのか。
いつも大人の余裕を見せ、頼りになる兄のそんな姿をずっと近くで見てきた羽花が気が付かないはずがない。
術者になる前も、今も。
いつだって自分を見守り、支えてくれた兄になんて言葉をかけていいのかわからない羽花は視線を泳がせた。
それを知ってか知らずか、朝陽は再び異門の中をぼんやり見つめる。
表情が見えなくなった兄の偉大な背中を羽花はざわつく心臓の音を感じながら、そっと静かに見つめていた。
「帰ろっか、羽花ちゃん」
にこりと目を細め微笑んだ朝陽は、羽花の返事を待つことなく歩き始めた。
『帰ろう、羽花ちゃん』
優しい笑みを浮かべ、温かい手を差し伸べてくれた兄はここにはいない。
伸ばした手を包んでくれる温もりはない。
ぽっかりと胸に穴が開いたような感覚を感じながら、羽花はその背中を追いかけた。
手持ち無沙汰から自身の両手の指先を絡めながら。
※ ※ ※ ※
「いや、まあね?
中学生にもなってお兄ちゃんと手を繋ぐのは変かな?って思うけどさ。
けどさ、蓮水家は特殊じゃん!!?」
冬休み明けのとある中学校の教室で、ある少女が給食の食器を片付けながら声を荒げた。
そんな少女の隣で目を丸くした少女はその声の大きさのせいか、若干距離を取りながら口を開く。
「朝陽さんと喧嘩でもしたの?珍しいね」
彼女の名前は和藤 彩菜。
羽花とは小学生の頃からの付き合いで、当然朝陽との面識も何度かあった。
しかし朝陽のことを知っているのはそれだけが理由ではない。
蓮水家・鳳莱家は代々続くしきたりのせいか拠点を移すことは一切ない。
つまり校区が変わることがない以上、その家に生まれた子供は全員同じ学校出身となるのだ。
つまり羽花の通うこの『桜陽中学校』通称『桜中』の卒業生の中に、蓮水朝陽・鳳莱茉莉・鳳莱景・蓮水優美もいるのだ。
中でも最年長の朝陽・茉莉ペアは卒業から七年経った今でも校内で知らない人はいない程有名な人物だった。
術者だからという、理由ではない。
なんせ術者――ましてや魔物の存在など一般人は知る由もないのだから。
それならば何故二人が卒業しても尚、その存在が知られているのか。
それは成績優秀、容姿端麗、それに加え誰にでも分け隔てなく接する性格の良さが理由だった。
先輩から後輩へ『〇個上にこういう先輩がいたんだよ』という話が代々受け継がれ、
長年この学校で教師をしている先生方からも『ちなみにある生徒はこのように~』と例に出されるなど卒業しても二人の名前はこの桜陽中学校で語られるのだった。
そんな話題の渦中の家族がこの学校に通っているとなれば、話はさらに盛り上がる。
約二年前に卒業した景・優美の存在により薄れつつあった二人の話題がぶり返し、
そして今現在通う羽花の存在により更に勢いを増している。
しかしこんなにも話題になっているレジェンド蓮水朝陽が実はかなりのシスコンだということを知る者は数少ない。
蓮水家、鳳莱家、それぞれの友人。
本人は決して隠しているわけではないのだが、人前だと無意識にただの良い兄ですオーラに変化するらしい。
だがしかし彩菜は長年羽花と一緒にいるせいか、そんな朝陽の姿を幾度となく目撃してきた。
普通だったらそんな兄を煩わしく思ってしまうはずだが、羽花自身もブラコン気質なため二人は良好な関係を築いていることも昔から気づいている。
だからこそ今羽花が発した言葉の意味がいまいちピンとこなかったのだ。
「いや喧嘩はしてないけど」
「何かあったの?」
「んー」
羽花には心当たりがある。
けれどそれを説明するにはどうしても自分の家柄、任務、特殊な力のことを話さねばならない。
しかし両家にとって他言することは禁じられているためどうにも上手く伝えることが出来ず、羽花は言葉を濁らせた。
言いよどむ羽花に気が付いた彩菜は校内のある二人組を見かけふと声を漏らす。
「彼女でも出来たんじゃない?」
「……エ」
「何、その顔」
彩菜は隣の羽花の表情に思わず口を挟んだ。
「間抜けな鶏みたいな顔してるよ」
「…え、彼女?」
羽花は馬鹿にされていることなど気に止めていないらしく、友人の腕に捕まり焦ったように問いかけた。
腕に絡みつかれた彩菜は通り過ぎる直前、仲睦まじいカップルを横目で確認してから口を開いた。
「いや、わからないよ?わからないけどさ。
何もおかしなことじゃないでしょ?
朝陽さんだって大学生なんだし、大学生って大人って感じするじゃん。
サークル?とか飲み会で出会いがあるんじゃないの?」
「サークル…飲み会…」
「キャンパスライフって響きがもうおしゃれだよねぇ」
自分達にはまだ先の大人な世界に彩菜は目を輝かせる。
「大学生になったら一人暮らしする人も増えるわけだし、彼女と一緒に過ごす時間だって増えるんじゃないの?
あ、バイト先で出会うとかもありそうだよね」
夢が広がるなぁ、と楽しそうに話す友人の横で羽花は一人絶望していた。
「まあそんなことは置いといて。
朝陽さん程のスッペクならいない方がおかしいと思うけどね」
羽花はその言葉に納得する。
身内贔屓を除いても、朝陽は高身長で程よい筋肉をもつスタイルお化け。
周りをよく見ており、優しくサポートする包容力。
元々の能力の高さに加え努力家で、いつだって何事にも精一杯取り組んでいる姿をよく見かける。
そして何よりあの顔だ。
妹の私から見ても、イケメン。
顔だけ男ではなく内面も申し分ないのだから、それに気が付いてくれる女の子はきっと周りにもいるのだろう。
羽花は今あげた要素であることに気が付いた。
今のお兄ちゃんを作っているのって、きっと術者も関係しているんだろうな。
体つきや広い視野、それを補える行動力は、長年命の危機と向き合ってきた経験が積み重なって得た朝陽の武器だろう。
羽花は誰にも見られていない日常が、実際に影響していることに少しだけ感心した。
そんな羽花に気が付くことなく、突然静かになった友人に彩菜は声をかけた。
「まあ、羽花にもお兄ちゃん離れする時期が来たのかもね」




