久しい姿
なんとなく理解できた羽花だが、いまいちピンとこないその言葉に思わず瞬きを止める。
それを知ってか知らぬか、
「同じ水でも水道水ではなく、浄水器を通した水しか使えないということじゃ」
「なるほど、わかりました」
日常生活に置き換えた途端、すんなりと脳に入り込み、若匡の言いたいことをきちんと理解できた気がした。
しかし理解したところで、行動に移せなきゃ意味がないのである。
「羽花」
「はい」
「お主は何のために術者をしている」
「この世界の平和を守るためです」
「そうか」
一言そう告げ頷いた若匡は、ドアノブに手をかけ言った。
「このままじゃ封印どころか、術者としての成長もないじゃろう」
背を向け出ていった若匡の姿は、音を立て閉まった扉によって隠された。
時刻二十一時。
三六五日の殆どの夜をここ、第四異門で過ごす羽花。
本日もいつも通りこの場所で、異門を潜り人間界へ侵入してくる魔物と戦っていた。
たった今決着が着いた魔物の元へ足を向け、地面に跪く。
懐から取り出した術紙を横たわる魔物に触れさせ、その体が濃い霧に覆われ始めると、羽花は両手を合わせ目を閉じた。
思うのはこの魔物への謝罪と、餞。
一通り伝え終えた立ち上がった羽花の脳内を占めるのは、やはり先程若匡に言われたあの言葉だった。
”今のままじゃ駄目だ”
それは前から自覚していたこと。
自分の持っているもの何一つ取ってもまだまだ皆と肩を並べられる程の実力はない。
成長しなければいけないのは技術や体力、そして精神面だけだと思っていた。
今日指摘された天力自体の精度については今までの考えたこともなかったのである。
「天力自体は生まれ持った時点で完結していると思っていた」
羽花は異門の入口を見つめながら、ぽつりと声を漏らす。
肩にはあの日からずっとそばに居てくれるハナが乗っており、天力を消費する度に回復してくれていた。
羽花は人差し指で優しくハナを撫で、何となく高く立派に育った木々を見つめる。
ーーーーここでいつもあの木を見ていたあの人の真似をしたら、何かわかるかと思ったけれど。
ロケット型の遊具から飛び降り、ジンとした足の痛みを感じながら声を漏らす。
「そう簡単な事じゃないよね」
翔ならどうするか、なんて考えても意味が無いことはわかっている。
だって私は翔ではないし、何をしても彼にはなれない。
私と翔はずっと一緒にいて、お互いを励ましあって、夢を託し託された相手だけれど、同一人物ではないのだから。
羽花は懐から紙を取りだし、掌で撫で付ける。
蓮水家の家紋が描かれたそれは見る見るうちに立体化し地面に降り立った。
【式札】
蓮水家に伝わる式神を呼び出すための術紙の一つ。
しかしこの札は誰でも使える訳ではなく、選ばれた者のみが使いこなせる代物であり、他の術者が掌を翳しても何の変化もなくただの紙切れのままなのである。
「稽古に付き合って欲しいの」
羽花のその言葉に頷いた式神は、数メートルの距離を取り上下に軽く飛び跳ねる。
それはまるでボクシング選手の動きのようだった。
式札により出現する式神は意思疎通は可能だが、言葉での会話は出来ない。
つまり一方的な言葉やジェスチャーによってコミュニケーションを取らねばならない。
「花属性ーーーー」
空中を華麗に舞う花びらに紛れ、式神との距離を詰めた。
しかし式神にはそんな羽花の動きはお見通しのようで、羽花よりも早く動き攻撃を避け、気づいた時には背後に回っていた。
ピコンッ
この場に相応しくない音が鳴り、二人は一度稽古を中断し呼吸を整える。
式神が持っていたのは、ゲームでやると盛り上がるピコピコハンマーだった。
「天力の精度に気が行き過ぎた。
……ごめん、もう1回!!」
乱れた髪を雑に払い、羽花は再び式神に向かっていく。
しかし何度やっても結果は同じで、怪我一つなく仁王立ちする式神の前に、息を荒らげ汗を流しながら膝をつく羽花の姿があったのはそれから三十分もしない頃だった。
ーーーーまずい。
羽花は何度やっても変わらない結果に焦りを感じていた。
精度を求めるあまり、今まで出来ていた術式効果が格段に下がっているのを感じた。
コントロールもぶれ始め、極めつけは、
「相手の動きを読み切れない」
己にいっぱいいっぱいで、景との稽古で掴んだ相手の動きを察知することさえもおざなりになっているのだった。
離れたところにいた式神は小さな歩幅でゆっくりと羽花に近づき、
「これ以上はやめよう」
と言うかのように姿を消す。
羽花の足元には立体が平面に姿を変えた術紙がハラハラと舞い、悲しげに落ちた。
「あーぁ、どうしよう」
時間が無い、そう呟く声は一人頭を抱えるこの公園の中に消えていく。
ーーーーはずだった。
「やっぱりな」
突然自分以外の声が聞こえ、弾かれたように顔を上げた羽花が見たのは、迫る期日後共に任務に向かう兄の姿だった。
「……お兄ちゃん」
羽花は予想だにしない突然の来客に驚いた様子だった。
それもそのはず、羽花に正統後継者の証が浮かび任務を担当することになってから、
他の術者はよほどのことがない限り任務中に姿を見せることはなかったのである。
「ど、うして」
「なんとなくそんな気がしたんだよ」
羽花の隣に腰を下ろした朝陽はそのまま口を閉じた。
先程まで頻繁に現れていた魔物はぴたりと出現をやめ、二人の間には冬の寒さと沈黙が流れる。
羽花は思っていた。
ーーーー何かって何!?
と。
しかし朝陽はうっすら積もった雪の上に寝転び、夜空に輝く星空を静かに眺めていた。
ここ最近、兄の様子がおかしいことに羽花は気づいていた。
今までのような過度なスキンシップは鳴りを潜め、その代わりどこかよそよそしさを感じるようになったのだ。
しかしいつも自分の前を歩き、笑顔を見せる兄へかける言葉が見つからず、羽花はその気まずい空気を何とか今日まで耐えてきたのだった。
確実にいつもの兄ではないことがわかるのは妹のーーーー
「兄ちゃんの勘でな」
見上げる視線を移すことなく、独り言のように呟かれたその言葉。
「わかるんだよ」
羽花の顔を見上げ、笑顔を見せた朝陽はそのまま静かに目を閉じた。
しかし羽花は朝陽に笑顔を返すことが出来なかった。
脳裏にこびり付いて離れない今の笑顔。
「お兄ちゃん、」
「ん?」
「泣いてるの?」
「泣いてないよ」
目を開けず、穏やかな笑みを浮かべながら答える朝陽。
「泣いてるよ」
「羽花ちゃん、しつこいよ」
「だって、」
ーーーー泣いてるじゃない。
その言葉は飲み込んだ。
兄が、いつも優しい兄がこれ以上言うなという刺々しい雰囲気を醸し出したから。
明らかにいつもと違う兄が、このままだとどこか遠くに行ってしまう。
そんな気がした羽花は振り払われる覚悟で朝陽の胸に手を乗せ、頭を預けた。
「泣いてるよ」
ピクリと微かに動いた体に羽花は自身の体を強張らせたが、待ち構えていた罵声や衝撃は来なかった。
その代わり聞こえてきたのは、
「羽花……泣けるように、なったのか?」
驚いたような声と、頭に乗せられた優しい温もりだった。
勢いよく顔を上げた反動で、羽花の頬に数滴の涙が落ちる。
その涙を見た朝陽もまたつられたように涙を流し言った。
「良かった」
上体を起こし、自分の胸元に妹を引き寄せた朝陽は、その肩に頭を乗せもう一度言う。
「……よかっ、た」
羽花は初めて聞く兄のその声に、自分の体を動かせずにいた。




