雛
「た、ただいま」
そろりとドアを開け、居間に顔を出した羽花はどことなく気まずい表情だった。
意を決して開けたにもかかわらずそこには誰もいなく、ホッと肩の力が抜けた。
――そういえば、今日はお父さんもお母さんもお仕事だっけ。
漁師で船に乗っている修、介護職をしている千美。
時計の針が真上を向き、正午を知らせる音が心地よく鳴り響く。
「おかえり、羽花ちゃん」
何となくその音に耳を傾けていると、ガチャリと扉の開く音が聞こえラフな恰好の兄が姿を見せた。
「ただいま」
気まずさからか思わず顔を背けてしまった羽花は、冷や汗を流した。
――やってしまった。流石に今の態度は誰が見ても気がつくよ。
しかし、このあからさまな態度に反応することなくソファに寝そべった朝陽は何も言わずスマホを眺めていた。
その様子を不思議に思いながらも、手持ち無沙汰で床に腰をかける。
それを一瞥した朝陽もまた、口を開くことは無かった。
暫くの間お互いの微かな動きを感じ取っていた二人は居心地の悪さを感じながらも、何故かその場を離れようとはしなかった。
きっとそれはお互いが、今この場を離れてしまったらなんだかすれ違ってしまう気がしているからだった。
羽花は自分自身に原因があることはわかっていた。
帰宅が遅くなったこと。珍しく鳳莱家に足を踏み入れたこと。決意で兄との接し方がわからなくなってしまったこと。
一言、「帰るの遅くなってごめんなさい」と言えばいいのだろうがその先の話は?
鳳莱家に上がり込むなんてあの日以来無かったのだから、これだけで何かがあったと言っているようなものだ。
それにもしかしたら既に茉莉姉から話が通っているのかもしれない。
頭の中をぐるぐる駆け巡る沢山の可能性に、羽花の口は完全に閉ざされてしまっていた。
そんな羽花に救いの手を差し伸べたのはやはりこの人だった。
「お疲れ、羽花ちゃん」
寝そべっていた上体を起こし、優しく頭に触れたその手から温もりが伝わってくる。
「ありがとう」
無意識に、すんなりと口を飛び出したその言葉に力を借りて朝陽を振り返った。
「遅くなってごめんなさい。
心配、かけたよね」
「いや?俺もレポートやってたからなぁ。
無事に帰ってきてくれて何よりだよ」
頭に触れていた指を上下させ、一定のリズムを刻む。
その音に共鳴するかのように音を立てる心臓に気が付かないふりをしながら羽花は思った。
――本当は知っている。
正統後継者が生まれて、任務に出る回数が減ってゆっくり眠れるというのに、皆起きて待ってくれていること。
今日だって、きっと私の帰りを寝ずに待っていてくれたのだろう。
「ごめんなさい」
二つの罪悪感からその言葉が口から零れる。
「ん、俺もごめんな」
ぐしゃぐしゃと髪の毛を乱し立ち上がった朝陽は、空になったコップを持ち台所へ向かった。
「そろそろお昼だし、焼きそば作るから待ってて」
朝、「お昼用に焼きそばの材料あるからね」と母親からの伝言を思い出し、朝陽は羽花に声をかける。
ちょうどその時、高校の冬期講習を終えた優美も居間に顔を出した。
「お姉ちゃん、おかえり」
「優美、おかえり」
二人へ頭を下げた優美は、早速手を洗い朝陽の横に立った。
「朝陽さん朝までレポートやってたじゃないですか。
羽花さんも任務でしたし、私が作るので休んでいてください」
「それを言ったら優美も学校だったろ?」
「私は午前中だけですから」
「じゃあさ!」
言い合う二人の間に顔を覗かせた羽花は、明るく声をかけた。
「みんなで作ろうよ!」
トントンと心地よく響く包丁の音。
食欲を掻き立てるフライパンの音。
その中で三人の術者が肩を並べ、昼食の焼きそばを作っていた。
任された具材を一通り切り終え洗い物をしている朝陽は、フライパンの中を覗き込む二人の妹を見つめた。
「もういいかな?」
「はい。ソースをお願いします」
「半熟卵乗せたくない?」
更に良い音を上げ、ソースの香ばしい香りが台所中に漂った。
※ ※ ※ ※
食欲をそそる香りに釣られたのか、朝陽の服を掴む小さな手。
「ん?どうしたー、羽花ちゃん。
危ないからあっちで待っててな」
「もうできる?」
「できるよ。優美にも教えてあげて」
「わかった!」
パタパタと小さな足を動かし、向こうの部屋に姿を消した妹を確認し朝陽は火を止めた。
その隣の台に火をつけようと腕を伸ばした時、その声は聞こえてきた。
「お兄ちゃん!お姉ちゃんもつれてきた」
「なんで!?」
グリンと勢いよく顔を向けた際変な音が鳴った気がするがそれは置いておこう。
振り返ると予想通り五歳の羽花に手を引かれ不思議そうな顔をしている八歳の優美がいた。
困惑しているその目と視線が合い、苦笑いする。
「ごめんな、優美ちゃん。
話がうまく伝わらなかったみたいだ」
「いえ。それよりちゃん付けやめてほしいです」
「できた?」
自分より遥か高い位置にあるフライパンに手を伸ばす羽花に気が付き、咄嗟に抱き上げる。
「こら、危ないよ。熱いから、手痛くなるからね」
「うん」
「これ、目玉焼き作ればいいんですか?」
二つ並ぶフライパン。片方には湯気を立てる焼きそばが入っているがもう片方は空だった。
それを指指しながら、台に置かれた三つの卵を見つめ優美は口を開いた。
「半熟のな。作ろうと思ったら二人が来たんだよ」
「私がやるんで、羽花さんと遊んでいてください」
朝陽の手を引っ張り声をかけ続ける羽花に痺れを切らしたのか、優美は袖口を捲り上げ卵を手にした。
「いいのか?助か」
ガチャンッ
三人の間には静寂が訪れた。
フライパンの前に立ち卵を手にした優美の足元には、落下の衝撃で見るも無残に形を失った生卵が床に広がっていた。
「す、すみません」
「いいって。それより大丈夫か?」
勢い余って手をすり抜けた卵を処理しながら、朝陽は優美を見上げた。
「はい、私は」
「俺が片づけるから、優美は進めておいて?」
「はい」
グシャ
明らかに成功しているとは言えないその音に、またしても三人の動きが止まった。
恐る恐る立ち上がりフライパンの中を覗くと、そこには粉砕した殻がトッピングされた生卵が、火の熱により固まっていく様子が確認できた。
「優美」
「はい」
「羽花ちゃんもおいで」
「なに?」
「卵はこう割るんだ」
手本を見せながら、フライパンの中には綺麗な目玉焼きが二つ並んだ。
多少のハプニングはあったが、何とか美味しそうに出来上がった焼きそばを前に三人は声を揃える。
「頂きます」
箸を入れると、とろりと流れ出る卵黄に目を輝かせながら口へ運ぶ二人の妹を、朝陽は優しい眼差しで見守っていた。
「朝陽さん、すみません。殻入っていないですか?」
「ん?さっき取ったから大丈夫だよ」
「それに半熟じゃないですし……」
「充分美味しいよ、ありがとな」
優しい目を細め、笑顔を見せる朝陽から視線を逸らした優美は、麺に絡まる艶やかな色を眺めながら言った。
「私も、出来るようになるでしょうか?」
そんな優美の頭を撫でながら、兄は答えた。
「なるに決まってるだろ」
※ ※ ※ ※
「出来た!!」
あの日と同じように、机に並ぶ三つの焼きそば。
全く同じ光景で食べ始めたこの懐かしい感覚に朝陽の視線は奪われた。
手当たり次第に手を伸ばしていた羽花、卵を上手に割れなかった優美が作ったこの焼きそば。
箸を入れると、艶のある卵黄がとろりと湧き出し、麺に絡みつく。
それを一口口に含み、朝陽は思った。
「いつの間にか、こんなに大きくなってたんだな」
朝陽自身だってあれから月日が経ち、大学生になった。
羽花だって中学生、優美も高校生だ。
もう兄に守られ、助けられていただけの妹ではない。
あの日と同じように、作った焼きそばを三人で囲んで食べるこの時間。
朝陽が作った焼きそばが、三人で作った焼きそばへ。
そして優しい眼差しで妹を見つめていたその目は、寂しさが加わった眼差しへと。
常に進み続ける時間は、休む間もなく人々の在り方を変えていくのだった。




