世界の在り方-2
「お主、名は?」
若匡は静かに相手に問いかけた。
「キヒヒヒヒ、なんだぁ?
自分の命を仕留めた奴の名前をそのチビ達に残していくのかぁ?」
無様だなぁ、可哀想だなぁ、一人泣き真似をしながら笑っていた熊は自ら生成した火の玉に乗り、とうとう空中戦に参戦してきた。
しかしそんな熊の行動にも驚く素振りを何一つ見せることなく、堂々と向き合う若匡の目は真剣そのものだった。
「残念だなぁ、もう戦うことを諦めたのかぁ?
お前が死んだらチビ達も死ぬんだぞぉ?
あの”噂”が本当なら、俺すごいことになっちゃうんだろぉ?
あ、俺の名かぁ。
いいぜぇ、教えてやるよぉ。
せいぜいあの世でずっと恨み続けたらいいさぁ。
俺の名は――嘗胆。
じじぃ、これがお前を殺す男の名前だぁぁぁぁぁぁ」
嘗胆、これがこの巨体な熊の名前だった。
彼は若匡を仕留めるべく、自らの所持している力――――その全てを凝縮し、今までにないほどの質量の炎を自分を見つめる若匡に目掛け放った。
地上戦を得意とする嘗胆が、不利な空中で戦うには体力も力も消費が激しい。
まさに一発必中を狙った大きな賭けだった。
嘗胆は強い。
大きな体を操るセンス、それに伴う体力、パワー、相手の動きを追う動体視力、標的を的確に狙うコントロール。
全てが均等に備わった彼の一撃を躱せる者はそうそう現れないだろう。
「時属性 従二位 時時刻刻」
しかしそれは鳳莱若匡を除いた場合である。
その瞬間若匡に目掛け一直線に飛んでいた炎は消失し、代わりにある音が空間を支配する。
「あああああああ……!!!いったい、い、いた、い」
先程まで空中にいた嘗胆は炎の海に溺れ、何かを振り切るようにのたうち回る。
【時時刻刻】『時』属性に属する術者の天力によって生み出される技。
経過していく時刻の一刻一刻を表す。
また間を置かず、引き続いている様。
これらの意味から、この術は過去・現在・未来――――全てのあらゆる時間に設定することが可能であり、自分有利に戦いを進めることが出来る。
基本的に火の力を持つ者が、自分の生成した火にマイナスの影響を受けることはない。
同じ力を所持している同士の戦いの場合自分以外の力の影響を受けることがあっても、自らの力が自身を攻撃することは絶対にありえない。
これが力を持つ者と力本来の一種の契約なのである。
「あ、いたっ、助け……ぎゃああああああ、いたい、いたい」
苦しんでいる声が響き渡るが、火の海に飲み込まれている嘗胆の姿は誰一人目視することは出来なかった。
「なぜあんなにも強いお主が負けたのか。
簡単なことじゃ」
そうして若匡は、勢いを無くした炎が生成した灰が風に乗り遠くへ飛んでいく中、全身から血を流し浅い呼吸を繰り返す火の使い手にこう告げた。
「いくら強かろうと、頭がキレようと。
必ず勝てると保証される戦いというのは一つもないのじゃ。
相性、相手の出方、相手の力、互いのコンディション、タイミング。
すべてが複雑で、使い時によってそれは吉とも凶ともなる。
自分は強いから、出来るからと自信を持つのはたいそう立派なことじゃが、必ず勝てると慢心している時点でお主には足を掬われる未来しか残っていないのじゃよ」
細められた真っ赤な瞳がどこを向いているのか、もう誰にもわからない。
それでも静かに片耳を傾け、男の声を拾っているようだった。
果たしてこれは本人の意志なのかは定かではないが。
「古傷があるのならば、とどめを刺すのに好都合。
儂の属性は『時』。
自由自在に時を操り、対象物の流れを操る。
その時その時有効な時間を設定する儂の術式。
相手の肉体を時間を進め老化させ、反対に傷口の時間を巻き戻す。
傷を負った直後の時間に戻せば、あの時感じた痛みが蘇る。
当時より衰弱した肉体に来る衝撃は相当の物じゃろう」
砂を踏みしめる音が聞こえ、腕を伸ばせば届く範囲に若匡が来ても嘗胆が体を動かすことはなかった。
その光景を静かに見つめ、男は懐から小さな紙切れを取り出し横たわる大きな体の上へ飛ばす。
紙切れの乗った大きな体からは心臓に木の幹が突き刺さり、首には縄が何重にも巻き付けられていた。
先程まで不気味なほど大量にあった全身の眼球は存在を失ったかのようにぽっかり穴が開いているものもあれば、静かに閉じられまるで切り傷のように細い線として刻まれているものもある。
「鳳莱|若匡――――これがお主を仕留めた男の名じゃ」
やがて紙切れが青色の光を放ち、嘗胆を取り囲むように結界を作りあげた。
それを確認した若匡は空中に飛び、本日初めて自分の意思で幼い二人を嘗胆のそばへ下ろす。
いつ自分に襲い掛かってくるのかと震えていた二人だったが、何分経っても微動だにしない自分よりも遥かに大きい体を見て、張りつめていた空気が少しだけ和らいだように見えた。
その間、若匡は一切口を開こうとしなかった。
今日連れてきた三歳の子供達が、この光景を見て何を思い、何を考え、どのような答えを出すのか。
それを後ろから静かに見守っていたのだった。
目の前で青色に光る結界は、水のようにゆらゆらと心もとなく揺れている。
「……おみず?」
少しでも触れてしまえば瞬く間に崩れてしまいそうな結界に、羽花は少しだけ興味を持った。
その結界を気に留めることなく背を向け、小さな二つの手を取り若匡は歩き出す。
「あとはお前達の兄姉に任せて帰るのじゃ」
手を引かれながら二人は後ろを振り返る。
先程まで水のような膜に囲まれていた嘗胆の姿は、結界内に巻き起こる濃い霧によって見ることが出来なかった。
そして数秒後やっと晴れたその空間には、まるで今までの一連の出来事がなかったかのように平坦な地面が続き、公園の淵に植えられている木々は風に揺られ穏やかに笑っていた。
羽花は目を見開いたが、誰もそれに気がつくことはなかった。
そして羽花自身も
「クマさんはどこにいったの?」
そんな疑問を口に出すことはなかった。
幼いながらも理解していたのだ。
節分に行われる豆まきのように。
しかしこれはお面をつけた父親に豆を投げつける、そんな楽しいものではない。
最後に「楽しかった」と笑いあえる、そんな素敵なことではない。
両者の、そしてこの世界に住む数えきれないほどのたくさんの命を懸けた戦いなのである、と。
敗北者にはこの世界に存在することすらも許されない。
誰の目にも触れぬよう姿、形ごと消されてしまうのだ、と。
幼い二人が見慣れぬ公園で笑いあっていた時から早数時間。
この空間に無邪気な笑い声はもう響かない。
これは何も知らなかった幼い二人――――蓮水羽花、鳳莱翔が自分達の役目を生まれて初めて理解した瞬間だった。
※ ※ ※ ※
「だいじょうぶ?」
「……つーくんは?だいじょうぶ?」
「うん」
到着した羽花の兄、翔の姉はどちらも今年十歳になる七つ歳上。
その二人に何かを伝えている若匡の姿をぼんやり見つめながら二人は言葉を交わす。
「………今のままじゃすぐにやられる」
「うん」
「強くならなきゃ、だめだ」
「うん」
「あのクマみたいな奴が来ても、もっと強くて大きい奴が来ても、爺ちゃんみたいに戦ってたおせるようにならなきゃ」
「こーら、早く帰りなさい」
翔は自らの決意を口にし意気込むように立ち上がる。
その隣で未だしゃがみ込みながら羽花はそれを静かに受け止めていると、そこに割り込んだ少女が一人いた。
彼女もまだまだ幼いが、羽花や翔に比べると七つの差は大きく、頼もしい存在感を放っていた。
これは年齢のせいか、はたまた彼女の持つオーラのせいか。
「お姉ちゃん!」
翔はいつも自分の先を行き守ってくれる姉の登場に、肩の力が抜けたようで元気に駆け寄った。
そこにもう一人の乱入者が現れる。
「怖くて動けないんじゃなかったのか?」
ニヤニヤしながらこちらへ歩いてくる少年は正真正銘、羽花の七つ歳上の兄である。
彼は爽やかなルックスとは裏腹に、黒いオーラを放ちながら幼い少年を弄り始めた。
「もう!しつこいよ!!
そんなことない。強くなって悪いやつらをやっつけるんだ」
羽花はハッと顔を上げ、翔を見上げた。
しかし背を向けている翔はその事に気づいていない。
「お姉ちゃんよりも、朝兄よりも」
「おー、それは楽しみだな」
「すぐに抜かすからゆだん?しないでよ。
ね、うーちゃん」
「……うん」
二人の対照的な態度に十歳コンビは顔を見合わせる。
「どうした、羽花ちゃん。
怖かったのか?大丈夫だぞ」
いつもと違う妹に一早く反応した兄は羽花よりも一回り大きな手で、小さな頭を優しく撫でる。
「………こわくは、ない」
「そっか」
歯を磨いてから寝るのよ、なんて母親と同じことを言いながら二人は遠くへ走り去った。
入れ替わるよう歩いてきた若匡は再び小さな手を両手に取り、帰路につく。
「今日はここまでじゃ。
家についたらまずはゆっくり休みなさい」
※ ※ ※ ※
「おかあさん、お兄ちゃんはいつかえってくるの?」
家についた羽花はきちんと身支度を整え、布団に横になりながら隣にいる母親に問いかける。
母は考えるそぶりを見せながら、
「まだまだよ。
早く寝なさい、明日も保育園でしょ」
そう言いながら小さな体に布団を掛けなおした。
「お兄ちゃんも明日がっこうだよ?」
時計の針はとっくに日付が変わったことを示しており、羽花は未だに帰宅しない兄のことが気になって仕方がなかった。
それもそのはず、先程経験したあの恐怖。
大好きな兄の身に何か起こっているのではないかという不安で心臓が痛かった。
「朝陽は大丈夫よ。
だから安心して眠りなさい」
そんな娘を落ち着かせるように優しく抱きしめ声をかけた。
「うん、おやすみなさいおかあさん」
「おやすみ」
目を閉じて数分後、羽花の頭をひと撫でし、電気を消した母はそっと部屋を出ていった。
その音を確認した羽花は静かに目を開ける。
脳裏に焼き付いて離れないあの光景。
初めてみた化け物、身の毛がよだつ程の恐怖、死と隣り合わせのあの感覚。
そしてこれから自分は、それらと渡り合っていかなければいけないという現実。
再び心臓が不安と恐怖で激しく鼓動を打ち、羽花はとてもじゃないが眠れる様子ではなかった。
現実を拒否するかのようにギュッと強く目をつぶる。
泣くもんか、泣いちゃだめだ。
幼馴染が、生まれた時からいつも隣にいた彼はあんなにも強く前を向いていたんだ。
置いて行かれてはいけない。
それでも出来ることならば、今日見たあの光景が夢であってほしい――――そう強く願いながら羽花は意識を手放した。