世界の在り方
「まってよ!!」
時刻は九時をまわり、辺り一面には暗黒な世界が広がっていた。
まだ幼い声がその暗闇に響き渡る。
少年を追いかける同い年の少女を照らす街灯によって映しだされた影は驚くほど小さなものだった。
周囲の建物が大きなせいだろうか。
いや、違う。
彼女はついこの間三歳の誕生日を迎えたばかりである。
そして少女の声に立ち止まり振り返った彼もまた、あと二月で三歳になる同い歳の男の子であった。
二人の名前は蓮水 羽花と鳳莱 翔。
蓮水家三番目の子供にして次女の羽花と、鳳莱家同じく三番目の子供であり次男の翔は、同じ年に隣の家に生まれ落ちた。
一見偶然のようなこの事例はほぼ例外なく繰り返される、蓮水・鳳莱の両家にとっては自明の事実である。
代々伝わる書物にはこう記されている。
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この世界の平和を自らの命を懸けお守りする我々一族は、時を同じくして異なる性の赤子を授かる。
また一世帯に複数の赤子を授かった場合、どちらかの性に偏るという事実は未だかつて存在しない。
我々が命を受けた時から何千年と繰り返しているというこの事実はこの先も決して変わることはないだろう。
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この書にある通り羽花は七つ歳が離れた兄・三つ離れた姉をもつ三兄妹の末っ子、そして翔もまた同じ歳の差の姉・兄をもつ末っ子なのである。
「うーちゃん遅いよ。
爺ちゃんにおいていかれるじゃん」
「なんでお外にいるの?
暗いからお家かえろうよ」
いつもならば既に床に就いている時間だというのに外――それも家から少しばかり離れたこの土地に足を踏み入れているのには訳があった。
「こら二人とも何をしておる。
儂から離れたら危ないと言ったじゃろ」
「若爺、お家……」
「爺ちゃんぼくは大丈夫だから、うーちゃんだけお家にかえそう?」
初めて感じる夜の空気にすっかり怯えた羽花は今にも泣きだしそうな表情で見上げた。
若爺と呼ばれた男は怯えた少女を庇う孫の翔、そして対に生まれてきた羽花の姿を一瞥し首を振る。
「だめじゃ。
これは鳳莱家・蓮水家に代々伝わる大切なしきたりなのじゃ」
「し、きたり?」
聞き慣れない言葉に幼い二人は揃って首を傾げる。
「家の決まり、みたいなものじゃな」
「うか、お家にかえったら必ずうがいと手あらいしているよ!」
「ぼくも寝る前にちゃんと歯みがいているよ」
男は大きなため息をつきながら、首を大きく横に振る。
いつものように大きな手で頭を撫でてもらえると思っていた二人は目を丸くした。
「『二つの家に生まれた子供がどちらも三歳を迎えたら必ず任務に同行させ我々一族の責務を教育せよ』」
「うか、三さいになった!!」
「ぼくもう少しで三さい!!」
「ああ、だから今日ここに連れてきたのじゃ。
翔はまだじゃが、あと二月もすれば三歳になるからの。
早いに越したことはないんじゃ」
彼の名前は鳳莱 若匡。
御歳六十三歳。
両家の頭として下の世代をまとめあげる、蓮水家・鳳莱家の要である。
翔の父方の祖父であり、隣の家の羽花のことも本当の孫のように分け隔てなく可愛がっている。
「この家に生まれたからには、自身の一生を懸けてやらねばならぬことがある。
ついてきなさい」
聞き慣れない難しい言葉に顔を合わせ、今度こそ置いて行かれまいと小さな歩幅で先行く大きな背中を追いかける。
光に照らされた三つの人影。
この小さな二つの影が何百、何千年と続くこの大きな世界を動かす一歩を踏み出した瞬間だった。
「ねえ、つーくん。
さっき若爺なんて言っていたの?」
「わからないけど、約束は守りなさいってことだよ。
きっと」
「羽花、この間ね。
歯みがきしないで寝ようとしたらお母さんに怒られたよ」
「ぼくも昨日お姉ちゃんに怒られた」
「大変だね」
「ね」
まさかこの二人の存在が未来に大きな影響を与えることになるとは、ほとんどの生命はまだ知る由もなかった。
「ここ、どこ?」
翔の手を強く握りしめた羽花は辺りを見渡す。
自分達より遥かに大きく、夜の暗闇も相まって独特な存在感を放つ建物や木々を抜け辿り着いたのは、子供達が喜ぶあの場所だった。
「いつもと違う公園だ!!!」
初めて足を踏み入れる見慣れない光景に、二人は目を輝かせる。
「すごいよ、うーちゃん。
あれ、見て!ロケットの形してる。
のぼれるのかな?」
「つーくん、赤と黄色のたまごがあるよ」
「たまご?……あれ、たまご?」
「ちがうの?」
「近くに行ってみてみようよ!!」
見慣れない遊具、初めて感じる空気の冷たさ、いつもとは違う夜の町。
幼い二人の興味をひくには十分すぎる条件だった。
案の定初めて見る遊具にすっかり心を奪われた二人は、二色の謎の球体が並ぶ砂場へと仲良く駆け出した。
「こら、勝手な行動は慎むのじゃ!!」
若匡の突然の大声に肩を揺らし振り返った直後、先程まで視界を独占していた場所から鼓膜をつんざく低い音が聞こえた。
おそらく立ち止まっていなければあの場所で鉢合わせていたことだろう。
怒られた驚きからか、予期せぬ喧騒のせいか、はたまた――――
「来おったな」
目の前に現れた見たこともないおどろおどろしい姿のせいか。
羽花は大粒の涙を流しながら腰を抜かし、地面に座り込んだ。
「ヒュッ、ヒュウ、ッ」
思うように入って来ない酸素を求め口を開くが、そこからは空しい音が聞こえてくるばかりで求めているものは一向に手に入らない。
若匡はよほど場数を踏んでいるのだろう。
突然目の前に現れた巨体に一切怯むことなく静観している。
今この場でこのような冷静さを持ち合わせているのはこの男だけである、はずだった。
歳はわずか二歳。
まだ三つにも満たない小さな少年は同い年の少女の目の前に立ち、ジッとそれを見つめていた。
「うーちゃん、落ち着いて」
「ヒュー、ヒュー、ヒュッ」
「大丈夫、大丈夫だから」
そう言い聞かせる彼もまた手足が震え目には涙を浮かばせているが、自らの後ろで怖気づいている少女を守るため標的から目を背けることは絶対になかった。
「ふん、さすが儂の孫じゃ」
男は満足げに呟くと一歩足を踏み出す。
「そこでしっかりと見ておれ」
その言葉と同時に勢いよく地を蹴り、謎の巨体に向かって若匡は飛び出した。
自分の祖父が得体のしれぬ大きな塊に向かって走り出したところで翔はハッと我に返った。
「爺ちゃん……ッ!!」
大好きな爺ちゃんが自分達を守ろうと、あの大きな敵を倒しに行った。
このままでは爺ちゃんが死んでしまう。
小さくなる背中を何とか掴み止めようと恐怖を感じる体に鞭を打って声を張り上げた。
が、それも空しく若匡が動きを止めることはなかった。
「爺ちゃん!!…爺ちゃん!!」
しかし男のこの行動は幼い二人を守るためではなかった。
「お主は何者じゃ?」
若匡の問いかけに視線をこちらに向けた謎の巨体は、一瞬にして目の前に移動してきた若匡に目を見開いた。
数秒後何かを理解したように静かに目をつむると、その直後若匡の頬から一筋の血が流れ始めた。
「……刃物、じゃな」
一瞬の動き、両者の間約四メートル。
この距離が腕の僅か一振りで届くのか。
まず警戒すべきは、赤黒く腫れあがった前足から延びる鋭い刃。
鋭く、輝かしく真っ直ぐ伸びている様はまるで日本刀のようである。
若匡から流れる赤い液体を見て舌なめずりした巨体は初めて街灯のもとに姿を現した。
体長約五メートル、真っ赤に充血した目と同じく手足はどす黒く腫れあがり本来爪である箇所からは鋭利な刃物が延びている。
なぜ血を流す男を見て喜んでいるのか、それはきっと――――
「つ、つーくん……み、耳がっ」
「なっ、ない」
それはきっと自分の右耳とお揃いだからだろう。
街灯に照らされた謎の巨体は幼い二人も絵本で見たことのある、熊そのものだった。
大きな体、大きな口から覗く鋭い牙。
そこまでは二人の認識と一致したが、他があまりにも違いすぎて本当に熊なのか疑ってしまう程、目の前の黒い塊は異様であった。
左にはあって、右にはない。
周囲の状況を判断するための耳が引きちぎられたように存在を失い、そこからとめどなく血が溢れ出ている。
普通であれば過剰出血による貧血を起こし倒れてもおかしくないこの状況で何の反動もなく、むしろこちらに敵対心を真っ直ぐに向けてくる様子はまさに化け物である。
「はっはっはっはっは、良い様だなぁじじぃ」
突如聞こえた声に二人はより一層体を縮こまらせた。
「はっ、なんだ。
お主言葉が話せるのか」
「俺がそんな風に見えるのかぁ」
ニヤニヤ不気味な笑みを浮かべながら、熊は人間の言葉で若匡の問いに答えていく。
「いや、見ればわかる。
お主の力量は並外れておるからな」
「わかってるじゃねぇかぁ、じじぃ。
会話が出来ない奴なんて雑魚だぁ。
存在する価値すらねぇ」
顔を顰め唾を吐き出した巨体は視界の端に映る小さな存在に初めて目をやる。
「へっへ、あいつらが”噂”の二人だなぁ」
真っ赤に充血した二つの眼球がグルリと回転し、ある一点を見つめる。
「ヒッ!!」
熊が見つめた先にいたのは、この場ではおそらく一番の弱者である幼い二人だった。
再び舌なめずりした熊は、その大きさからは想像も出来ないほどの身のこなしで瞬く間に幼い二人の目の前へと姿を現した。
「よお、ようやく会えたなぁ」
身構える前に至近距離に現れた異物に二人は息を呑む。
「そんな邪険にすんなよぉ、傷ついちゃうなぁ」
身の危険をより一層感じた羽花にはもう口を開く余裕はなかった。
その悔しさからか、恐怖からか。
目の前の小さな背中に縋る手に力がこもる。
同い歳の二人、しかし片方はまだ三歳にも満たない。
歯を食いしばり必死に足に力を籠めているが、羽花同様その目は恐怖に支配されていた。
体が強張り、目を見開き、とてもじゃないが相手に一撃を加えられるようには見えなかった。
「そんなことはわかりきっておる」
若匡は孫を見つめそう小さく呟き、両手の皺を合わせる。
そして右手を動かした瞬間、その声は聞こえた。
「も、もう傷だらけじゃん!!」
「はぁ?」
「傷つくとか言って、傷だらけじゃん!!
そんな大きいくせに……よわいんだ!!?」
「おい」
自分の言葉を口にすることで精一杯な彼に熊の声は届いていない。
そのせいで翔はとうとう地雷を踏んでしまったことに気づいていない。
「ださいね」
熊はぴたりと動きを止め、ぶつぶつと何かを繰り返す。
次の瞬間、真っ黒な毛並みに覆われた全身、頭のてっぺんから足の先まで複数の眼球が現れる。
「おい。
いくら”噂”のお前らでもよぉ、口の利き方気をつけろよぉ?」
全身の何十もの不気味な瞳が一斉に周りだし、その動きを止めた瞬間幼い二人の体は宙に浮いた。
「爆」
凄まじい爆音と共に地面に大量の炎が上がる。
数秒前まで自分の居たところから火が上がっているのだ。
今までとは比にならない程、二人は命の危険を感じた。
爆音が鳴る寸前、若匡が震える二人を両脇に抱え空中に避難したことで、羽花と翔はあの炎に巻き込まれることはなかった。
空中に浮いているが、今の二人にとって気にしている余裕はない。
そんな三人を目掛け、あの恐ろしい爪先が牙をむく。
しかし若匡はどこまでも冷静だった。
鋭い刃がどこに来ようと、寸分の狂いもなく躱し続ける。
「キヒヒヒヒ、逃げるだけかぁ?」
飛翔、その声が聞こえ再び炎が姿を現す。
先程と違うのは地面が燃え盛るのではなく、空中に火の玉が飛んでくるということだった。
「おいおい避けるだけなんて、お前の方がよっぽど弱いじゃん」
蔑み笑う熊の調子に比例し、地面は全て炎に包まれ、どこにも本来の土がなかった。
こちらに飛ばされる火の玉はスピードも数も先程とは段違いに進化している。
周囲の木々や草が燃え、次々と生成される灰が爆発音と共に宙に舞い、三人は各々目を瞑る。
「爺ちゃんっ!!」
その瞬間若匡の後ろ髪が刃に触れ、ハラハラと炎の海に落ちていった。
そのことに真っ先に気が付いた翔は、揺れる視界で自分を抱きかかえる若匡を見つめる。
「大丈夫じゃ、心配するでない」
男はどれくらい抱きかかえていたかわからない二人をようやく腕から下ろす。
空中に作られた空間に下ろされた二人はなぜ浮いているのか疑問に思ったが、口にすることはなかった。
「いいか、よく見ておくのじゃ。
”しきたり”というものを」




