信じてください
「羽花さん、大変です」
稽古を開始しようとピリカに向き合うこと数分。
ただひたすら羽花の顔を見つめ佇むピリカに何か作戦があるのだと静かに見守っていた羽花だが、一向に動きを見せない彼女に不安感が募りおずおずと口を開いた。
その瞬間焦るわけでも、落ち着いているわけでもない――無表情のピリカが抑揚のない声でそう発した。
「な、にが?」
まるで人が変わったように笑顔を消した彼女に軽く恐怖を覚え、羽花は上ずった声で問いかける。
しかしその声は当の本人には届いていないようでピリカはぶつぶつと何かを呟く。
謎が晴れないまま、気まずさからそんな彼女を見つめていると、徐々に下を向いていた顔をガバリと上げ困ったように眉を下げる。
「私、人間様の体の構造がわかりません」
暫くの沈黙が、二人の間には流れた。
誰もこの空気を切り裂く者はいない、なぜならこの空間には二人以外の命はいないのだから。
「あ」
その時羽花は何かに気が付いたように声を上げ、不思議そうに見つめるピリカの前にそれを差し出す。
いるじゃん、まだ。
「それは――」
ピリカは掌の上で丸くなる小さな命に気が付き、目を見開く。
当然のことだった。
ピリカがよく知る世界の、よく知る人物の”所有物”だったのだから。
「そのリス、傀儡の」
「うん」
「どうしてあなたがそれを?」
不思議そうでいて、訝し気な眼差しに気が付き羽花は笑みを浮かべた。
「違うよ、ピリカが想像しているようなことじゃないよ」
その言葉を聞いて安心したように息を吐いたピリカはもう一度リスに視線を向けた。
目を覚ましたハナは体を伸ばした後、大きく口を開ける。
潤んだ瞳が自身を凝視する少女を映した時、ハナはぴたりと動きを止めた。
「あら?」
目を丸くしたピリカだが、すぐに「そう言えばそうでしたね」そう呟き羽花に問いかけた。
「それでどうして、」
「雪が私に託してくれたんです。
傀儡さんとの戦いの時、私は力も体もボロボロで完全なる負け戦だった。
雪はそんな私にこの子を――ハナを連れてきてくれたの」
「ハナっていうのね」
その小さな体に優しく触れたピリカの手が、ハナの動きを感じることはなかった。
すんなりと手を戻したピリカは何やら考え込み、再びこの公園には静寂が訪れた。
ピリカの視線が外れた瞬間、身震いし肩に飛び乗ったハナは羽花の首元に擦り寄り力を与える。
「まだ大丈夫だよ、ハナ」
小さく鳴いたハナだが、次の瞬間再び動きを止め石化する。
その原因はピリカの視線が向いたことによるものだった。
ピリカはジッとその光景を見つめ、小さく声を漏らす。
「……わかりました」
「え?」
「わかったかも、しれないです」
「それって――」
「でも肝心なもう一つがわからないのです。
少しお時間頂けますか?」
ベンチに腰掛け膝の上にハナを乗せた羽花は、公園の中央で顎に手を当て固まるピリカを見つめていた。
彼女がここまでしてくれる理由が知りたかったのだ。
憎めない、と言っていた彼女は過去に何を経験したのだろう。
そして今何を思っているのだろう。
魔界に住む以上、人間である私は敵であって。
私に稽古をつけてくれるということは、敵に塩を送っているということで。
私が実力をつければ苦しくなるのは自分の味方だというのに。
「どうしてここまでしてくれるの?」
この問いかけはどこまでも繋がる広い空間の中に消えていった。
ようやく顔を上げたピリカは羽花の名を呼んだ。
立ち上がった羽花の掌には石化したハナが乗っている。
ピリカはそれを一瞥し、勢いよく頭を下げた。
「このようなことをお願いしていいものか、正直迷いました。
でもどうしても頼みたいのです」
頭を下げながら真剣に語るピリカの次の言葉を先の見えない緊張感で待った。
「どうか今回だけ見逃していただけませんか?」
「いいよ」
あまりの即答に、ピリカは口を開け顔を上げた。
「え?」
「何、その顔!ピリカが言ったんだよ?」
ケラケラ笑う羽花に、ピリカは困惑した。
魔物と人間が出会ったら結果は勝つか負けるかのどちらか。
「休戦しましょう」なんてことは絶対にない。
互いがプライドをぶつけ合い、命を懸ける。
その意思を持たないものは異門を潜ってはいけない。
それが長年続いてきたことで、この先も変わらないはずなのにどうしてこの子は。
ピリカは理解できずに固まるしかなかった。
笑いすぎて滲んだ涙を拭った羽花は優しい笑みを浮かべ言った。
「私は術者だけど、戦いたいとは思わない」
あぁ、雪くん。
今ならわかります。
ピリカは心の中で亡き仲間への言葉を送った。
仲間、とは違いますね。
だって貴方と私達は根本が違いますから。
貴方はどちらかというと人間サイド。
ずっと頑なに受け入れてこなかった存在を、どうしてあなたほどの実力のある魔物が尊敬しているのかわからなかった。
初めて出会った新しい人間。
私達が何もしていなくても、姿を見ただけで祓おうとしてくる術者ではなく、一度敵意を向けた私達でさえも平等に接してくれる人間様。
ピリカは完全に羽花を信じた。
彼女は絶対に裏切らないという自信がピリカにはあった。
「羽花さん、私は絶対に戻ってきます。
だから今日は魔界に帰らせてください」
「うん、大丈夫だよ。
そんな約束がなくったって、好きなだけむこうにいていいんだよ」
「でも、」
「私は人間を襲う意思のない人を祓おうとは思わない。
悪意のない人を憶測だけで判断して、傷つけたくないの」
ピリカはその言葉と、羽花の表情に心を掴まれた。
痛む心臓を抑えながら、ゆっくりと息を吸った。
長年、この世界の人達と数えきれない程戦ってきたからわかる。
この子はこの世界には向いていない。
苦しいだけ、辛いだけ、心が死んでいくだけ。
これだけの優しさを持っているのなら早くこの世界から身を引いた方が幸せになれる。
そう思ったピリカは遠回しに伝えようと顔を上げたが、その表情を見て言葉を飲み込んだ。
「野暮……ね」
「ん?何か言った?」
「いいえ、何ともないですよ」
ピリカが見た決意の顔。
優しい目の奥に密かに燃え続ける闘志。
その灯火は決して消えることはなく、日に日に勢いを増していく。
その炎に当てられたピリカは、自身の心も奮い立たせ異門の入口に立った。
後ろには術者がいる。
現実味のない光景に違和感を感じながら、彼女を振り返った。
「魔界で人体について調べてきます」
「行ってらっしゃい」
逃げる口実だとは一切思わないのだろう。
満面の笑みで見送った羽花の笑顔を思い出しながら、先程感じた思いを吐き出した。
「幸せは自分で選び掴むものであって他人に指図されるものでは無い、本当にそうですね」
実際に、羽花さんにとっての幸せが術者を離れることならば私は全力で説得する。
けれどこれは私のそうであって欲しい気持ちの押しつけ。
体格、性格に個人差があるように、幸せにも差があると私は思う。
だから私は初めてであった優良な人間様に幸せが訪れるよう、
「私の幸せも、日常も全て捨てる覚悟で、私はこの選択を致します」
ピリカのその決意は二つの世界を繋ぐ通路に吸い込まれた。
この決断が両者に出のような変化をもたらすのか、それはまだ誰も知ることが出来ない、未来のお話。




