傘をどうぞ
私は雨が嫌いだ。激しい雨音は、子供の頃捨てられていた犬を思い出す。今朝はそんな激しい雨音で目が覚めた。低気圧の影響なのかわからないが、頭が重くぼんやりとする。部屋の中で目覚ましが鳴り、30分もボーッとしていたことに気づく。私は目覚ましを止め、ベッドから起き上がった。
「雨か」
カーテンを開けると、窓ガラスに水滴がついて流れているのをみながらつぶやいた。
「今日の天気は一日中雨でしょう。それでは交通管制センターの……」
ラジオをつけると、天気と交通情報が流れてくる。顔を洗い、炊飯器に入っている昨日のご飯でおにぎりをつくる。子供の頃は嫌いだった梅干しは今では欠かせない食べ物になっている。梅おにぎりにして、少しの塩。毎朝は緑茶を飲み、おにぎりを食べてからでかけるのが日常だ。
「よし」
支度を終え、ラジオの電源ボタンを押して静かになった部屋の電気を消した。
「いってきます」
誰もいない部屋に挨拶をして玄関の鍵をかけ、傘をさし、駅まで歩きはじめた。
「いらっしゃいませ」
私の仕事は喫茶店のウェイターだ。コーヒーと軽食を提供している昔ながらの喫茶店。店内を流れるBGMはJAZZミュージックがほとんどで、おしゃれというよりかは、中高年向けのゆったりとした雰囲気をしている店だ。
「お好きな席へどうぞ」
この店のお客の層はサラリーマン、主婦、年寄りがほとんどだ。
「ご注文はお決まりですか?」
うちの店は晴れの日より雨の日のほうがお客の入りが良い。雨の日のメニューが美味しいと常連客が口を揃えてマスターに言っているところをよく聞く。
「お待たせいたしました。コーヒーとサンドイッチです」
いつもどおりに接客をしていると、店のドアがベルをならして一人の客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
そう言いながらドアへ向かうと、びしょ濡れになった男性が入ってきた。朝から雨が降っていたのに傘も持っていなかったその男性は濡れながらうちのお店に着いたのだろう。ロングコートに水滴が床にひろがり水たまりのようになっていく。
「お客様、タオルをお持ちいたしましょうか?」
ずぶ濡れの男性は下を向きながら右手をかるく上げた。
「すまないね」
もし断られたとしても、この男性があるいた床やこれから座るソファーがびしょ濡れになってしまうので、聞いたところでタオルは用意するつもりだった。私は足早に店の奥から洗濯した白いタオルを何枚かとると、ずぶ濡れになっている男性のもとへと急いだ。そして少しでも風邪をひかぬように、店の側面にあるエアコンのパネルをひらき、温度を上げた。濡れた体に冷房が効いた喫茶店はさぞ寒いであろうと思ったからだ。
「お客様、どうぞ。あちらの席をご利用ください。ご注文が決まりましたらお呼びください」
私は他のお客から見えない窓際の角の席を案内した。タオルを渡しながら注文は後ほど聞きに行こうとおもっていたが、男性はすぐに注文をした。
「ああ、アメリカンコーヒーで」
「かしこまりました」
厨房にはいり、いつもどおりマスターに声をかける。
「マスター、アメリカンを一つ」
「了解」
マスターが入れるコーヒーの香りは独特だ。常連客は私よりもマスターが入れたコーヒーが飲みたいというくらいだ。
「お待たせいたしました」
私は男性にコーヒーを持っていったら、男性は拭き終わったタオルを畳んでいた。
「これ、ありがとう。助かったよ」
「はい、空調が寒かったらおっしゃってください」
「ああ、わかった」
男性は私が渡した白いタオルを返してきた。それから男性はゆっくりとコーヒーを飲み、外を眺めていた。私は他のお客の注文や片付けなどをしていた。雨は止むこと無く降り続けている。朝からの頭の痛みがとれないが、こんなことなら頭痛薬を飲んでくればよかったな。おの店に常備薬箱に入っていたか。
「会計を」
目を閉じていたらいつの間にか男性は私のすぐ後ろまで来ていた。足音もしなかったので、少しびっくりした。
「気づかずすみません。お会計はこちらで。450円になります」
「コーヒー、美味しかったよ。マスターによろしく」
マスターによろしくということは、知り合いなのだろうか。
「ありがとうございます。はい。伝えておきます」
会計を済ませドアを開けるとまだ雨は降っていた。雨音がはげしい。男性は空を見上げて苦い顔をしているように見えた。
「お客様、もしよければ傘をどうぞ」
私はとっさに言葉がでた。従業員用の出入り口からレジ前に移動させておいた自分のビニール傘を手渡した。
「君は、変わっていないね。何から何までありがとう」
男性は私をじっと見てそういった。私はこの男性と面識があっただろうか。誰かと間違われているのかもしれない。
「お気をつけて。ありがとうございました」
男性は私が渡した傘を受け取り、バサッと傘を開いて雨の中を歩いていった。私は店の中に戻り、男性が座っていた席のコーヒーを片付けようとすると、頭がズキッと痛みだした。カップとソーサーがぶつかる音が店内に響いてしまった。
「失礼しました」
一言つぶやき、片付ける。歩くたびに頭に鐘が鳴り響いているようだった。カップとソーサーを洗い場までもっていくとマスターに声をかけられた。
「お前、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
「すみません。大丈夫です」
「今日はもう客はそんなにこなさそうだから、先にあがっていいぞ」
頭痛は収まる気配がなかったので、マスターの言葉に甘えて少し早いがあがらせてもらうことにした。
「すみません。お先に失礼します」
「おう。ゆっくり安めよ。あ、そうだ。お前、帰り道に気をつけろよ」
マスターは私を見ず、なにかの雑誌を見ながら言った。
「はい」
雨はやむことはなく降り続いている。私は自分の傘をさして自宅へと帰る。寄り道している余裕もないくらい雨風は地面に叩きつけてくる。雨の音で他の音が聴こえてこない。こんな雨は久しぶりだ。いつだったか、こんな大雨の日にびしょ濡れになった大きな犬がいたな。あの時小学生だった私は自分の傘を犬の入っている箱にかけて濡れないようにして帰り、びしょびしょになった記憶がある。びしょ濡れだし傘もないしで、母親に怒られたな。懐かしい記憶だ。いつもどおりの道を歩き、近所の公園を通り過ぎた。ふと女の人が向こうから歩いてくるのがわかった。傘もささずにびしょびしょになって歩いてくる。なんだか嫌な予感がしたが、痛みで頭が働かず、引き返すことをせずにいそいで通り過ぎようとした。足早に女とすれ違った瞬間、いきなり腕を掴まれた。すごい力で振りほどけなかった。
「ちょっ、と、痛っ」
傘を持つ手を掴まれ、振りほどけず、傘を道路へ手放しびしょ濡れになりながらも女の手を振りほどこうとした。その拍子に体の体制を崩し、尻もちをついてしまった。ズボンもパンツもびしょびしょになってしまった。しかし、そうもいっていられない。女はいきなり私の首に手をかけはじめる。よく見ると、女の顔は歪んでいた。爪が首に食い込み息をするのが苦しくなっていく。マスターの帰り道気をつけろはこのことだったのかとぼんやりした頭の隅でそんなことを考えていると、雨音の中に走ってくる足音がバシャバシャと聞こえた。
「やめろ!」
男の声がしたと思ったその時、バサッとビニール傘が女の頭をめがけて振り下ろされるのが見えた。女は異様な叫び声をあげてゆっくりと消えていった。女の手が消え、私は咳き込みながら大きく呼吸をした。顔を上げ、うっすら目を開くと、先程喫茶店にきていた男性だった。
「大丈夫ですか?」
男性は私に声をかけた。
「あなたは、先程のお客様」
「よかった。間に合った」
男性は私が渡したビニール傘を持っていた。
「すみません。助かりました」
かすれ声で礼をいうも体に力が入らず、男性は私の体を支えた。
「家まで送ります」
男性の声が耳に届くも朦朧とする自分はなんとかこっちですとかここですと力なくつたえることしかできなかった。雨が体を冷やしていく。ようやくアパートの玄関前まできて、私は玄関の鍵すらも開けられず、ポケットに手をやるも男性がポケットに手をつっこみ鍵をとりだし、開けてもらった。
「何から何まですみません」
私は小さく男性に伝えた。
「いえ、大丈夫です」
男性は玄関を開けて、私の靴を脱がせ私の体をかかえながら、自分の靴も脱ぎ、風呂場まで連れて行ってくれた。目も開けていられないくらいの疲労感と雨で冷え切った体に、男性は洗面台にあったタオルで私の頭や体を拭いてくれていた。すみませんと言いたかったが口を開けることもできず、そこまでの記憶はあるが、そこからは目を閉じてしまって、開けることができなかった。そして目を閉じたと同時に体も眠ってしまったようだった。
雨の音がする。目覚めたら朝になっていた。頭痛もなくすっきりとした目覚めだった。スマホのアラームが鳴り、いそいで止める。頭はクリアだが、昨日の記憶はあやふやだ。
ふと、この部屋に自分以外の何かがいることに気づいた。物音というか寝息がした。部屋の隅に体育座りをしながら寝ている男性がいた。昨日、私を助けてくれた男性だった。私は男性が起きないようにそっとベッドから起きて、水を飲みに行こうとキッチンへ歩く。蛇口を上げて、水がコップにつがれる音で男性は目が覚めたようだった。
「あ」
「おはようございます」
私は男性に挨拶をした。
「お、おはようございます」
男性は戸惑いながらも挨拶をかえしてくれた。
「コーヒーいれますね」
私は自分用のマグカップと来客用のコーヒーカップを取り出し、コーヒーを入れた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、昨日はありがとうございました」
しばしの無言が続いた。私は意を決して言葉にする。
「あの」
「はい」
「あの、もしかして、以前、どこかでお会いしたことがありますか?」
「はい!」
突然、男性は目をキラキラさせて私に視線をむけてきた。
「すみません、私、記憶力があまりなくて、どこでお会いしたのか思い出せなくて」
正直のところ、記憶もなにもないけれど、会話の流れとして間違ってはいないと思う。
「私、以前、あなたに助けられたことがあるんです」
男性は話し始めた。
「え?助けられた」
「覚えていませんか?こんな雨の日に捨てられていた犬のこと」
「犬……」
子供の頃、大雨の中、ダンボールの中で横たわって捨てられている犬のことを思い出す。息も小さくて雨に打たれて、泣きながら自分の傘を置いて帰ったんだったっけ。
「思い出してくれましたか?」
「でも、あれはずっと前で、なんでそんな昔の犬の話を?」
「あの、私、あの犬だったんです」
現実味のない話に私の頭はついていけなかった。
「え?」
「私はあの時もう命が短かったんです。幼かったあなたに傘をいただいて、そしてこの世を一度去りました。そして人間に生まれ変わったんです。犬だったときの記憶が残っていたのは、きっとあなたに会ってお礼を言うためなんだと思いました」
男性は言葉を続けた。
「あなたは泣いていましたね。その涙がたとえ哀れみの涙だったとしても、その温かい涙が私の体に染み込んできました。その時、私は救われたのです」
私は男性の話を作り話にしては具体的な話で、自分の行動を覚えていたと思うと恥ずかしくて顔が熱くなってきた。
「そう、ですか」
「それに、あの喫茶店であなたに怪しい影がついていることに気付いて、いてもたってもいられず、少しストーカーまがいのようなことをしてしまいました。すみません」
「あの霊はあなたが祓ってくれたんですね。ありがとうございます」
「いえ、私、清掃業を営んでおりまして、その、別の掃除屋もしているもので」
「はぁ」
男性は立ち上がった。
「あの、おじゃましました。そろそろ仕事が始まるので失礼します。またお店にコーヒーを飲みに行ってもいいですか?」
「はい。ぜひまたきてください」
「ありがとうございます」
雨の日に出会った男の人。不思議なこともあるものだと思いつつ、今日も仕事に出かける。
「あの」
玄関のドアを開けて、男性に声をかけた。
「はい?」
振り返る男性に私は男性に傘を差し出した。
「傘をどうぞ」