寓意小説Ⅰ
昔ある所に、大変強欲な強盗がいた。
彼は私利私欲のために殺人や強姦を繰り返し、それを反省する素振りは一切なかった。
そして彼は兵隊に突き出され、他の罪人と同じように処刑を待つ身となった。
しかし、彼の牢にこっそり僧侶が忍び込み、彼を逃した。
その僧侶は国で最も徳が高く、最も慈悲深いとされる男だった。
強盗はわけも分からず連れ出され、逃がす代わりに話を聞いて欲しいと嘆願されるのだった。
「ここなら誰も追ってこないだろう。」
僧侶は男を寂れた寺に連れ込んだ。
「あなたは何故私を助けた?」
「話せば長くなる。」
僧侶は焚き木を囲って、強盗にくつろぐように促した。
強盗は困惑しつつも、男の身につける僧衣がいくらで売れるのか、男を殺して奪うか、自分を助けた事実をネタに強請るかを狡猾に考えていた。
しかし、一体なぜこんなことをしたのかを知れば儲け話になるかもしれないし、そもそも強盗にも興味がある話だから、しばらくは聞いてやろうというつもりになった。
「簡潔に言えば、罪滅ぼしのためだ。」
強盗は驚いた。罪人を野に解き放つことで、一体何の罪が償われるのか?
僧侶は語った。
「とにかく、私の生まれから知ってほしい。」
僧侶は豊かな地主の家に生まれた次男だった。
特に不満のある生活ではなく、村は平和そのもので、家を継ぐ必要もなく、ただただ余裕だけがあった。
そのため、彼はその時間全てを学問に費やし仏門に入った。
恵まれた自分の出自への負い目を貧しい人々に対して感じていたのもあった。
そして彼は素質に恵まれていたのか、どんどん頭角を現し、やがては京に上って朝廷で働くようになった。
男は優秀な生徒を輩出する学校を建て、役人にも誠実さを叩き込んだ。
彼のおかげで、宮は更に豊かになり、彼は誰からも讃えられる僧となった。
そしてやるべきことをし終わった後に、自らは引退し民衆にも仏の教えを広げることにした。
年齢のせいもあるし、窮屈な権力者同士の関係に飽きたのもあった。
民衆の下にやってきて、男は同じように仏の教えを広めた。
殺生をしてはいけない、よく学んで人に尽くすようにと。
また弱い者や罪人には慈悲の心を以て接し、苦しむ人を一人でも減らすようにと伝えた。
強盗は言った。
「つまり、その罪人への慈悲のために俺を助けたのか?」
「いや、違う。
お前はおそらくこれから先も悪行を積むだろう。」
「ならば何故?何かに利用するつもりか?」
僧侶は一息置いて、話を再開した。
男はその後、様々な土地を渡り歩いた。
現地の寺を激励し、飢えた人々に施しを行い、男は充実した旅を終え、そして京へと帰ってきた。
しかし、男を出迎えたのは驚くべき光景だった。
京のあちこちで、恐ろしいほど見窄らしい見た目の人々がいた。
そして道行く人々は彼らを明らかに避けて通っていた。行き先にいれば、罵倒し殴り倒していた。
その被害者の中には、老人も女子供もいた。
これはどういうことだ?私が伝えた、慈悲の思想はどこに消えた?
男はそれを見るなり一目散に朝廷に駆け込んだ。
その途中にも、同じような光景は果てしなく続いた。
男は決死の形相で大臣に問い詰めた。
あの街の惨状は一体何なのか、一体なぜあのような状況を放置しているのか。
大臣は言った。
殺生をやめるようにと言ったのはあなたでは無いのですか。
彼らはやめるように言っても殺生をやめなかった人々だ。
狩りを行ったり、動物の革を加工することをやめなかったのだ。
民衆も僧侶も役人も、あなたの教えを信じる心の正しい人々は皆彼らを憎んでいる。
だからこれは正しい行いなのだと。
男は言った。
確かに殺生をやめるように言ったのは自分だ。
しかし教えに反する人々だからといって、ここまでしていい謂れはない。
罪人にも慈悲を以って接するように伝えたのを忘れたのかと。
大臣は言った。
教えを守らない人々を罰すこともできなければ、誰もその教えを聞きはしないと。
男は言った。
彼らとて、好きであの暮らしをしているわけではない。
種籾と畑を与えてやれば、他の仕事を与えてやれば良いだろうと。
大臣は言った。
そんな金を出してやる余裕はないし、彼らの仕事は京に必要だと。
そして穢れが感染するのを防ぐため、彼らの一族は一生あの仕事をし続けるのだと。
男はもう何も言わなかった。
黙って、放浪し始めた。
差別される人々の視線は、教えを広めた男に対しては憎しみを込めたものにしかならなかった。
そして差別する人々も、これはあなたが言い出したことですよと、真っ青な顔をした男に不思議そうに返すだけだった。
「だから、お前のような私とは関係のない悪人としかこの話を出来なかった。」
僧侶は続けた。
「お前は救いようのない悪人だ。私の教えなどどうでもいいと思っているだろう。
だからお前以外の誰にも打ち明けることもできなかったのだ。」
僧侶はうつむいて、顔を手で覆った。
「お前が共感してくれるとは思っていない。
だが、他の者は話すことすらできないのだ。
私は後悔している。
私の行いは間違いだったのだ。私は何も考えずに人々に教えを広めてしまった。
そして『正しい仏の信徒』達を皆、罪人に変えてしまったのだ。」
強盗はただ黙っていた。
強盗にとって、彼の悩みは心底どうでも良かった。
話を聞いてくれるのなら何でもいいのなら、俺は一体何をすれば良いのか?
「お前はもう、好きな風にしたらいい。」
僧侶はただ、全てが抜け落ちたような顔で言った。
「別にお前が誰を殺そうと、私を殺そうともうどうでもいいのだ。
『他者を傷つけない』という教えですら誰かを傷つけるのなら、私にはもうやることがない。
仮にお前に仏の教えを伝えられたとしても、お前もあの『正しい人々』に加わるだけだ。
全ては無意味だった。」
強盗はあくびをしながら、僧侶の使い方を思いついた。
「お前は賢いのだから、俺に飯の喰い方を教えてくれ。
なんせ俺は捨て子だからこれ以外の生き方を知らない。
別に処刑されたくて人殺しをしているわけではないからな。」
僧侶は驚いた目で強盗の顔を見た。
「それにお前は偉い坊主だから、俺が一生遊んで暮らせる金を大臣なり帝なりから貰えるだろう。
何なら、俺にそれをよこすだけでもいい。
そうすれば殺さないでやる。
いや、殺されてもよかったのか。
しかしまあ、死人の骨までしゃぶるのが俺のやり方だ。
お前のような金づるを死なせるのはもったいないというものだ。」
僧侶は膝を抱えて笑い出した。
「ああ、そうか。お前が望むなら何でも教えてやる。
金もいくらでもやろう。
そして私と一緒に、新しい教えを考えようじゃないか。
私が死んでも、お前が新しい答えを探してくれればいい。
私の教えは仏の真意ではなかったのかもしれない。
もしかしたら他のやり方に、真の悟りに至る道があるかもしれないじゃないか。」
僧侶と強盗は、廃寺を買い取って自分たちの寺にした。
ひたすら書物を買い漁って、僧侶は仏の教えの研究に熱中した。
強盗の方はというと、別に何も手伝わなかった。
それどころか、街に降りて女を買ったり、酒を飲んだりと好き放題した。
しかし僧侶は止めなかった。彼は戒律を守る人々も、戒律を守らない人々も、同じとしか思っていなかったからだ。
女を買って酒を飲むだけで、あの哀れな人々を侮蔑する『正しい人間』の仲間にならないのなら、自分も進んで嗜みたいと思ったほどだった。
最も、彼はそういった嗜好を好まないからどのみち手を染めなかったが。
そして強盗も、流石に何もせず遊んでばかりの暮らしにも飽きてきたのか、遊び感覚で文字を覚え、書物を読み始めた。
僧侶は強盗のために、子供のための書物を買い与えた。
強盗はその時生まれてはじめて、一般的な家庭で親が子に語る童話を知った。
歴史を知った。国の成り立ちを知った。強盗は突然の知識の奔流に驚いた。
そして、様々な疑問を僧侶にぶつけだした。
僧侶はただそれに答え続けた。
僧侶はひたすら学び続け、次第に強盗もそれを追うようになった。
強盗はやがて、僧侶にも負けない賢い男となった。
僧侶は老人となった。
男と老人は、あの疑問の続きを求めるために、あの日の話し合いを再開した。
「私は人々に道徳を伝えたが、失敗した。
人々は決まりを守らない人間に対して、想像以上に憎しみを感じるらしい。
伝え聞く話によれば、天竺でさえも、人の穢れを低い階層の人間に押し付けている。
決まりを守るために、正しい道徳を守るために。」
老人は続ける。
「そもそも何故道徳を守らなければいけないのだろうな。
なぜ人を傷つけてはいけないと思うのだろう。
なぜ穢れを持ってはいけないのだろう。」
男は言った。
「私はどうしようもない罪人でしたが、師匠が私を導いてくれたおかげで、私は以前の私ではあり得ないほどの安らかな暮らしを得ることができました。
それは間違いなく、私が人を傷つけることをやめた結果でしょう。」
「そうだ。確かにお前のように救われる人々がいたのも確かなのだ。
しかし、その教えによって破滅した人々もいた。
全てを救えないのなら、その教えに何の意味があるのだろう。
自分がその救いの手のひらからいつ溢れるかも分からず、いつ罪人として虐げられる側になるかも分からず、必死に自分の思う正しい教えを追い続けるのが、本当に良いことなのだろうか。」
「多くの人は正しい教えに導かれることで豊かな暮らしを得ようとした。
つまり私欲を満たそうとした。
そしてそれを脅かすかもしれない人々を、過剰に虐げ始めた。
それは正しい教えを求める欲望もまた、危険な煩悩ということでは無いでしょうか。」
「そうだ。『正しくあることで、何かを得ようとする』という心自体が、過ちを産んでしまったのだ。
それは間違いなく、暴食や姦淫と並ぶ罪深い行為ではないのか。」
「しかし、では正しい教えを追う心を捨てたのなら、私達は何に従って生きれば良いのでしょうか?」
「それが分からない。そもそも、正しいことが何か決められていないのに、どんな生き方が正しいかを定めることなど不可能だ。
…いや、そうなのだ。」
突然老人は、立ち上がった。
「分からないのが答えなのだ。」
老人は語り始めた。
「そうだ、この世界に正しい答えなどない。誰が決めたわけでもない。
それを決められるような存在はこの世にない。
思えば、仏陀は悟りの境地を幸福すら存在しない場所にあると述べていた。
当時はまだ、ただ私の理解の及ばない崇高な教えなのだと思っていたが…。
仏陀にとって、悟りとは正しい教えすらない場所のことではないのか?
導かれることによる幸福すらない。
全てを救う教えがないのなら、そもそも救いも教えも必要ない所に行けはしないかと考えたのではないか?
そこには正しい教えもなければ、救いもない。
自分の幸福を求める心も、罪人を罰する怒りもない。
人々はそれを決して受け入れはしないだろう。
しかし仏陀はそこに人間の在り方の可能性を見た。
だから拒まれぬよう直接的に答えを伝えることを避けたのでは無いのか?
そして暗に自分と同じ境地に至ることを促したのではないか。
思えば、仏陀は天上をも輪廻の一部とした。
地獄や畜生、餓鬼や修羅と同じ地位に天を置いた。
それは、たとえ死が遠く、全てが幸福に満ち、望みが尽く叶う世界ですら、彼にとっては満足の行く世界ではなかったということだ。」
「つまりそれは、正しい教えなど無い、正しい在り方もない、その事実そのものが本当の悟りへの道だと言うことですか?」
「そうなのかもしれない…。いや、ただの私の思いつきなのだから、確たる根拠はないのだが。」
「しかし、その悟りは何をもたらすのでしょう。
幸福もない、すべきこともない、そんな在り方を取る必要はあるのでしょうか。」
「いや…必要があるからその在り方を取るのではない。
ただ、どのような教えに従ったところで、そのどれにも正しいことはないという事実がある。それを知ることが悟りだったのではないか。」
老人は再び座った。
「正しいという概念の反対には、不正という概念が伴う。
そして不正の反対には、それを拒絶する怒りと罰が伴う。
正しさというのは、怒りと罰なくして成り立つことはできないのだ。
しかし、怒りと罰もまた、正しいことにはなり得ない。
なぜならそれは必要以上に人を傷つけるのだから。
怒りと罰がなければ、皮なめしの職人たちがあのような惨めな暮らしをすることはなかった。
お前もそうだ。お前を教え導いている者がいれば、このように優れた人間になることができた。
そうでなくとも、お前を牢に入れておくだけで、お前はこの世の誰も殺すことはできなくなった。
しかし人々は、お前を殺すことを望んだ。自分の身を守るのには不要なはずの呪いを望んだ。
そして自分が正しいと信じているから、それが不必要な殺生かもしれないと疑うものは誰一人いなくなってしまった。
正しい在り方には、常に影が付きまとう。
それが真実ではないか。
人が正しくあろうとする心自体が誰かを傷つけ、不必要な罰を産むのなら、それ自体正しくなることは決して無い。」
「では、死刑もなく、殺生を罰されることもない世界こそが正しいというのですか?
いや…。」
男は考え直した。
「違いますね。正しいということ自体が無いのなら、人を救おうが殺そうが、それはどちらも正しくないのですね。
私は人を殺したという事実はある。
それを、私は悲しんで、後悔しているという事実もある。
そのために、人を救ったという事実もある。
ただ、世界には事実だけがある。
その事実に正しいも悪いもない。
ただ、在るのみ。
それをどう受け取るかは、私に委ねられている。
そして、そこからどのような行いをしたとしても、それが何かの答えになることはない。
私の罪の意識を消せる都合のいい答えは決して見つからないのでしょう。
いや、あるいは自らの罪の意識から逃れるために、人は自分が正しくいられる教えに飛びついてしまうのでしょう。
たとえそれが欠陥まみれだったとしても、矛盾していたとしても。
あるいは都合のいい間違いを受け入れるのも、自分にとっては幸せだったのかもしれません。
ですが、ありのままの事実を受け入れたのならば、決して罪を赦される幸福を感じることがない代わりに、そのために誰かを必要以上に痛めつけることもない。
そういった在り方は他と同じく、正しいとすることはできないのでしょう。
しかし、人が人を裁くという在り方とはまた別の視点を得ることはできましたね。」
「そうだ。私達は人が人を裁くということをどうしても正しいと思えなかった。
だからこういう視点を持つに至ったのだ。
もしも自分は決して裁かれない、もしくは自分を守るために裁く力を持ちたいと思っている人間だったのなら、決してこういう発想には至らなかったのだろう。
そして、その他のこの世界の教えの全ては、敵を裁きたい、自分を守りたいという思いから生み出されたのだろう。
それが悪だとは言えない。しかし、同時に正義とも言えない。
ただ、誰かを守りたいから、あるいは自分のために誰かを傷つけた。
それは不正をする人間も、裁く人間も同じだ。
罰する方も罰される方も等しい立場なのだ。
皆、自分のための正しさを振りかざし、そしてそれを周りに強要する。
それは因果の結果であって、地獄と天が等しいように、全ては輪廻のうちに定められた、無常な出来事、無常な教えなのだ…。」
「では私達はこれからどうすればよいのでしょう。
…いや、その答えはないということですね。
どのような答えを持ってきても、それを正しいと言えないのだから。」
「そうだ。この世界に答えはない。私達は何をしてもいいが、それが正しくなることもない。
ただ在るのみだ。
それは、あの皮なめしを罰した人々も、お前を殺そうとした人々も同じだ。
別に、そうしてもよいのだ。ただ、それは決して正しくない。
正しいと思ってやったのなら、それは妄想に過ぎないのだ。
誰かが、その正しさに従わなければいけない理由はどこにもない。
彼らは彼らの正しさに従わない人間に怒るだろう。
もちろん怒ってもいい。
だが、怒られた側はそれを受け入れなくても別にいいのだ。
罪もない、正義もない。
世界はこのように自由なのだ。
少なくとも、私はこう思えて嬉しい。
私は正しい人間にはなれなかったが、自由な人間にはなれたのだ。」
「では私も、自由に生きることにします。
私は実は、僧侶になるよりは子を持ちたかった。
私には家庭が無かったから。
しかし、先生は私の父親のようなものです。
この感謝は決して忘れません。」
「ああ、ありがとう。
私も、もうこれ以上何かに悩み続けることもない。
そうだ。私の好きな豆を植えよう。
それから、私の故郷を見に行こう。
私の兄の子供は今どうしているだろうか。
ああ、こんなにも私には、やりたいことがたくさんあったのだな。」