第9話「山羊神カプリオス、帳簿の影で息を潜める」
朝。
空気が冷えていた。
レオンドラが去り、ジェミニが影を残し、
村には奇妙な“無言の重さ”が漂っていた。
耳の庵には今日も紙が貼られていたが、内容は変わっていた。
「木札が“義務”になっていませんか」
「耳の庵と答える庵、数が増えてきて、よく分かりません」
「誰がどれだけ働いたか、ちゃんと見えるようにしてほしいです」
リーブラが嘆息した。
「人は、“見えない公平”を受け入れ続けられるほど、強くはないのです」
アストレイアも気づいていた。
民は、木札や庵に“感情”や“正しさ”を求めてきた。
だが、それが“制度疲労”を起こし始めている。
そのときだった。
村の中央広場に、茶色い長衣をまとった一柱の神が現れた。
「――報告を確認した。
民の働きと対価に、齟齬が生じている。ならば、整える。
私は山羊座の神・カプリオス。統治と帳簿の神である」
その背には、無数の帳簿と測量器具、分銅のついた天秤が携えられていた。
彼は地面に厚い帳簿を広げ、言った。
「“感じる公平”ではなく、“測れる公平”を導入する」
「……どうやって?」
アストレイアが問うと、カプリオスは、鉄の物差しを掲げた。
「労働量・結果・時間を記録する。木札には“重さ”を与える。
木札十枚=一労単位。
庵の意見には影響力値を設定。
感情ではなく、“数”で世界を見ろ」
「……冷たすぎるわ」
「温もりのある秩序など、崩れるだけだ」
彼は“帳簿殿”と呼ばれる巨大な記録所を建てさせた。
民は朝、自分の作業を“作業記録板”に記し、日暮れに報酬を受け取る。
数字の世界が、村に浸透し始めた。
だが、その一方で――
子どもたちの遊び声が減り、
炊き出しの分配に迷いが出始め、
老人が「数字を出せない」と肩を落とす場面が目立つようになった。
アストレイアは夜、帳簿殿の裏に立つカプリオスに問うた。
「……あなたの帳簿、間違ってはいない。
でも、“人”がそこにいない。
“数字の中の命”は、どこにいるの?」
カプリオスは空を見上げ、
淡い冬星座――**星“デネブ・アルゲディ”(山羊の尾)**を指した。
「――あの星は、静かに世界を見ている。
光もなく、名も知られず。
だが、あれがなければ星図は完成しない。
私は、そういう“無名の仕事”を記録する者でありたい。」
アストレイアは黙った。
そして、ゆっくり頷いた。
「……なら、“数字の外にある仕事”も、ちゃんと書いて。
“目に見えない価値”を、あなたの帳に加えてくれるなら、私はあなたと歩ける」
カプリオスは、帳簿の隅に空欄を残した。
「――“未定義労”。
それが人の余白ならば、認めよう」
星々は、静かに降っていた。
(続く)
村の状態(第9話終了時点)
登場:山羊座神カプリオス(帳簿・統治・測量の神)
村の変化:
労働の定量化(ローディア制度)
意見影響力の可視化
記録所“帳簿殿”の設立
問題点:
数字に現れない価値の軽視
弱者の“無価値化”の兆候
星語り:デネブ・アルゲディ――名を呼ばれぬ星が、夜を支える