第10話「魚座神ピスケス、夢の波で村を包む」
帳簿殿の屋根に、薄い霜が降りた朝。
村は静かだった。
誰もが働いていた。
誰もが黙っていた。
数字が記録され、報酬が配られ、意見が整理されて、
すべてが“機能”していた。
けれど、火のそばでひとり膝を抱える老人が、ぽつりと呟いた。
「……いつの間にか、“生きてる”んじゃなくて、“稼いでる”ようになったな」
その言葉が耳の庵に届くことはなかった。
“未定義労”に書き込まれることもなかった。
その日の夕暮れ。
村の東の水辺に、光が揺れた。
水の上を、滑るように歩く一柱の神。
肌は透けるほど白く、長い髪は波そのもののように揺れていた。
「……眠れてる? こころ、痛くない?」
名乗ったのは魚座神・ピスケス。
夢と癒し、無意識と終わりの神。
彼女の手が触れたところには、温かくやわらかな霧が生まれ、
火のそばにいた老人は深い眠りに落ちた。
カルキノエの民が、その寝顔を見て涙ぐむ。
「……ありがとう、ようやく眠れたんだね……」
アストレイアは静かに問う。
「あなたは、“逃避”を与えてるの?」
ピスケスは微笑む。
「“逃げる”と“休む”は、違う。
人が数字や言葉に追われたとき、魂が現実から離れたがるのは自然よ。
だから、少しだけ“夢の中で歩く時間”を、あげるだけ」
彼女の眷属“夢紡ぎ”たちは、村に小さな屋根付きの庵を建てていった。
“夢見の館”――そこでは寝ている間、幻の中でさまざまな世界を旅できるという。
ミナのような子どもたちは、その館に集まり、夢の中で空を飛んだ。
老人は若い頃の自分と再会し、
疲れた狩人は、大樹の下で誰かに優しく髪を撫でられた。
しかし――
アリエスは館の入口で立ち止まる。
「……こいつは、“命”を眠らせる毒じゃないのか?
夢に居着いた奴が、戻ってこれなくなったら?」
ピスケスは穏やかに言った。
「“現実を維持すること”と“癒すこと”は、時に衝突するわ。
でも、“癒し”なしでは、世界は割れる。
私はその“割れ目”を縫い合わせるためにいる」
アストレイアは、夜の湖に映る星を見上げた。
そこに、淡い光を放つ星々――魚の形に並ぶピスケス座が、ひっそりと揺れていた。
「……癒しは、時に“眠り”と“死”に似ている。
でも、あなたが“帰る道”を残してくれるなら――私は、あなたを受け入れる」
ピスケスは静かに頷いた。
「約束する。夢の中にも、朝を迎える道を」
村には、少しだけ“色”が戻った。
(続く)
村の状態(第10話終了時点)
登場:魚座神ピスケス(夢・癒し・境界の神)
村の変化:
“夢見の館”の設立(精神回復施設)
村人たちの心に「現実と夢の境界」が芽生える
問題点:
一部住人に“夢依存”の兆候
労単位を稼がず「館に籠もる者」が出始める
星語り:ピスケス座は「重力の届かぬ魂の通り道」と呼ばれる
【あとがき & ブクマ誘導】
最後までお読みいただきありがとうございます。
アストレイアの神邑創乱記、第10話は「癒しと夢」に焦点を当てました。
次話からは、再び秩序と信仰、そして“魂の居場所”をめぐる物語へと進んでいきます。
読んでくださった方の心に、ほんの少しの静けさや余韻が残れば幸いです。
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