2-5
「あんたは何を言っているんだ?」
心の底から湧いて出た言葉だった。
「私と同じベッドで寝よう。そう言った」
「い、いや、ちょっと待ってくれ」
この屋敷にはいくつも客室がある。
それはレイの部屋を掃除しに行く段階で教えてもらった。
そのうちの一つを俺が借りると言うことで話はまとまったはずだったのだが、一体どういう風の吹き回しなのだろう。
「ちょっと掃除を手伝ってみて、私は理解した。客間が一番危険ってことを」
「危険って……どういうことだ?」
「私はこの家を買ってから、一度も客間に入ったことがない」
――そういうことか。
キッチン、食堂、風呂場、そしてレイの自室。
この辺りは使われた形跡があり、掃除はスムーズに済んだ。
しかしこれから俺が掃除しようと思っていた客室は、これまで一度も人が出入りしていない部屋ということらしい。
広さは大したことないだろうけど、問題なのはベッドだ。
おそらくは大量の埃が積もっている。
間に合わせの掃除では、間違いなく寝られる状況まで回復しない。
今までの劣悪な環境に比べればそれでもマシだとは思ってしまうのだが……。
「……我慢して寝ようとしているなら、それも禁止。私といる限り、テオはもう二度と我慢禁止」
「……」
無茶を言う――が、素直に嬉しい言葉ではあった。
しかしそれと同時に、俺の中にある疑問が浮かぶ。
「確かに埃にまみれて寝るのは健康にも良くない。それは分かるんだけど……どうして一緒に寝る必要があるんだ?」
「……雇い主としての、命令?」
すでに我慢させてんじゃねーか。とツッコミそうになり、慌てて口を塞いだ。
レイの一緒に寝るという言葉に、深い意味がないことくらいは理解している。
彼女がそう言うのであれば、本当に隣で寝るだけの話にしかならないはずだ。
幸いレイのベッドはとても大きく、二人程度なら余裕を持って寝ることができる。
問題なのは……俺のトラウマだ。
本来男としては喜ばしい誘いのはずだが、俺にとっては警戒の対象となる。
性犯罪者扱いされてから、どうしても女性に近づこうと思えない。
今までは特に気にせずいられたが、ベッドともなると否が応でも思い出してしまう。
あのときの軽蔑の目を――。
「――理由を説明してくれ。男女の関係でもない二人が同じベッドで寝るっていうのは非常識だ。偉そうな要求をしている自覚はある。だけど理由がないなら、別にどこかの床で寝たっていいはずだろ?」
「理由……理由?」
レイは首を傾げている。
どうやら本気で悩んでいるようだ。
また冗談で言ったものだと思っていたが、もしかしたら違うのかもしれない。
「ん……私が、私が一緒に寝たい……から」
「……」
その一緒に寝たい理由というのを知りたかったんだが――。
「ごめん、具体的な理由は、きっとない。でも……テオと一緒にいると、心が温かくなる。寝るときっていつも何だか心細い。だから、離れたくない。こんな気持ちは初めて」
レイは心の底からどうしていいか分からないといった目で、俺を見つめてきた。
結局、俺は――――。
♦
「テオ、もっとこっち来てもいいよ?」
「……ああ」
あれから掃除を終え、俺たちは順番に風呂へ入った。
そして現在、ベッドのギリギリに寝そべっていた俺は、恐る恐るレイの方へ体を寄せる。
――結局俺は、彼女の要求を断れなかった。
トラウマのせいで、俺はかなり人が信じられなくなっていたらしい。
理論的で具体的な話をどうしても彼女に求めてしまったが、それが間違っていたのだ。
まず、レイはそう言った話が苦手である。
基本は感情で動き、あとから理由を付け足すタイプ。
それが俺にもようやく分かった。
そしてその性格が故に、まったくもって嘘がつけない。
先に感情的な言葉が飛び出してしまい、取り繕うことができないのだ。
だからこそ、俺はレイを信じることができた。
彼女は心の底から、俺に側にいてほしいと思ってくれた。
そして今度は俺の方が、断るための理由を見失ってしまったのである。
「お風呂上がりのテオ、何だか温かい」
「っ!」
突然、俺の足に何かが触れる。
これはおそらくレイの足の指先だ。
柔く触られた部分が妙にくすぐったくて、俺は小さく身じろぎをする。
「や、やめてくれ……からかうな」
「ん、別にからかってはいない。本当のことを言っただけ」
「だからって――――っ!」
レイの方へ顔を向けた瞬間、俺は息を呑んだ。
風呂上りでしっとりと湿った髪、ほんの赤みの差した頬、潤んだ瞳。
部屋に差し込む月光がそれらを淡く照らし、一つの芸術作品を作り上げていた。
自分の顔に熱が集まるのを感じる。
「どうしたの?」
「っ、な、何でもない」
慌てて顔をそらした。
ここで邪な考えを抱くようなら、それこそブラムを責められなくなってしまう。
この家に住まわせてもらう以上、常に自制心を持っていなければならない。
「……テオ」
懸命に心を落ち着かせていると、硬く閉ざしていた拳にレイの手がそっと触れてきた。
足を撫でられたときのようなくすぐったさはなく、ただただ手の平の温度が伝わってくる。
それを感じた途端、俺の中の動揺がゆっくりと治まっていった。
「今まで、たくさんお疲れ様。これからは私が一緒。もう剣は握らなくていい。怖い思いなんてさせない。危害も加えさせない。私が、テオを守る」
――あなたは、幸せになっていいはずの人だから。
「っ!」
俺の体は、自然とレイに抱き込まれていた。
彼女の胸元に顔が埋まる。
花の石鹸の香りが鼻腔を刺激してくるが、不思議と邪な感情は湧いてこなかった。
それどころか、心が安らかになっていく。
(ああ、そうか……)
ここに来て、俺はようやく安心できたのだ。
敵だらけの場所で生活し、昨日だって死にかけた。
いつの間にか、俺は自分の心を凍結させていたのである。
過酷な環境で、心が死んでしまわないように――。
その氷が、レイの体温でゆっくりと溶けていく。
「ふふ……はははっ」
「ん? 何か、面白い?」
「ふふっ、いや、嬉しいんだ。あんたに出会えて」
「そうなの? その言葉は私も嬉しいけど」
全部、レイに渡してしまおう。
預けるだとか、そんな曖昧じゃ駄目だ。
この体も、命も、感情も、思考も、経験も、技術も。
そして過去も、未来も。
「俺のすべては、もうレイの物だ。いらなくなるまで、どうか俺を使ってほしい」
顔を上げて、レイの顔を覗き込む。
初めはきょとんとした表情のレイであったが、次第に――小さく笑みを浮かべた。
雰囲気だけでなく、しっかりと口角を上げて。
「私はもうテオを手放さない。ずっとここにいていい。そして、ずっと一緒」
優しい声が耳を打つ。
安心したからか、徐々に瞼が重たくなってきた。
久々に感じた強い眠気。
常にビクついていたせいで、寮では上手く寝ることができずにいた。
だけど、ここなら安心できる。
俺はここにいていいと、彼女にそう言われたのだから。
「おやすみ、テオ」
「……おやすみ、レイ」
俺の意識は、心地の良い闇の中へと落ちていく。
こうして――――俺の新たな人生の一日目が終わった。




