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◇◇◇
「はい、ダルジャン」
夕食後、ダルジャンの前にトンッと置いたのは食後のカフェオレ。
「……ダルジャン?」
「フ、フミィ!」
だけどダルジャンは上の空で、私が目の前でぱたぱたと手を振って初めて気づいたようだった。
「すまない。少し考え事をしていたようだ」
そう言ってダルジャンは薄く笑ってみせる。
「その考え事は、グリゼダム将軍の事だよね?」
テーブルの上に積まれた紙の束は、今日陛下にも伝えたグリゼダム将軍の不正の証拠だ。これらはもう少し精査をすれば、まもなく議会に上げる事になるだろう。
自分の分のカフェオレをテーブルに置くと、私もダルジャンの隣にそっと腰を下ろした。
「ねぇダルジャン、一人向かい来る敵兵を薙ぎ払いながら前線に戻り、取り残された少年兵を救う。それはもう、間違いなくヒーローだよね」
ダルジャンは私の言葉に虚をつかれたみたいに、目を丸くした。
「どうしてそれを?」
「うん、色々調べたから、過去の記録。後はまぁ、バーガンさんとか?」
ダルジャンの顔に苦笑が浮かぶ。
「バーガンの奴、いらない話を……。あの頃は、血気盛んで一人先走ったんだ。結果前線に取り残されて一度は死を覚悟した。それをグリゼダム将軍に救われた」
でも、ダルジャンが言う一人先走ったは半分本当で半分嘘。ダルジャンはその容姿で揶揄されて、他の少年兵達に一人前線に向かうように仕向けられた。
他の少年達の誘導に乗った事は、果たして一人先走ったとイコールになるのだろうか。
「バーガンさんは、ダルジャンを窮地に立たせてしまったって、あの時の事は今でも教訓だって、そう言ってた」
「馬鹿を言え。バーガンはあの時別部隊だったんだ。バーガンに非などある訳もない」
そうだね。私も聞いた時にはそう思った。
だけどバーガンさんはそれを教訓に自分を鍛えて、力を付けてきた。結果、今では副将軍の地位にまで登り詰めたんだから、その心意気たるや凄いものだ。
「じゃあ尚更、ダルジャンは人に恵まれてるね。いっぱい、思われてるもん。でもそれはダルジャンこそが人を思うから、かな」
「……フミィ、……」
ダルジャンは朱色の双眸を見開いて私の名前を口にする。その響きがどこか甘さを孕む気がするのは、私の勘違いだろうか。
「人ってさ、一方向から見えるだけが真実じゃないのかも。グリゼダム将軍とも話、してみたいな」
「駄目だ!! そればかりはフミィが望んでも許可できない!!」
うおっ!
ダルジャンが身を乗り出すようにして、凄い勢いで言い募る。私は思わず後ろに仰け反って、近すぎる朱色の宝石から距離をとった。
この日も私の身は日の出から王宮にあった。
ここの所、私を取りまく状況の変化はめまぐるしい。何故か知らないけど、あれよあれよという間に私は常勤で国王陛下の雑用係に定着してる。大事な事だからもう一度言おう、雑用係だ。
「ねぇダルジャン、陛下ってやればもっと出来る男だと思うんだよね」
なまぐさ陛下の積み上げた確認書類を一通り仕分け、なんとかこれだけはという部分だけ陛下に署名させる。そうして陛下は署名が終わった瞬間、政務室から逃亡した。
そして入れ替わりに様子を見にダルジャンがやって来たというわけだ。
「陛下のあのスタンスは昔から変わらん。誰も陛下の本気など見たことがない。まぁ、それが陛下だ」
ふーん。それもまた実力と言えるのか。
「ま、人心掌握に長けちゃいるよね。なんだかんだで陛下って放っとけないんだもん」
パタンと分厚い収支報告書を閉じる。
はぁ~あ、肩が凝る。両腕をググッと突き上げて大きくひとつ伸びをする。
アルバンド王国恐ろしや、一国の国庫管理がまるっきりザル。でも何がすごいって、それで今まで大国として揺るがずやってこれてる所がすごい。
私が陛下の雑用係になってやってる事は日本で一企業を相手にやっていた事とまるっきり同じ。ただしここに表計算ソフトなんて便利な物はないから、アナログに紙で試算していく手間が半端ない。
「ダルジャン?」
そっと肩に置かれた手。こんな風にダルジャンがボディタッチしてきたのは初めてで少し意外。平静を装いながらも、胸はトクンと跳ねた。
「んっ!」
しかし次いで意思を持って動く大きな手は一流の整体師もかくやの極上の天国を垣間見せる。
「……フミィ、この鉄板のような肩はなんだ?」
いやいや、なんだもなにも肩凝り疲れ目、そんなのは代表的な現代病でいちいち騒ぐ程の物じゃない。
「やばい、鉄板も蕩けるその手練手管。ダルジャン、その手管でいったい何人を腰くだけに……、んっ、そこそこ」
もみもみ、グイグイ。
「人聞きの悪いことを言うな。このように意思を持って触れたのはフミィが初めてだ」
いやいや、ダルジャンの言い回しの方がよっぽど含みあるでしょ。期待しちゃ不毛と知りつつ、胸が勝手に熱を持つ。
「ダルジャン、私は貴方の役に立てている?」
そっと後ろを振り向いて問えば、ダルジャンのマッサージの手が一瞬止まる。見開かれたダルジャンの朱色の瞳が零れ落ちそう。
「当たり前だ。どころかフミィは俺の想定した壁などやすやすと乗り越えてしまう。いつか俺など手の届かない遠い所に飛び去ってしまうんじゃないかと、俺は……」
直ぐにマッサージは再開されたけど、ダルジャンの言葉の最後は尻つぼみに霞んだ。
私達にそれ以上の会話は無かった。
もしかしたらダルジャンは、少なからず私に好意を向けてくれているんだろうか? いや、分からない。まるっきり私の自惚れかもしれない。
いやいや、そんな事はどちらでも関係の無い事。日本での痛手を私は忘れていない。もう恋はしないと決めているんだから。
☆異世界トリップを体験したフミィの男性遍歴☆
「芙美、お前はいつだって強くて正しいさ。俺がプロジェクトリーダーを降ろされた時、お前は一番に俺の管理能力を指摘した。確かに正論だ。けれど正しい事が全て正解じゃない。少なくとも、あの時のお前の言葉はまるで凶器みたいに俺を抉った」
康太、あんたは分かってない。プロジェクトリーダーは確かに降ろされたけど、そこで腐らずにプロジェクトの一員として成功に貢献する事は出来た。少なくとも社運を賭けた一大プロジェクトを途中で投げ出してしまっては、自らチャンスを手放すようなもの。
人生にはいくつかのターニングポイントが絶対にある。傍から見たって、あそこは踏ん張りどころだった。
「分かっちゃいないって顔だな。芙美、お前と俺はやっぱり違い過ぎたんだよ。でもな、佳奈は違う。ただ温かに俺を慰めてくれる。すごいね、頑張ってるね、そんな風に俺を立てて微笑んでくれる」
康太の腕にそっと寄り添う女。いいや、その女はそんなタマじゃない。社内の女性スタッフなら誰もが知る事実だ。
少なくともその妊娠は偶然でもなんでもない。計画的に狙われた結果に過ぎない。
「……そう。お幸せに」
それは私のなけなしのプライド。
「最後までお前は可愛くない女だ。行こう、佳奈」
最後に見た康太の顔は皮肉に歪んでいた。共に過ごした六年の年月は呆気ない程簡単に終わりを告げた。
国内営業のエースと華々しく持ち上げられている康太を派遣で受付業務をする彼女は狙ってた。いいや、康太だけじゃない。社内で有望と評されている幾人かに同時にアプローチを掛けていたのは有名な話。
たまたま弱った所に付け入る形で康太を手に入れた彼女だが、今現在社内での康太の評価は地を這っている。今後康太が評価を取り戻すのは容易ではないだろう。社運を賭けた一大プロジェクトを投げ出した事、その重みをこの二人は果たして分かっているのかいないのか。
そうさせたのは彼女で、それに甘んじたのは康太だ。
「サトちゃん、あんな男と別れて正解。あいつ勢いばっかで、たまたま今まで上手い事やって来てたけど、それもサトちゃんの助言でもってやってきてたようなモンじゃん」
同期のさくらの言葉は確かにもっとも。康太には根気や思慮深さが圧倒的に足りない。それでも、周囲を巻き込む勢いと明るさに惹かれて付き合っていたのは事実。気付いた所はそっと私が囁いて、そうすれば康太はさも得意げに私の指摘を取り入れた。
「うん、うん……さくら、ありがと」
さくらが私の肩を抱く。さくらは私と康太と共に大学からサークル、就職先まで一緒。酸いも甘いも見てきてるさくらの言葉は重たい。
それでも学生時代からもう六年付き合っていた。漠然と、このまま流れで結婚なんてしちゃうんだろうか、そんな風にも思ってた。
「あいつにとってサトちゃんは傍から見たって無くちゃならないあげまん女房だったんだよ。ほんと、馬鹿な男」
うん、うん……。康太はちょっとの事で機嫌を損ねた、でもちょっとの事で明るく笑い飛ばしたりもした。馬鹿だけど、私にない明るさと勢いは眩しくもあった。
「さくらぁ」
「サトちゃん」
私はさくらに抱き付いて泣いた。
そうして一晩泣き明かして決めた、康太の事はもう忘れる。同時に誓った、もう恋はしない。私は一人で自立した女になるんだって。