表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/32

19

◇◇◇








落ち着かない。誰かと居て、その存在をこんなにも強烈に意識した事はない。


「おぃフミィ、そんな壁際で冷えるだろう? もっとこっちで温まれ?」


小屋の中央に設けられた囲炉裏でお湯を沸かしながらエルビオンが私を振り返る。


今晩は想像していた野宿とならなかった。偶然に樵夫の休憩小屋を見つけ、ここで夜明かしをする事になったのだが、狭い小屋内に二人きりの状態に否が応にも警戒心が募る。


「いいの。寒くないかっ、……フッ、フッ、ブェックッシュッッ!!!」


……ずびっ。……自分、ほんとサイアク。


鼻を啜って目線を上げれば、エルビオンが目を円くしてこっちを見ていた。


「っぷ、っぷ、ぷはははははっっ!!」


どころか、エルビオンは腹を抱えて笑い出した。私を攫った奴に違いないのに、エルビオンが見せるこういう素の表情は好ましくもある。


もちろん誘拐が大前提にあるから、それがどうしたって感じではあるが。それでもエルビオンが移動中、最大限私に配慮していたのは知っている。


エルビオンという男の懐はきっと大きくて深い。闇の家業にあったけど、本来欲しい物は奪わなくとも正攻法で手に入れる力を持っている。


「……ねぇ、エルビオン」


私の呼び掛けにエルビオンは目が落っこちそうなほど見開いて、そして次には顔をくしゃっとさせて笑う。


えっ? 何か笑う要素があった?


「気付いてないって顔だな? ……今、初めて俺の名前を呼んだ」


エルビオンの両の瞳がじっと私を射抜く。肌がぞわりと粟立って、無意識に後ろにずり下がる。けれど元々壁に寄りかかって座っていたから、背中と壁の距離がこれ以上近くなりよう筈も無かった。


無機質な堅い感触を強く感じただけ。


「フミィ、俺はお前が欲しい。お前の心が俺にない事は承知してる。それでも自惚れでなければきっと、嫌われてはいない、そうだろう?」


身の内に危険信号が点る。忙しなく視線を走らせて、改めて視認した出入口は正面に対峙するエルビオンの背中側だ。


エルビオンがゆっくりと私に歩み寄る。大きく二歩、三歩歩めば狭い小屋の中だ。長身のエルビオンの影が頭頂にかかる。


「……やめて、エルビオン。私はアンタを好きじゃない」


私の言葉にエルビオンが苦く嗤った。


「寂しい事を言うな。だがこれからの長い時間の中でゆるやかに俺を想うようになってくれればいい。本当はきちんと俺と言う男を知って、好いて嫁になって欲しかった。だがフミィ、きっと愛の形はひとつじゃない。体を重ねて温め合う、その情愛もまたひとつの愛に違いない。俺はどんな形だっていい、あんたを愛したい」


見上げていたエルビオンの顔が正面に迫ったと思ったら、次いでもたらされたのは噛みつくような口付けの嵐。


「んっっ、っっ!!」


息つけぬ激しい口付けは抗議の声すら許さない。肩を押されて床に仰向けに転がれば、覆いかぶさるようにエルビオンが圧し掛かる。直接感じる男の重みに、恐怖で全身が震えた。


「っっ、ダルジャンっ!! ダルジャンっっ!」


合わさった唇が僅かにずれたその瞬間、口を吐いて出たのは一番愛しいその人の名前。涙交じりの呼び声は果たして遠い地に居るダルジャンまで届くだろうか。


体を奪われようとしている事はもちろん怖い。けれど、それをダルジャンに失望される事が、ダルジャンの心が遠のいてしまう事が何より怖い。


ダルジャン、私は今ダルジャンの心を失うことが何より恐ろしい!


「なぁフミィ、この状況じゃ仕方ないが、それでも情事の最中に他の男の名を呼ばれちゃ萎えんだろ。だからすまないが、こうさせてもらうぞ」


エルビオンは懐から手巾を取り出したと思ったら、慣れた手つきで私に噛ませて後頭部で端を結んだ。


軽い言葉とは裏腹にエルビオンの目は哀愁を帯びて陰る。そんな顔をするならば、今すぐにでもこの暴挙を止めればいい!


エルビオンは片手で、私の両手を一掴みにして頭上で抑え込む。物言えぬまま、その目に精一杯の抵抗をのせてエルビオンを睨みつける。エルビオンは逃げるように視線を逸らすと、私を拘束するのと逆の手で、そっと頬を包み込む。


そうして、最初の噛みつくような口付けが嘘みたいに、柔らかに目尻を啄んだ。


あぁ、私は泣いているんだと、エルビオンの口付けに初めてその事実を知った。


まるで宝物にでも触れるみたいに、唇は溢れる涙を吸い上げた。


「フミィ、俺はお前を大切にする。生涯、何よりも大切に慈しむ……」


だからすまない、なのか。


エルビオンの堪える様な、切なさを湛えた瞳が見下ろしていた。


……嫌だ! こんなのは嫌だ!!


ぎゅっと瞼を閉じる。


ダルジャン! ダルジャン!!


ここにきて浮かぶのは初対面で見惚れたダルジャンの神々しいまでの美しさ。共に生活する中で垣間見たダルジャンのさりげない優しさや気遣い。


ありとあらゆるダルジャンとの記憶が走馬灯のように思い浮かぶ。


「フミィ」


エルビオンの手が、着衣の襟もとに伸びる。


!!


私はぎゅっと身体を硬くした。


「……フミィ、どうやら俺は神に見放されたらしい」


!?


意図せず、エルビオンの重みと温度が遠ざかる。


身を起こしたエルビオンが床の短剣を掴み、扉に向かって構えた。


状況が飲み込めなかったのはほんの一瞬。


私の耳にもすぐに小屋に近づく足音が飛び込んだ!!


バッターンッ!!


開け放たれた扉から、燃え立つような怒りのオーラを纏わせてダルジャンが現れた。


ダルジャンっ!!


「!! フミィ!」


ダルジャンは全裸に剥かれ、猿轡を噛まされた私の姿に目を剥いた。


「貴様!! フミィに何をした!?」


ダルジャンは右手に持った長剣をエルビオンの鼻先に向けて振り下ろす。エルビオンは短剣でそれを受けた。


ジャキン!


刃と刃の触れる嫌な音が響く。初めて耳にしたその音に背筋がぞわりと粟立った。


触れれば切れる張りつめた緊張感が支配する。


「何をした? のろまな白獣宰相、それは愚問だろう。フミィの肌は吸い付くように滑らかで、赤ん坊のように柔らかだったぞ」


はっ!?


エルビオン!? なにを適当な事を言っている!? 未遂、未遂だからっ!


焦る私を余所に、燃え立つ怒りを映していたダルジャンの瞳から一切の色が消えた。


ダルジャン! 違う! 違うからっ!


「うおぉぉぉっっ!! 貴様ぁぁぁぁ!!」


っ!! そこからは息つく間もない剣の応酬だったと思う。それを直視する勇気はなかったけれど、耳に届く剣と剣のぶつかり合う音。ドラマや映画じゃない現実のそれは、もっともっと重く鈍い音で、身の毛がよだつ。


ダルジャンの長剣を、その刃渡りの半分も無い短剣でエルビオンが受ける。


私は脳裏に浮かび上がった血濡れのエルビオンの幻影を振り払った。


剣戟に背を向けて、耳を塞いで身を丸くする。確かにエルビオンは私を誘拐した男で、今まさに私を犯そうとしていた男。


それでも剣と剣での命の遣り合いは、現代社会で生きて来た私には重すぎて、心が軋みを上げる。


どうしたって命で償って欲しいとまでは思えなかった。


ガキンッ、キーンッ!


剣と剣のぶつかる音、その合間に土を踏む音が混じる。複数人の足音が小屋へと近づいていた。


「ダルジャン! 無事か!?」



「バーガン!」


バーガンさんの声を筆頭に、数人が小屋へと雪崩れ込む。


「……多勢に無勢か」


すると直後、小屋の中が煙に包まれた。それに伴って剣戟の音が止む。視界が奪われて、ダルジャンの姿も、エルビオンの姿も何も見えない。


「フミィ、あと一歩だったんだがな」


私の耳元に聞こえたエルビオンの呟き。耳に触れるかどうかの近さに感じるエルビオンの吐息。


シュルリと布の擦れる音がして、次いではらりと猿轡にされていた手巾が滑り落ちた。


しかし煙が充満する小屋内では、それをした人物の輪郭を見とめる事も難しい。


!?


その時、何かが唇をふわりと掠めた。

……エルビオン?

それは、瞬きをするくらいのほんの一瞬の出来事だった。けれど確かに、唇にエルビオンの温もりを伝えていた。


エルビオンはこの小屋から逃げおおせたのだと、私は朧に感じていた。


嬉しいのか、安心したのか、自分の感情もまるで煙に巻かれたみたいに取り留めなく掴めない。


だけどひとつ、エルビオンがその身を無傷で繋いだ事は良かったのだろうな、そう思った。


「フミィ!」


ダルジャンが煙を割って、一直線に私に駆け寄る。


「ダルジャン!!」


ダルジャンは自身の外套を脱ぐと、それに私を包み込んで掻き抱いた。


どこか一線を引き、身体的な接触を意図的に避けていた節のあるダルジャン。


しかし今のダルジャンは躊躇なく私を厚い胸に抱き締めて離さない。


「フミィ、すまない……。すまなかった!!」


! ダルジャンはエルビオンの言葉を真に受けている!


「違うの、ダルジャン! これは暴行未遂! 私、ダルジャンのお陰で助かったの!!」


「! そう、そうか!!」


目に見えてダルジャンはほっと表情を和らげた。


「ねぇダルジャン、私貴方に伝えたい事がある!!」


躊躇わず踏み出す勇気を持て。


怖がって、臆病風に吹かれて逃げる。日本でのたった一度の恋に破れて、この先の長い時を一人で生きようと決めつけてしまうのは早計ではないか。そもそも康太という男の亡霊に囚われる事自体が、あまりにも不毛なのだ。


踏み出す勇気は奇しくも今回の誘拐劇が与えた。けれど、きっかけなどは些末な事だ。気付けたならば、突き進めばいい。


諦めてしまうのは簡単だけれど、それはこの先の長い人生を考えた時あまりにも寂しい。


そしてダルジャンは私のこの先を懸けるに足る男だ。私の二度目の恋を捧げて、共に歩む未来を創りたい。


「なんだ?」


私を見下ろすダルジャンの瞳に映る私は凡庸で、別段に綺麗なわけでも、既にそう若いわけでもない。


とびきり整うダルジャンの美貌に最初は気後れした。だけど、今なら分かる。外見など所詮は上っ面。その内側から滲み出る本質にしか意味など無い。


一つ屋根の下、その人となりを知った今では、ダルジャンの美しさはその誠実で真っ直ぐな心こそだと思う。


けれど今、ダルジャンの目に映る私が、ダルジャンにとって少しでも女として魅力あるものだといい……。


「今夜。……そう、今夜伝えるね」


ここではそう、バーガンさんをはじめ数多の目がある。だからそう、今夜貴方に伝えに行くよ。


ダルジャンは私の言葉にゆっくりと頷いて応えた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ