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◇◇◇








「おっ! 体が軽い」


発熱して倒れた朝から三日目。この日は朝の目覚めからして軽かった。


手早く着替えを済ませると、意気揚々と炊事場に向かう。私がベッドの住人となっていた丸二日、枕元には常に甲斐甲斐しく世話を焼くダルジャンがいた。


ダルジャンが手ずから剥いた果物や食べやすく煮込んだオートミールなんかが毎食用意されて、食後の薬をきちんと飲み終えるまでダルジャンは私の側を離れなかった。


体調管理もできないなんて、私もまだまだ青い。


元気になったからにはダルジャンの恩に報いるべく、しっかり働きますとも。そうだな、今朝はポテトオムレツといこうかな。


意気揚々と麻袋からジャガイモを取り出した所で、背後から忍び寄る影。私が首を巡らせるより先に、体をヒョイっと持ち上げられてしまった。


言葉の通り、両脇の下に手を入れられてぶらんと借りて来た猫みたいに持ち上げられてる。


持ち上げた張本人、ダルジャンと向かい合わせで正面に視線が揃う。


「おはよう?」


朝だから先ずは挨拶。相変わらず足はぷらんぷらんだけど。


「おはようフミィ。それで?」


ダルジャンの笑顔は神々しいのに、ちょっとこわい? しかも、それでって何さ?


「それで? 病み上がりのフミィは何だって朝から炊事場でこそこそやってる?」


こそこそはやってない。


「正々堂々朝ごはんの準備です」


私の答えがお気に召さなかったのか、ダルジャンは眉を八の字に下げて困惑を滲ませた。


ぷらん、ぷらん。


あれれ? ダルジャンは私をぶら下げたまま炊事場を出て居間へと向かう。ダルジャンのおっきな手がワシっと掴み上げてくれているから、この体制に痛いとか苦しいとかは全くない。ないけれど、ぷらんぷらんぶら下げなくとも床に降ろすなり、抱き上げるなり(いや、やはりこれは遠慮したい)出来るだろうに、ダルジャンはどうしちゃった?


げしっ。


おお!


ダルジャンはお行儀悪く居間の扉を蹴って開けた。ダルジャンの足が居間に向いているのは分かっていたけど、閉まる扉をどうするかちょっとだけ興味深く窺っていた。正直、足で蹴って開けるは想定外だった。


居間のソファに私のお尻が着地した。


ぷらんぷらんと持ち上げていた割にダルジャンが私をソファに降ろす手つきは丁寧だった。


「フミィ、朝飯は俺にまかせろ。ジャガイモの味噌汁だろう?」


あ。


ダルジャンは私が右手に握ったままだったジャガイモをそっと取りさる。私が何か言うより先、ダルジャンはくるりと踵を返して炊事場へと戻ってしまった。


「……ダルジャン、私はポテトオムレツを作ろうとしたんだよ」


ぽつりと溢した呟きは正直、


「どうでもいいやね」


重要なのはダルジャンがここまで私を過保護に世話してくれること。これはもう、同居人に対する気づかいの範疇を越えている気がする。


自惚れでなければダルジャンは私に対して多少の好意を持ってくれている。けれど、ダルジャンに一歩踏み込もうという意図は感じられない。


私は思うのだ。ダルジャンにとって私はエセフェアリー。


外見で劣等感を抱くダルジャンの前に、その外見に全く先入観を持たない女が現れた。それはもう、初めて目にした妖精の様にも思えるだろう。


けれど私は生身の人間で、汚い所も狡い所もいっぱいある。夢の中の偶像が実体を伴う生身の女と知った時、ダルジャンに幻滅されることが怖い。怖いから、踏みださない。そう、私は一人で生きていける。


「フミィ?」


どうやら私は一人考えに耽っていたらしい。呼ばれて顔を上げればトレーにジャガイモの味噌汁を載っけたダルジャンが私を覗き込んでいた。


「あぁ、いい香り~。ダルジャンてばすっかり味噌の扱いもお手の物だね!」


「そうか」


私の言葉にダルジャンは満更でもなさそうに笑ってみせた。味噌に醤油、世界が変われど近い物はあるわけで、たまたま市場で遭遇した時それこそ飛び上がって喜んだっけ。


それを見たダルジャンが高価な味噌を樽ごと醤油を瓶ごと買い占めたのは記憶に新しい。


「ダルジャン、いつもありがとう。ほんとダルジャンには頭が上がりません」


急に改まった物言いになってしまったが、この世界で右も左も分からなかった私の手を引いて導いてくれたのはダルジャンに他ならない。


「やめてくれフミィ。俺はフミィが来てから毎日が楽しい。全て俺がしたくてやっているんだ」


向かいに腰を降ろしたダルジャンの朱色の瞳が優しく穏やかに私を包む。


熱でベッドの住人となっていた二日間、ずっと熱に浮かされていたわけじゃない。


ぐるぐると考えていた事がある。


そもそも、私が康太に感じていた好きは愛だったんだろうか?


悲しくて悔しくてさくらの胸で泣き明かしたのは事実で、康太の裏切りにそれだけ衝撃を受けた事も事実。


康太の明るさは眩しくて、多少の浅慮も受け止めて康太に尽くした。康太は私が巧く手綱を取らないと結構穴が多いから、仕事でも大きなミスに繋がる芽は早めに摘まないと駄目。


付き合いも長かったから、よく心得ていた。それを当然と思ってサポートに徹していた。


それは本当に愛だった?


私は大学入学と一人暮らしを間近に控えた春先に両親を事故で亡くしている。特別に仲良し親子というわけではなかったけれど、普通に仲の良い円満な家庭だった。


突然の喪失感にむせび泣き、けれどいつまでも泣いてばかりはいられなくて、前を向いて歩かざるをえなかった。


お母さん、今ならもっと色んな話ができたかもしれないね。


お父さん、今だったらこんな男性どう思う? なんて水を向ける事もできたかな。


私の中で私なりに昇華させて、既に二人は優しい過去になっていた。少なくとも私は、そう思っていた。


……本当は寂しかったのかな。康太の明るさに救いを見ていたのかな。


気を張って一人、自立した女をやってきた。


けれどここで、アルバンド王国でダルジャンと暮らす私は自然体なんだ。ダルジャンはまるで空気みたいに私に馴染む。


気を張らない。気を遣わない。


私が常に注意深く見守るなんてしなくとも、ダルジャンは宰相職に見合った職務能力を当然に備えているし、日常生活でもやれば私より家事スキルも高い。


私の一言で機嫌を悪くするなんて言うのも一度も見たことがない。


ダルジャンに康太のような危うさはない。自身の容姿で多少の劣等感がある事は知っている。


けれど卑屈さは無く、事実として受け止めるだけ。


こんなに心地いい同居生活を康太とだったら送れていない。そもそも一つ屋根の下、こんなにも自然体で暮らしていけるのは実はすごい事なんじゃないだろうか。


ゆるやかに寄り添って、こんな風に穏やかな日常を紡ぐ幸福もある。


ダルジャンの綺麗な綺麗な朱色の瞳に、今は向かい合う私の姿が映り込んでいる。


では、ダルジャンは?


ダルジャンの朱色の双眸に滲むのは無償の愛なのか。ダルジャンは決して見返りを求めない。


私はいつまでそれに甘んじるのか。


私は狡い……。








***








最近の俺は少しおかしくなってしまたんだろうか。


フミィの一挙手一投足、その全てに五感が刺激される。それと同時に醜い感情も湧き上がるのだ。


フミィを俺だけのものにしたい。その目に俺だけを映して、その微笑みを俺だけに向けて欲しい。


そしてその柔らかな肢体を俺だけに晒して欲しい。俺は柔らかなフミィの肢体にそれこそ昼も夜も無く溺れて過ごすのだ。甘美な夢は毎夜俺を至福へと導くのに、朝の目覚めは無情にも現実を知らしめて虚しさばかりが募る。宰相としての職務も陛下への忠誠もフミィへの膨らむ想いの前には些末にすら思えてしまう。


俺はきっと、おかしいのだ。




フミィが熱で倒れてから一週間。俺は渋るフミィを説得し、フミィの登城日数を減らすことに成功していた。フミィはこれまで俺と同じ週一日の休みで仕事を熟していたが、休みを一日増やし週5日の勤務とさせた。


よって今日一日フミィは休みだ。


俺としては週に数日、短時間の勤務で十分と思っているのだがフミィが引かない。


しかも聞けばフミィの世界では週休二日が標準的と言う。この世界では基本的には週休一日。もちろん家事都合なんかがあれば都度休みを取る仕組みだ。


知っていれば最初から週休二日とさせたのに。何故早く言ってくれなかったと問い詰めれば、休日出勤、早出残業どっちも当たり前で働いていたから全然気にしていなかったなどと軽い返答。


フミィはけらけらと笑い飛ばしたが、もっと自分を厭ってくれと、俺は声を大にして言いたい。


「もし!? ダルジャン宰相閣下!?」


グリゼダム将軍の後任人事で軍部と会談の帰り、王宮正門を目前にしたところで横から一人の女性が声を掛けてきた。


俺は外套のフードを深く被っていたのだが、女性の声は確信的だ。俺を知る人物だろうか?


女性の顔はどこかで見たことがある気もしたが、しかし思い出すには至らなかった。


「ええと、すまないが俺達は何処かで会っているか?」


俺の答えに女性は少し寂しそうに微笑んで、緩く首を振った。


「……どうだろう? 何処かで会ったこともあったかもしれないが、あたいも忘れちまったよ」


女性の回答は全く辻褄が合わないが俺が口を開くより前、女性は表情を一気に険しくして俺の袖を引いた。


「それよりもちょいと話がある! たぶん事は急を要するよ!」


女性の態度に嫌な予感が湧き上がる。これはきっと、人に聞かれてはうまくない内容に違いない。


「……ここは人の目も耳も多い、王宮で聞こう」


俺は女性を促して足早に正門を潜る。女性は初めて入る王宮に終始落ち着かない様子だったが、宰相執務室に招き入れれば直ぐに襟を正して語り始めた。


「あたい、エルビオン様の言葉がどうしても気になって、トールに聞きに行ったんだよ。そしたら、そしたらっ! ……黒髪黒目の小柄な娘はダルジャン宰相閣下の大切な女性だろう!? 彼女、エルビオン様に連れ去られちまったよ!」


!!


「フミィが連れ去られた!?」


しかも連れ去ったのは、エルビオンだと!?


「それはいつの事だ!?」


エルビオンという名はあまりにも有名だった。


かつて、王都を一歩裏に入ればそこは法もルールもない無法地帯。国の治安維持の対策もなかなか功を奏さずに、足踏み状態だった。しかし、ここ7~8年で様相はガラリと変わった。


裏世界を牛耳り、圧倒的な統率力でもって統治を敷く人物が現れた。それがエルビオンという男だ。


国もずっと接触を試みていたが、正攻方でその人物に繋ぎを取る事が出来ずにいた。その男が、よりにもよってフミィを!?


何故? どうして? 何かの間違いではないか? 頭の中をありとあらゆる疑念が渦巻く。


女性の話はそれくらい俄かには信じられない、突拍子もない内容だった。


「あたいがエルビオン様に会ったのが午前。トールに会って、エルビオンが街を出たと聞かされたのがお昼頃さ」


目の前が真っ黒に染まる。心臓がけたたましい音を立て、滾る血が全身に巡る。


今は日も沈み始めようかという時刻。……フミィの誘拐から既に半日以上が経っている!


「……他にも知っている情報があれば、詳しく聞かせてくれ」


努めて深く息を吐き出す。そうしてゆっくりと息を吸い込んで、こちらもまた興奮気味の女性を椅子に掛けさせる。


気ばかりが急くが、俺も女性の向かいに腰を下ろす。焦っては事を仕損じる。まずは情報を集める事だ。


「エルビオン様は黒髪黒目の美しい女神に魅せられたって、そう言ってた。エルビオン様は裏の街で働くあたいら娼婦や下男にとっちゃ英雄さ。エルビオン様がこれまで何かに執着するのなんざ、見た事がないんだ。だけどエルビオン様は今回ばかりは本気さ、燃える様な目を見ればすぐに分かった。今まで築いてきた地位も功績も全部置いて、エルビオン様は行っちまった」


女性がやるせなさに、唇を噛みしめる。


「何処に向かったか、分るか?」


俺は女性の言葉でやっと、この女性の正体に思い当たっていた。けれど忘れてしまったと笑った彼女の手前、今更口に出すのは無粋だ。


「故郷に戻る、そう言ってたよ。エルビオンの故郷はあたいも知らない。けど、前に北の地は王都に比べるとずっと寂しい地だって、だけど俺が寂しいままでは捨て置かせない、その為の秘策があるって笑ってた。……これ以上は、知らないよ」


語り終えた女性の表情に、影が落ちる。俺に伝える決断はおそらく、女性にとって身を切るような覚悟だった。


それをしてくれた女性に、俺も誠意を持たねばならない。


「……貴方の名前は、何という?」


顔を上げた女性が、うっすらと笑みを浮かべた。


「あたいはターニャさ」


初めて知る女性の名。俺は商売だったとは言え、情を交わす女性の名すら知ろうとしなかったかつての己を恥じ入った。


「ターニャありがとう。よく、教えてくれた。この後はどんな境遇や職業の者も、アルバンド国民にすべからく政治の手が行き届くように尽力する」


今の俺に出来る精一杯の答え。そしてこれは、俺への課題だ。


ターニャの恩に報いるには、俺はこの後エルビオンという男以上の働きをして示すしかない。


「……ダルジャン宰相閣下、ならず者たちを遣り込めて裏社会を纏め上げたエルビオン様の統率力は神憑り的さ。でも、あんたの手腕にも期待出来るかもしれないね。それにしたってあんた、随分と人間味が出たよ。可愛い彼女を大事にしてやんな」


ターニャが目を細め、俺を見上げる。少しのバツの悪さを感じながら、俺はひとつ頷いた。


「ターニャ、俺は行かせてもらうが、貴方の保護に人を寄こす。このままここに留まってくれ」


俺はターニャを残し、政務室を後にした。


アルバンド王国の北……具体的な街はこれから精査させるが、長旅になるかもしれん。


俺の直属で動く隠密を急ぎ手配して、フミィの行方を探らせる。


同時にバーガンにターニャの保護を要請した。エルビオンという男が情報を漏らしたターニャへの報復に出るとは思っていないが、それでも犠牲を払ってくれたターニャを手厚く遇してやりたかった。


要人警護や保護が軍部の管轄というのもあるが、バーガンという男は存外そういった方面への気遣いが細かい。ターニャを任せるには適任と思えた。


優秀な隠密は数刻で行き先の報告を上げて来るだろう。それを待たねば、動きようがない事は分かっていた。


けれど心の内、すぐにでも駆け出したい焦燥を抑えるのに必死だった。


誘拐への怒りと、そして不甲斐ない俺自身への怒りで焼け付くようだった。


フミィと共に過ごしたこの一月、一人の時とは比較にならない程毎日が充足していた。


俺の人生でこんなにも微笑みの絶えない日々など、これまでなかった。


こんな風に誰かを想い、心が熱を持つ事もフミィが教えてくれた。


そして俺は阿呆にも、この安寧の暮らしが続くと信じていた。いや、本当は信じたかっただけかもしれない。


危機感に蓋をして、変化を恐れた俺の弱さが、ズルズルと現状に甘んじた。


けれど歪な共同生活に、永遠などありえない。奇しくも今回の誘拐が、俺に気付かせた。フミィが俺の元からいなくなる、その可能性を突き付けた。


永遠が欲しいなら、このままでは駄目なのだ。一歩を踏み出し、この関係にきちんと形を持たせなければ、フミィとのままごとのような暮らしにいつか終わりがくる。


「フミィ、必ず貴方を取り戻す!」


行方が割れ次第、すぐにフミィを救出する! フミィを即刻、俺の手に取り戻す! 


そうして今度こそ、逃げずにフミィと向かい合う。


俺の想いを告げ、フミィの愛を乞う。


フミィをこの手に、この胸に、抱き締めたい。保護者でも同居人でもない、俺はフミィと添い遂げたい。


「……愛するフミィを我が妻に!」




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